現在主流の「心の哲学」の嘘を暴く!! 意識の超難問



 心と存在


「心の哲学」の嘘を暴く!!


 




意識の超難問



心の哲学において

「私がある特定の人物であることはいかにして可能なのか?」 とか

「なぜ特定の意識する個人がたまたま私なのか?」とか

いった問題が『意識の超難問』と呼ばれています



簡単にいうと

「世界何十億の人間の中で、私は、なぜ私なのか?」

つきつめると

「自分」とはなんなのか?

「自己」とはなんなのか? ということです




オーストラリアの人工知能学者 ティム・ロバーツが

最初に提起した問題で


彼は【 「主観的経験は、脳から生じるのであろうか?」

という『意識のハードプロブレム」が解決したとしても

もっと巨大で根本的な問題が生じてしまう


それは「いったいなぜ私はある特定の個人の

脳に生じる主観的経験のみ経験できるのか?」

言い換えれば「なぜ特定の意識する個人がたまたま私なのか?」 】

と述べています





そこで「自己」というモノを考えてみましょう


トマス・ネーゲル的にいうと

「自分であるとはどのようなことか?」

を考えてみるということです



人間とそっくりに作られた精巧なロボットがあったとします


そのロボットは誰が見ても外見は人間

誰が見ても心があるとしか思えない


では、このロボットに心があるのかないのか

ということになります



そこで、そのロボットの心らしきものを

人間の心ではないので「心ではない」とみんなで定義したとします



だけど、誰が見ても、心があるとしか思えないとしたら

我々は、その存在に「心がある」と思い込んでしまうし


精巧につくられたロボットが、人間に完全にそっくりなら

我々は「人間だ」と思い込んでしまいます



仮に、みんなで「ロボットには心はない」

と定義したとしても


誰がみても、容姿も感情も人間そのものにしか思えないとしたら

「誰々はロボットである」ということも

同時に「誰々には心がない」なんてことも

分りませんよね



つまり、≪心がある≫なんていうことは

本人しか分らないということです


そうなると、誰がみても、感情としか思えないものを

「心ではない」と定義すること自体おかしいですよね(笑)





ではこのロボットは自己をもつのでしょうか?


自分とは「自分の心と体である」というなら

事故で手足を失った人の義手や義足は、どうだって話になります


またアンドロイドのように

半分が人間で半分がロボットのモザイクの場合


半分が自分で半分は自分ではないことになるのでしょうか?


それだけ自己の境界はあいまいということなのです





では、彼氏が彼女に「お前の全てがほしい」

「お前の頭のてっぺんから足のつま先まで全てを愛している」

と言ったとします


これに対し、彼女が「じゃ、私の腸の中にある

う〇こも愛してるんだよね。これも含めて私だからね」

と返します


そしたら彼氏は「汚いなぁ」と言うでしょう


すると彼女は「なんだ。結局、私のこと汚いと思ってるんだ」

なんてことになりますよ(笑)




人間の身体は80%が水分らしいですけど

その水分だって自分ですよ


そうでなきゃ自分はぺらぺらな薄い存在ってことになっちゃう(笑)





このように「自己の境界はあいまい」なわけです


ですが我々は、明確に「これは自分である」と決めつけて

自分と他人を区別します



明確に自他を区別できているからこそ

「俺の肩にふれた」とか

「俺の前に出た」なんていうくらいで喧嘩になるのです





では、他人と区別している「自分」とはなんでしょう?


それは、他人と区別しているところの自分こそ

≪自分とっての自分≫なのです



髪の毛がつやつやして綺麗だからって

親しくもない女の子の髪の毛を

許可なく触ったりしたら、大変なことになります


その子は「わたしの髪の毛に触らないで!!」

と怒るでしょう


怒られるだけならいいけど

痴漢として、警察を呼ばれてしまいます(笑)



ところが、その子が床に落とした髪の毛を踏んづけても

「あんたなんで私の髪の毛を踏んづけてんのさ!!謝れ」

なんて

そんなへんな話にはなりませんよね(笑)



これで判るように、自分や自己とは

≪これは自分自身であると決めつけて所有しているモノ≫

なのです


このモノには

物質的なモノと、精神的なモノがあって

精神的なモノが「心」とか「精神」とか呼ばれるモノです






但し、じつは、≪自分≫という言葉は

別の概念としても使われているのです



例えば、自分の身体の80%がロボットであっても

自分が自分であると認識できるとき

つまり意識できるとき

自分が存在しているということになります


では、なにが「自分が自分である」と認識させているのでしょうか?




また、一卵性双生児で見た目が一緒の兄弟同士でも

お互い「自分」と「あなた」を明確に区別しています


つまり「自分」と「あなた」を

明確に区別できるモノを所有しています



それはなんなのでしょうか?


答えは「記憶」です





自己=記憶 だとするとどうでしょう?


我々は、昨日なに食べたかでさえ忘れてしまうのに

幼稚園のときのことなんて、だいたいのことしか覚えていないですよね


つまり、自己=記憶 なんて言ったって

その記憶とはだいたいの記憶です



脳は電気信号によって活動しているのですから

その程度の記憶なら電気信号をコピーして


いずれヘッドホンみたいなもので

自分のクローンの脳に入力できるようになるかも知れません


( ヘッドホンというのでは

聴覚に限定された話なので

脳どうしを電極でつないで と言い換えた方が

いいかもしれませんが・・・ )





だいたいの記憶のあと、自分の考え方とか、知識とかを

クローンの脳に入力すればいいわけです


そうなると、人類は、永遠とは言えないまでも

少なくとも地球が滅亡するまでは

自分(=記憶)は生き続けられるのかもしれません






さて、以上のように「自分」「自己」とは

≪これは自分自身であると決めつけて所有しているモノ≫

≪「自分」と「他者」を明確に区別できるモノ≫

という別々の概念がごちゃごちゃになって


自分を「自分」として認識させているので


「自分」というものを難しくして

これまで明確に、解き明かされることがなかったと言えます





また、≪「自分」と「他者」を明確に区別できるモノ≫とは

普遍的というか科学的には

「記憶」だったり「DNA」だったりと言えますが


心情的には「霊魂」だったり

仏教的には「阿頼耶識」(あらやしき)だったりもするのです




テセウスの船と自己




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