テセウスの船と自己 ほんんど全ての宗教が 精神の他に、さらに根源的な精神=霊魂があって それを生命の本質と見なします そして、霊魂が善・清浄で 肉体は悪・不浄とする「霊肉(れいじく)二元論」を説きます これに対して仏教は 「空」(全ては変化してやまない。一瞬一瞬変化している) という立場から 「霊魂」のような固定的・不変的な自己の本質を認めません そこで「業」(行為)の集積体、いわば業エネルギーのようなものが 輪廻する自己の本質と考えます 釈迦は、すべてが「空」であるという立場から 不変的・固定的な自己の本質である バラモン教のアートマン(不滅の自己・霊魂) の存在を否定しました ところが一方では、バラモン教の「業」(ごう)や 「輪廻」という考えに立って 仏教という新宗教を創始しました そうすると「輪廻する主体」の存在が問題となります この「輪廻する主体」について 釈迦が没したあと様々な説が展開されました そして定着したのが「阿頼耶識説」です 阿頼耶識という無意識層に 身・口・意(心)の全ての「業」(行為)= 人間のおよそ一切の行為 が蓄積されていく という考え方です そして、霊魂でなく、この阿頼耶識いわば業エネルギーが 自己の本質であり、輪廻する主体ということです 釈迦の立場、つまり「空」という立場では 赤ん坊のときのあなたと 今のあなたが別の存在ということになってしまいます もっと言えば、今のあなたと 次の瞬間のあなたとは別の存在ということになります ところが、赤ん坊のときのあなたと 現在のあなたは、≪あなた≫としてちゃんと一貫しています これについて釈迦の立場では説明がつきません 仮に3年で、私たちの身体の全ての細胞が入れ替わるとしましょう しかし「3年経って細胞が入れ替わったんだから 今の自分は以前の自分とは違う だから、以前の自分がした借金は払わなくてもよいはずだ」 なんて話は通用しないですよね(笑) これに説明をつけたのが 「阿頼耶識説」(あらやしきせつ)と言えます 阿頼耶識(あらやしき)説においては 阿頼耶識という無意識層に 身口意(しんくい・意は心のこと)の 全ての「業」〔行為のこと。カルマン(カルマ)〕 すなわちその人のおよそ一切の行為が蓄積されていきます 今、あなたがが私のサイトの話を読んだという事実は 10年たっても50年たっても 10000年たっても消えることはありません トラウマなら、その人が死ねば消滅しますが 宗教というのは 永遠という時間軸において語るので ある事実は、自分の生命の中に永遠に継続されていく ということになります また、現世の阿頼耶識に蓄積された 「業」の善悪のプラスマイナスで、来世の果報(結果と報い)が決まる というのが阿頼耶識説です つまり仏教の生命学の基本は 霊魂による輪廻ではなく、業相続、業輪廻なのです 阿頼耶識説は インド大乗仏教の2大教派の1つ唯識派にはじまり その流れを汲む 法相宗〔ほっそうしゅう・華厳宗とともに奈良時代に栄えた宗派 平安二宗(天台宗と真言宗)の興隆により衰退 興福寺、薬師寺、清水寺などが法相宗の寺院 かつては、法隆寺も大本山の1つであったが、昭和25年に独立し 独自の聖徳宗となっている〕をはじめ 日本の伝統仏教各派が取り込んでいることから 大乗仏教の生命学の基本とみてよいでしょう 唯識派は 瑜伽(ゆが・ヨガ)の実践を重んじたことから瑜伽行派ともいいます 事物の全ては心の本体である識によって仮にあらわれた存在であり ただ識のみがあるという極端な唯心論の立場をとります 4世紀頃に登場しています アンドロイドのように 半分が人間で半分がロボットといった存在の場合 半分が自分で半分は自分ではないことになるのでしょうか? この問題は 西洋哲学では、かなり古くから論議されてきました 「テセウスの船」(「テセウスのパラドックス」とも) として知られています テセウスの船とは 【 クレタ島の怪物ミノタウロスを倒した後 テセウス(ギリシア神話の英雄)は、アテネの若者と共に 船(櫂が30本あったとされる大きな船)で凱旋した アテネの人々は この船を、後の時代まで保存したが 船の木材は、朽ちていく そこで徐々に新たな木材に置き換えられていき ついに、もとの木材は一つもなくなり 全て新しい木材に置き換えられた この船は、元の船と同じ船だと言えるだろうか? 】 という哲学的な問題で 歴史的には プルタルコス(帝政ローマのギリシア人著述家)が 紀元1世紀に書いたとする テセウスに関する文書の中に すでに登場する話であるといいます 例えば、自動車の場合 日本では車台番号の打刻されたフレームが 法的にはアイデンティティーを規定するとされています しかし、このパラドックスは 自己=阿頼耶識となると、解決されています 植物状態になり、自分に対する認識や 過去の記憶を失ったAさんがいたとします Aさんは、植物状態になる以前 「記憶を失って自分すら認識できないような状況になってまで 生きてなんていたくはない」と考えていて 『死ぬことのできる権利』 『死を選択できる人権』 『死に対する尊厳』を認めるべきだと思っていたとします こうしたAさんにとっては 植物状態になり、自分に対する認識や 過去の記憶を失ったAさんという存在に 「自己なんてない」ということになるかもしれません もっというと、その存在はもはや 「自分ではない」ということになるかもしれません 〔 ちなみに日本脳神経外科学会の定義によると 脳死と植物状態の違いは 植物状態では自発呼吸があるが、脳死ではそれがないこと 〕 しかし、Aさんの家族や友人にとっては そのAさんは、Aさんそのものです これは、家族や友人が Aさんに蓄積されてきた過去の行為 仏教的にいえば阿頼耶識を Aさんの自己だと見ているからだと言えます 自分の中にあるAさんについての記憶を Aさんとみなしているというというような薄っぺらなものでなく Aさんの阿頼耶識的なモノを Aさんの「自己」=「尊厳」とみなしているわけです こうしたAさんと、Aさんの家族や友人の間に生じる 「自己」についての違いと「尊厳」についての違いこそが 「尊厳死」の問題を複雑にしているのです すなわち、尊厳死の問題とは 記憶=自己と、阿頼耶識=自己とのギャップから生じている と言っても過言ではないでしょう 潜在意識の主体 意識の超難問 (ひとつ戻る) |
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