大森荘蔵の「重ね描き」 日本の現象主義の哲学者に 大森荘蔵〔1921(大正10)~1997(平成9)・ 東京大学教養学部教授などを歴任〕という人がいます 現象主義とは 要するに「このケーキ美味しい」→ 脳の中の出来事かもしれない ケーキの実在性は証明ではない といった屁理屈です(笑) ほぼ唯心論と言ってよいです 唯心論とは、心だけを、世界の本源的な存在とし 外界は、自己の心で認めた仮象の世界にすぎないと考えます 大森によると、心的な知覚風景(知覚像・表象)の描写と 科学的な描写(物理現象としての描写) とは、別々に描写され 両者を重ね合わせることによって 知覚という経験が成立しているといいます この彼の理論は「重ね描き」と呼ばれます 重ね描きでは、知覚風景の描写が先であり 科学的な描写は、知覚風景の描写の説明であるといいます カントの認識の過程は、以下のとおりです 【 対象により受動的な感性が触発される 「感性」は対象を、時間と空間によって秩序づける ここに直観が成立する つまり認識は、外部の物体からの刺激を 感性によって直観することからはじまる 直観から得られるのは、曖昧なイメージ(表象)にすぎない そこでイメージを「悟性」(理論理性)によって カテゴリー(分量・性質・関係・様相)に関連づけ、整理する必要がある すなわち、直観を能動的な理性(理論理性・悟性)が 量や性質とかといったカテゴリーを用いて整理する必要がある それによって対象は、特定のものとして認識される 〔 人間の感性の働きにより直観されたものは 整理、統合されていく。そのとき用いられる枠組みがカテゴリー 〕 理性が有効に働のは、感性が及ぶ範囲=時間と空間 に限られる 感性が対象を秩序づけるときの 「時間」と「空間」というカテゴリー(形式)と 理性が対象を整理するときの 「分量」「性質」「関係」「様相」といったカテゴリーは 経験に先立って、つまり生まれつき =生得的、先天的、先験的に=アプリオリとして 認識能力に存在している 認識は、感性によって得られたイメージを 理性によって再構成する作業を経て可能である= 対象は主観によって構成される 】 なので、大森の「知覚風景(表象)の描写が先である」 というのは、べつに斬新な考えでなく、むしろあたりまえの考えです では、大森の理論の肝は一体なんなのか? ということになります それは、表象(イメージ)という概念を拡張されたところにあるのです 知覚風景(表象)の描写には、特定の視点や感情が含まれている 科学的な描写には、それが含まれていない という話になっているのです つまり 知覚風景の描写=心的な描写 科学的な描写=脳の物理現象における描写 という定義のもとに話を展開しているわけです 認識は、外部の情報を感覚器官が受け取り 脳がその情報を処理して生じると 科学では説明されますが こうした、客体の実在を前提とする二元論は 間違えであると大森はいいます 科学的な描写が、真の世界の描写で 表象は、二次的に生じた幻のようなもの という考えは、さかさまで 科学的な描写は、必ず表象に 重ねて描かれるものであり 独立して描くことはできないといいます 例えば「ボールペンがある」というのは 事実として実在するのではなく (=現象主義) 科学的な描写によって 知覚像(表象)のボールペンと 同型であり、同位置にあると定義され 実在のボールペンとして知覚されているというのです 物体 → 眼球 → 視神経 → 脳 という科学の「知覚因果」に対して 表象(心的な描写)→ 脳の物理現象における描写 → 物体 というように 大森が想定した視覚構造は 知覚因果説の逆で これを大森に言わせると 【 因果系列を、今現在という一瞬に 「逆透視」したのが今現在の視覚風景 】ということらしいです 重ね描きは、心身の問題に対して提唱された考えだといいます 知覚風景の描写には、特定の視点や感情が含まれている 科学的な描写には、それが含まれていない 知覚風景の描写=心的な描写 科学的な描写=脳の物理現象における描写 という定義のもと 脳が、心的なものを作っているのではなく 心的なものが、脳に作用もしていない 心的なものと物理的なものは個別に描写するしかなく 互いに互いを還元することはできない 重ね描きという方法においては 心と脳の関係という難問は解消する 現代の脳生理学の知見は訂正の必要がない と主張したといいます 心身並行説に似ていますが 並行説が、心と脳は別とする二元論なのに対し 大森は、現象主義=一元論の立場にあります