説明のギャップを葬る 心の哲学において、様々に議論されてきた ≪説明のギャップ≫という問題があります これは、青い海を見ているときの神経状態には 青い海を見て、感動している 心的現象が描かれていない 物理的記述と心的記述には 大きなギャップがある という問題です ≪心の哲学≫というのは 結局、この問題を土台として、築かれた哲学論 ということになります 結論をいうと この≪説明のギャップ≫というのは 「青い海を見ている」という知覚・認識と その知覚・認識に対する価値判断の 結果としての「感動」の違い すなわち「知覚」(事実の判断)と 「感情」(価値判断)との違いが判っていないところから おきている問題にすぎないということです 感情論 より抜粋しておきます 竜太 感情を辞書で引くと ≪「快い」「美しい」「感じが悪い」などというような 主体が状況や対象に対する態度あるいは価値づけをする心的過程≫ (広辞苑) ≪ある状態や対象に対する主観的な価値づけ 「美しい」「感じが悪い」など対象に関するものと 「快い」「不満だ」など、主体自身に関するものがある≫ (三省堂 大辞林) とあるよ 酔恭 感情って喜怒哀楽ばかりでなく、苛立ち、狼狽、困惑、動揺、驚き 苦悶、苦悩、不安、心配、落胆、不幸、絶望、失望、嫌悪、憎悪、敗北感 屈辱感、敵意、悪意 、拒絶 、反感、驕慢、憤慨、葛藤 孤独感、疎外感、寂しさ、罪悪感、羞恥、優越、劣等、軽蔑、侮蔑、恐怖 不機嫌、可哀想、感傷、嫉妬、不愉快、辛い、ホームシック、衝撃、悲痛、悲哀 面白い、つまらない、気が休まる、気が滅入る、癒される、安心、幸福、優しさ 思いやり、満足、希望、好き、憧れ、 愛、同情、共感、哀れみ… たくさんあるよね ≪嬉しい≫と≪楽しい≫では 似ているような心の状態を表すけど、少し違いがある 竜太 そのように心の状態にちょっとずつでも違いがあるからこそ 色々な言葉があるのだろうど、でも基本的には3つしかないと思うよ 酔恭 3つ? 竜太 感情とは、1種の防衛手段で 自分にとって「是」か、「非」か 「どっちでもない」か の3つしかないってことだよ つまり、刺激に対して、自分が「是」のとき、安心なときに 楽しいとか、嬉しいとか、おもしろいなどといった感情が起こる 「非」のとき、危険があるときに、苦しい、怖い ムカつくなどといった感情が生まれる また、どっちでもないとき・なにもないときには 無感情であったり、平常心であったりするのではないかと思う 無感情は、どちらかといえば「是」の感情に入る だから、さらに言うと "感情とは、刺激(情報)に対する「是」か「非」の反応でしかない" ということになる 酔恭 なるほど・・・・ 脳が、自分の生命に危険があると感じると ムカつくなどの感情を発動させたりしているわけだね 竜太 感情が"基本的には3つしかない" "刺激(情報)に対する「是」と「非」の反応でしかない" となると 我々が思っているような感情とは全く違うよね 我々が思っているような感情は 感覚(知覚)を前提として考えているものだと思うよ 酔恭 どういうこと? 熱いとか、冷たいとか、美しいとか、硬いとか うるさいとか そういったものが「知覚」だな 竜太 そういった「知覚」と 「感情」とをごちゃまぜに考えているから 誰1人その誤りに気づかない 心理学という分野ができても 結局、感情について解き切れないでいる と思う 「寒い」(知覚)と、「やだなぁ」(感情) 「うるさい」(知覚)と、「頭くる」(感情) が同時に起きていることから ごちゃまぜに考えてしまうのかもしれない 酔恭 なるほど・・・・ 「寒い」とか「暑い」なんかは はっきり知覚だと分るからまだいいけど 可愛いとか、美しいとか、美味しいとかなんて 知覚か感情かよく分らない 竜太 「可愛い」「美しい」「美味しい」は 基本的には、知覚なんだけど これを感情だと勘違いしてしまうわけだよ 「知覚」とは、五感を通じて得た情報をもとに脳が行う 「このものは何であるか」「これはどのようなものであるか」 という真理の判断 (但し、知覚されたものは あくまで個人の事実であって、真理とは限らない) これに対して感情は「可愛い」「美しい」「美味しい」 