現在主流の「心の哲学」の嘘を暴く!! 潜在意識の主体



 心と存在


「心の哲学」の嘘を暴く!!


 




潜在意識の主体



心理学によると

人前で話をしようとすると緊張してしまう

タバコやギャンブルをやめたいと思っていてもやめられない

痩せようと思っていても本気でダイエットに取り組めない

眠りたいのに眠れない


このように 我々のほとんどの行動が

潜在意識に支配されているといいます



一般に意識と呼ばれている顕在意識は1割にすぎず

9割が潜在意識(無意識)であるという話さえあります



なので、意識や意志の力で

潜在意識は、治めることはできないと言われています



カール・ユング(1875~1961。スイスの心理学者・精神医学者

分析心理学の創始者)は

"人の意識は、潜在意識のめし使いにすぎない"と述べています




我々は、自分の意志によって行動している

と思い込んでいますが


意志によって行動できるのはほんの表層的部分にすぎず

その下には深海のような無意識層が存在しているということです


顕在意識はその海に浮かぶ氷山(表層的部分)にすぎないのです




なお、潜在意識を「無意識」とも言いますが

意識しすぎて緊張してしまったりするわけですから

無意識というより

意識ではコントロールできない強い意識という感じですよね




潜在意識には2つのあるようです


1つは

「表層意識では気づいていないが

自分の言葉や行動に大きく影響を及ぼしている意識」


1つは

「表層意識では気づいていないが

自分の言葉や行動に大きく影響を及ぼしている意識」


トラウマが関わる行動なんかがこちらでしょう


野球で、頭部にデッドボールを受けてから

内角の球が打てなくなった


ボクシングでハードパンチャーのパンチで

眼窩底骨折してから慎重になってしまった


これらは意識では「なんともない」と思っていても

無意識が記憶しているということです




もう1つは

≪意識しないようにしても、意識しすぎて緊張してしまう≫

といったように

「表層意識にのぼってくるけど

表層意識ではコントロール不可能な意識」



後者には、無意識という言葉は適切ではないでしょう







阿頼耶識説を唱えた

唯識派(インド大乗仏教の2大教派の1つ)では

「八識論」というのが説かれています



まず、対象に対応して

眼識、耳識、鼻識、舌識、身識という

五識が生じるとされています


五識とは、外界の様々な刺激に応じて

起こる感覚、知覚作用と言えます


これは、受動的な心の働きです



次ぎに、五識で得られた知覚、認識にもとづいて

意識という第六識が起こるとされます


仏教の意識とは、五識を統括する心の作用で

推理し、判断する知性の働きだといいます



但し、意識には

五識の対象となる客観的実体なしに

生まれてくるものも含まれるとされ


それが、夢や空想、平和や幸福や愛などといった

抽象的な概念です


〔 但し、これらも五官の体験のもとに起こる意識と同じで

過去の体験(=記憶)を、抽象化させているとされる 〕





第七識以下は

無意識(潜在意識)と呼ばれている領域です



第七識の「末那識」(まなしき)というのは

「深層自我意識」にあたります



末那識というのは、不変的、固定的な自己があると考え(我見)

このような自己に執着し、愛し(我愛)、高く評価して

他人を見下す(我慢)といった無意識の働きだとされます



自己とは具体的には阿頼耶識であり

変化してやまない阿頼耶識を

固定的にみてしまうのが、末那識という深層自我意識です




なお、お金や地位のある今の自分を

無意識的に固定化し

その自分を根拠に、他人を見下す心理が末那識である

というと


「他人を見下す心理が、末那識なんだ」

という誤解が生じるので


はっきりさせておくと

無意識的に、自己を固定化するのが、末那識です



なので逆に、今のダメな自分を、固定的にとらえて

悲観的になるという心理も、末那識と言えますし


「あいつは、昔こうだったから、今もこうだ」

と、他人を固定化してしまう心理も、末那識と言えます





要は、1つ1つの経験自体は

固定的・不変的でなのですが


≪総体としての経験≫ ≪総体としての自分≫

すなわち、阿頼耶識は

つねに変化しているということです

一瞬、一瞬変化をしているということです



にもかかわらず、無意識的に

自分あるいは他人を固定化しているのが

末那識と言えます





『意識の超難問』

「世界何十億の人間の中で、私は、なぜ私なのか?」

「自分」とはなんなのか?

「自己」とはなんなのか?

について


深層意識という視点から解答すると


末那識という深層意識が

自分を自分として固定化しているのです


だから、私は、徳川家康でも、ケネディ大統領でも

となりの家の猫のミケでもなく

私なのです



そして、この末那識のさらに奥に、阿頼耶識があるのです





西洋における無意識(潜在意識)の研究は

オーストラリアの精神科医の

フロイト(ジークムント・フロイト・1856~1939

国際精神分析学会の創設者)

が起点となっています


つまり、19世紀の終わりから20世紀になって

ようやく潜在意識の存在を知ることになったのです



これに対し、仏教においてはすでに

4世紀に、唯識派が

これだけ精緻な無意識(潜在意識)を解明しているのです







潜在意識の主体、真の主体が

仏教的にいうと「阿頼耶識」ということになります



目の前に、幅の広い大きな道路があったとします

信号機はない 車がバンバン走っている


あなたはどうやってこの道路を横断しますか?


もちろん、右見て、左見て

車がこないことを確認して渡りますよね


過去の経験にもとづいて確認し、横断するということです



でも、そこで恐い思いをすると、それがまた新たな経験となり

過去の経験に積み重なっていきます



こうして、総体としての経験というものはつねに変化しているのです

さらに言うと、自分というものはつねに変化しているのです




1つ1つの過去の経験は

トラウマ(過去に経験した心の傷)が意識に刻印されるのと同様に

消えることも変わることもないですが


総体としての経験の容器、自分という容器は

つねに変化しているということなのです


これが、仏教的にいうと、阿頼耶識であり

潜在意識の主体ということです






では、西洋哲学でいう

「主体」とは何か? というと「顕在意識」の主体です


その正体は

≪救済原理(自分を成り立たせている根源的な論理)と一体の主体≫

≪存在の根拠と一体の主体≫ に他なりません



人は、≪自己の救済原理≫ ≪自己の存在の根拠≫のもと

すなわち【主体性】のもと、価値判断し、行動しています



この事実から

≪自己の救済原理≫ ≪自己の存在の根拠≫こそが

「主体」そのものであることがあきらかです




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