≪究極の問い≫への解答 オーストラリアの人工知能学者 ティム・ロバーツが提起した 「意識の超難問」 (自分とはなんなのか?) については前述しましたが 哲学には、さらに根源的な問題があります ≪究極の問い≫と言われている難題です 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」 「なぜ世界があるのか?」 「なぜ無ではないのか?」 といった問題です ある絵を観て「美しいなぁ」と感じても もっと美しい絵を観たら、前の絵はそうでもなくなります 1+1の答えが永遠に2であるように 真理は永遠性と絶対性を持ちますが、価値にはそれがありません また、価値は創造できますが、真理は創造できません すなわち、価値がおよそ≪主観性≫なのに対し 真理とは≪客観性≫なのです とはいえ 真理的なことにしても ≪人間という主観の認識において≫ のことと理解すべきでしょう 例えば 天動説が正しかったのが 地動説が正しいとされるようになったり 冥王星が、惑星でなくなったりしましたが これは 肉眼あるいは精度の低い望遠鏡で観察していた主観(=人間)が 精度の高い望遠鏡で観察する主観へと、進化したからと言えます まして、人間とは別の主観が現れ 我々の世界を定義したとき あらゆることが違ってきちゃうのかもしれません 例えば、火が燃えているという現象も 別の主観からは、全く別のことと認識されるかもしれない それこそ「概念」なんて 人間の作り出したものなので 「物体」という概念も 別の主観に通用するかあやしいです さらに「究極の正解」「究極の真理」なんてことになると 宇宙の法則、全て理解しなければ 語ってはいけないはずです しかし、科学で分っている宇宙の法則など ほんのわずかだと言われています 人間は五感で認識できるモノやコトしか利用できません 電気も「雷」や「静電気」を我々の五感でとらえることができたから 利用できたわけです 五感で認識できないモノやコトは存在としてあっても 人間にとって存在しないのと等しいのです 「究極の正解」「究極の真理」なんてことになると 宇宙の法則、全て理解しなければ 語ってはいけないはずです 以上は、私が「真理や価値は人によって違う」という ≪相対主義≫を言っているのではなく そもそも≪正解=真理≫を出せない と言っているのです 正解がないのではなく 正解を出せない、決められないということです また、≪真理の独立性を認めず 主観に関わらない客観的な真理は存在しない≫ とする立場を「主観主義」といいますが 「主観に関わらない真理は存在しない」 のではなく 宇宙全ての法則が分からずに 一部だけで真実を語っても 主観になってしまううということなのです その意味において ≪究極的に理解する≫ ≪全てが解る≫ということは ≪自分が何も解らないことが解る≫ということなのです 【 クオリアを葬る 編 】 説明のギャップを葬る 意識の境界問題 (ひとつ戻る) |
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