生命と心の関係 心の哲学というのは≪脳と心≫という視点だけで 「心」をとらえようとしていますが 「心」の本質を、哲学したいというなら ≪生命と心≫という視点も忘れてはならないはずです 釈迦は、衆生(生きとし生ける存在)=生命 を 「五陰仮和合」(ごおんけわごう)と定義しています 五陰とは、生命を構成する五つの要素で 仮に和合したものとは 仏教では全てを「空」(変化してやまない 一瞬一瞬変化している)とみることから 生命を五陰が仮に和合したものとみるわけです ● 五陰 生命を構成する五つの要素で 色は生命の物質的側面。他は精神作用で 受〔眼、耳、鼻、舌、身、意(心のこと)の六根を通し 外界を受け入れる作用〕 想〔受で受け入れたものを知覚し、想いうかべる作用〕 行〔想にもとづき何かを行おうとする衝動的欲求〕 識〔受から行までを統括する精神の根本〕 すなわち、釈迦の考えからいくと 「生命」とは 『色』と『心』(受~識)が一体となったものをいうわけです そして 生命の物質的側面と、精神的側面は 2つにして2つにない切り離せない。一体であるということを 仏教では「色心不二」といいます 例えば、病気で熱があれば、心も不安となり 心に不安があれば表情も暗くなる 気が張っていると、免疫機能が活発となり 身体が疲労していても、風邪をひかない などといったことです また「大乗仏教」では 「十界論」という生命論が誕生しています 「十界論」とは、自己のなかに10種の命があるというもので 低い方から6つは 地獄(苦しみ、怒りの最低な命) 餓鬼(むさぼり) 畜生(おろか) 修羅(嫉妬・傲慢) 人(平らかな気持ちを持てる命) 天(喜びの命) です 一般の衆生(人間)はふだんは この6つの命が 環境にふれて(縁にふれて)現れては消え 現れては消えしているとされます これが≪六道輪廻≫です ちなみに縁にふれて色々な命が現れ消えしますが もどる場所に違いがあります ふだんあるところの命が、その人の「境涯」ということです そして仏教とはつまるところ 六道輪廻、つまり「縁(環境)にふりまわされている自己」から 「主体的な自己」を目指す教えと言えるでしょう 主体的な自己とは 声聞(しょうもん・仏教を学び無常すなわち空を悟った境涯) 縁覚(えんがく・仏教以外、たとえば自然界などから空を悟った境涯) 菩薩(利他の境涯) 仏(智慧と慈悲の最高の境涯) です 重要な点は 「十界論」でとかれる10種の「生命」あるいは「境涯」というのは 「心」ではなく、「心」と「身体」の両方に現れるものです 苦しみ、怒りの境涯の人は 心に、苦しみ、怒りがあるばかりでなく 苦しみ、怒りが、身体にも現れてくるということです 昔から「意識」というものには 本人にしか知ることができないない主観的な意識と 第三者からも観測できる客観的な意識があるとされ 「意識の二面性」と言われてきた ということですが 重要なことは「心」が 第三者から観測されようが、されまいが 心とは、心ばかりでなく 「生命全体」に現れてくるということです そもそも『第三者が確認できない心』とか 『主観にしか確認しようのない意識』なんてあるのでしょうか? 強い相手と喧嘩する、険しい岩峰をよじ登る こういった危険な行為に挑もうとすると 脈拍が上がります これは、脳が身体に対して 「そんな危険なことはするな」という警告を出しているのです そして、この警告によって 身体というのは、すくんだり 動けなくなったりする仕組みになっているのです 感情が昂(たかぶ)ると、脈拍が高くなります すると声が震えたり、顔がひきつったりします つまり、心の興奮は 生命全体の現象としてあるわけです そして、こうした感情の変化には それに伴う 脳波、心拍数、脈拍、呼吸、血流の変化 アドレナリンやセロトニンといったホルモンの分泌 などいった生理作用が 当然、あるでしょうから 表面的には、第三者からは観測できない意識であっても 「第三者が観測不能」とまでは言えないはずです いずれにせよ ≪心が現れる≫といっても どこに現れるかというと ≪身体に現れる≫しかないわけです(笑) こうして生まれている『心』が 脳や身体といった物理的なモノに 何の影響も及ぼさないといか 還元されないというなら どうやって我々は、生命活動をなしているのでしょうか? ということです 意識の境界問題 潜在意識の主体 (ひとつ戻る) |
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