意識の境界問題 心の哲学には 「意識の境界問題」というものがあります 宇宙は、素粒子のレベルから 原子、分子というレベルを経て 細胞、組織、個体、生態系 さらに惑星、恒星系、銀河、宇宙 という様々なレベルで構成されている にもかかわらず 意識体験は、なぜ、脳という宇宙全体の階層構造から見て 中途半端なレベルで起きているのか なぜ素粒子というミクロのレベルでも 宇宙全体というマクロなレベルでもなく 中間の個体レベルでおきているのか 意識体験の境界はどのようにして決まっているのか という論題です こういう話は、答えがないですよね なぜ、個体レベルで心がうまれているか → 生物だからじゃないの で、終わりです(笑) 現に、レベル0の「個」(素粒子)同士が いくつか結びついてレベル1の「個」(原子)を レベル1の「個」同士が結びついて レベル2の「個」(分子)といったように結びついてゆき どこかのレベルで「意識」が生じるのではないとか といった程度の話しかありません そこで、全く別の観点から 「意識体験の境界はどのようにして決まっているのか」 というのを語っていきましょう 日本というコミュニティー(共同体)においての 「善悪」基準があり コミュニティーの人=日本人に 「善悪」の意識が生じています 例えば「子供は国の宝である」 「子供の命はなにより優先され、守られるべきである」 という意識が 日本というコミュニティーにはあります では飢餓が苦しむアフリカの国の人に そのような意識はあるでしょうか? 【世界では1分間に17人が飢餓が原因で亡くなっている そのうち12人は子供】(日本国際飢餓対策機構) ということからするとありませんよ なぜないのでしょうか? それは、飢餓が苦しむアフリカの国という コミュニティーにおいては 自分が生きることで、精一杯だからです それから、日本にいるときは とても紳士的で、子供に対して思いやりのある人が 東南アジアへ買春旅行に行く 中学生くらいの女の子とセックスする目的で行く なんていう事実もあるでしょう このように「意識」というのは あるコミュニティーにいるときと 別のコミュニティーにいるときとで違ってくる つまり、「意識」というのは、コミュニティーを≪境界≫として 違ってくるということです ≪究極の問い≫への解答 生命と心の関係 (ひとつ戻る) |
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