また、現象主義なので、脳が実体とか 心が実体とかいう考えはなく あくまで、現象(意識の中に現れるもの)だけを実在とする 一元論者なわけです その上で、表象(知覚像)の描写と、科学的な描写とは 1つの知覚経験=現象のもつ 2つの側面であるということになるのです また、大森によると「知覚されている」とは 「思いをこめて知覚されている」ことであるといいます そこから「立ち現れ一元論」というのを唱えています 例えば、ある車を見るとき 同時に、内部を含めた全体像や 車そのものの概念などといった 向こうにあるものが立ち現れてくる また、過去に所有した車への記憶や この車に対する未来への思いなども立ち現れてくる といったような話を前提として 【 このように、今の視覚風景には 向こうにあるものへの思い 以前・以降への思いが、立ち現れ、現前している 思いは、空間的な向こう側にも 時間的な以前、以降にも涯てが無い だから、視覚風景とは常に四次元の全宇宙世界の風景である 全ての視覚風景には、全宇宙への思いが立ち現れているのである 】 これが彼の「立ち現れ一元論」です そもそも現象主義者の話に 間違えもへったくりもありません 現象主義なんてものは学者が学者として ご飯を食べていくために理屈をこねたというだけの話です とはいえ、大森の間違えについて書いておくと 彼もまた 知覚風景の描写には、特定の視点や感情が含まれている という「価値判断」「感情判断」と 科学的な描写には、それが含まれていない という「知覚・認識の判断」との違いを理解せず ごちゃまぜにして 論理を展開してしまっているところにあります 「特定の視点」や「感情」が含まれている知覚判断など もはや知覚判断ではありませんよ(笑) 彼女が欲しいとか お腹が減っているとかいう環境や状況と一体の主体が 大森的にいうと、特定の視点をもった主体が 事物を認識し、価値判断をする そこに感情が生まれているのです じつは、カントの「趣味判断」【 趣味とは、美しいということで 趣味判断とは、美や芸術に関する判断をいう 】もそうなのです 「趣味判断」においては 感性によってとらえた事物のイメージ(表象)が 悟性(具体的な認識)に行く前になされている なんていう話になっているのです これは、美・醜=快・不快 という価値(=感情)の判断が 認識判断の中に組み込まれてしまっている ということです つまり 感情が、感性と悟性の中間にある というわけの分らない論理ということです 「美しい」が視覚体験だから感性によるイメージと 悟性という具体的な認識の間に組み込めますが 「美味しい」(味覚)という判断は どうやったって組み込めませんよね(笑) 「美しい」と「美味しい」は どちらも五官を通して得られる心の満足 という意味において、差なんてありませんよ ついでに「重ね描き」というなら このように↓考えられませんか? 社会契約論を最初に唱えた イギリスの哲学者 ホッブス(1588~1679)は 視角により得られた情報が、映像化される この映像、イマジネーションが、記憶であり思考である また映像化する途上で認識対象に名称を与えることが可能である 名称が与えられた対象は 名称を思い出すことで記憶として呼びもどされる と、考えました 「重ね描き」というなら 情報が、映像化=知覚 されたあと それに対する価値判断がおき、感情が生じますが それまでの間に 知覚された情報が「なんであるのか?」 という認識作用があるはずです その認識作用において 例えば、コップを識別する場合 コップではないものや コップに似たものなどを 次々に認知していくなかで ガラスでできているモノとか、水を入れるモノとか 日常使うモノとかいった 一般概念(カテゴリー)に はめていくように分けていき 存在をコップとして識別し、認識しているはずです この一般概念(カテゴリー)には 画像と、意味内容とが、含まれているはずです そして この物体は 液体を入れることができる→ 液体を長い間保留することができる→ 液体を口に含みやすい形をしている→ コップ というように 画像と、意味内容において 検索が並行して行われ 画像の検索の結果と、意味内容の検索の結果とが 「重ね描き」されて コップがコップとして認識されるというわけです クオリアを葬る ① ![]() 説明のギャップを葬る (ひとつ戻る) |
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