という知覚に対する「是」「非」という価値判断ということになるよ 酔恭 知覚が「認識」の手段なのに対し 感情は「価値判断」の結果ってことだな 竜太 そうだね 「可愛い」「美味しい」が いつも「是」となるとは限らないよね 「あの子、私よりも可愛いなぁ くやしい(T_T)」とか 「このラーメン、うちの店よりうまい やばい」とか 「非」の場合もある 酔恭 広辞苑と大辞林は「美しい」や「感じが悪い」を 感情の例としてあげてるけど「感じが悪い」も知覚と言えるね 「感じが悪い」がいつも「非」であるわけではない 「あの人感じ悪いわ (よしよし) この面接、私の方がだんぜん有利 (やった!!)」 となることもある 以上のように 知覚・認識とは、情報に対する「真理」(事実)の判断 感情とは、認識に対する「価値」の判断 であるということです 説明のギャップの問題を浮き彫りにしたという フランク・ジャクソンの「マリーの部屋」の トリックも明かしておきましょう 「マリーの部屋」というのは 【 白黒の部屋で生まれ育ち この部屋から出たことのないマリーという女性は 「色」というものを一度も見たことがない マリーは白黒の本を読み 白黒のテレビを通して世界中の出来事を学んでいる また、光の特性、眼球の構造、網膜の仕組み どういう時に人が「赤い」という言葉を使うのかなど マリーは視覚に関する全ての物理的事実を知っている さて、彼女が白黒の部屋から解放されたとき あるいはカラーテレビになったとき、つまり初めて色を見たとき 彼女は何か新しいことを学ぶだろうか? 色を経験することでマリーが何か新しいことを学ぶとしたら クオリア(経験による質感)が存在するということになる マリーが色を知覚するということについての 全ての科学的知識を持っていたとしても マリーが世界を見るという経験によって 新しいことを学ぶのは紛れもなく明らかである なぜなら、マリーは最初に赤い色を見るとき 「わぁ」と言うであろう 「わぁ」と言わせるのはやはりクオリアでなければならない そうであれば、彼女の以前の知識(物理学の全ての知識)は 不完全だったと言わざるをえない それゆえ、全ての物理情報で事足りると考える 物理主義は「偽」である 】 という話です 要するに、物理学の全部の知識をもつマリーが はじめて「色」(クオリア)を体験したときに 「感動」があるのは 物理学の全部の知識は、完全な知識ではないからだ という主張なわけです しかし「マリーの部屋」は マリーが、既存の物理学の知識のみならず 宇宙の法則の全てを知り得ていたという前提でも、成立する話です 例えば、あなたが北海道に旅行するとします なかでも「摩周湖」はとくに見たい景色であったとします あなたはガイドブックの写真や、ネットの写真で 展望台からの摩周湖の風景を、脳にインプットしました 実際に、展望台から摩周湖を観たとき あなたは「わぁ すごい」という心の声をききました つまり、物理学の全部の知識であろうと 宇宙の法則の全て であろうと それに照らして、世界(りんごや摩周湖)を、知覚・認識するのと その知覚・認識に対する価値判断の結果としての「感情」とは 別のことなのです それから「愛」という概念を考えると 知覚と感情の違いがよく理解できます 弱者(刺激)→ 哀れむ(反応)を 「愛」という言葉で表現している場合、その「愛」は、感情としての「愛」です ただ「愛する」とか「信じる」は、じつは感情ではなく「意志」だと思います 意志とは、欲求に近いものです なぜなら、相手を愛するのも こっちを好きになってほしいという欲求があったり 信じるって「そうであってほしい」とか 「そうなってほしい」とかいうものだからです なので、≪相手の未来を信じる≫という「愛」は 意志的な愛と言えます それから単に人が「愛」と言った場合 「愛」という抽象的なもの(空間に位置を持たないもの)を イメージすることによって「是」の感情が生じているときで 「是」の感情が感情であって その「愛」自体は、感情ではなく「想像」(刺激の1種)だと思います 大森荘蔵の「重ね描き」 ≪究極の問い≫への解答 (ひとつ戻る) |
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