クオリアを葬る ① 整理しておくと クオリアとは 「主観的体験が伴う質感」のことで 「色」「形」「音」「香り」「味」「痛み」「恐怖」「喜怒哀楽」 などといった、我々の知覚や感情の全てが、それにあたる このクオリアに関して 既存の物理学は、とりこぼしている というのが 「心の哲学」における クオリアについての説明と、物理学に対する批判です そもそも意識は、すべて≪主観≫だろ 意識に、≪主観≫も≪客観≫もないだろ という話になり この時点で「クオリア」という 概念自体が怪しいのですが それを言うと話が終わってしまうので、そこは置いておきましょう また、クオリア問題では 脳を解剖しても 私の見ている「赤」という「質感(クオリア)」を 取り出すことができない という主張がよくなされますが、これも「却下」です なぜなら、クオリアとは関係ない 単なる事実の認識も、現在の科学では、脳を解剖しても 取り出すことができないからです 脳を解剖しても この脳が、どんな「赤」(クオリア)を見ているのかは分からないが 脳を解剖したら この脳が、≪りんごを見ていた≫という事実は分かる なんてことはないでしょ(笑) すなわち、≪脳の解剖≫とか ≪脳波の測定≫とかいう視点からいうと クオリア(質感)のみを 物理学が取りこぼしているという主張は 「虚偽」「言いがかり」「とんちんかん」ということになるわけです ≪脳波の測定≫でいうなら 単に事実を認識している意識より 「うきうき」した心の動き=感情= クオリアのほうが、よほど判るというものです クオリアとは、なんなのか? これについて、本やネットで調べてみると 8割、9割が、りんごの「赤」などを、例にした『知覚』の話です 残りの1割、2割が 楽しいの「ウキウキ」とした感覚も 怒りの「ムカーッ」とした感覚も全くない 哲学的ゾンビの話です つまり『感情』の話です この2つ(感情と知覚)が一緒に語られることによって 意識というものの本質をねじまげていたということは 説明のギャップを葬る にて、記述したとおりです 【マリーは最初に赤い色を見るとき 「わぁ」と言うであろう】なんて話は 「赤」がクオリアなのか 「わぉ」がクオリアなのか、よく判りませんよ(笑) 「心の哲学」を専門とする人 心の哲学者を自称する人たちですら クオリアについてよく判っていないはずです だから、ジョン・サールや 茂木健一郎氏のような 意識=クオリア というように 意識とクオリアを同一視する立場まであるのです しかし 意識=クオリア というなら クオリアなんて 人を惑わすだけの概念でしかない ということになり クオリアなんていらないだろ!! という話になりますよ(笑) また、意識は、脳から生まれるが 意識は、脳になんの影響も及ぼさない なんていう「随伴現象説」について言えば それでは、脳で生まれた「知覚」(寒い)に対する 価値判断の結果である「感情」(風邪ひいちゃう)というのは どこから生まれるのですか? それこそ、≪哲学的ゾンビ≫じゃないですか という話になります(笑) さてそうなると クオリアの話に正当性、真理性があるとしたら 【 「自分は赤を知覚している」と言っても 自分の見ている「赤」そのものを他人に伝えることはできない 】 といった事実を根拠にした 既存の物理学は、主観=クオリア をとりこぼしているという 主張だけということになります 機能的意識と現象的意識 において このように↓書きました 【 陳那〔じんな・ディグナーガ。480~540頃 インド大乗仏教2大教派 唯識派の大成者〕は 共通性である「共相」〔ぐうそう・共通する特徴や性質 青いものに共通する青性、りんご・バナナ・みかんに共通する果実性 全ての事物にみられる無常性など。共相は非存在のものである〕は 比量(推理知)によって認識され 事物の固有の特徴や性質である「自相」は 概念によらず直接実在を認識する現量により認識される 共相のみが言語による伝達が可能で 言語の使用は指示されるもの以外のものを 排除することで成り立っている と考えました つまり、A子さんのことを他人に伝えるには 犬っころみたいな顔してて、おてんばで 大飯喰い・・・と ≪共通性≫を重ねていくしかないということです A子さんの固有の特徴や性質は、伝達不可能ということです A子さんの固有の特徴や性質を「質感」や「クオリア」と表現するなら A子さんの「クオリア」は 我々の世界の「言語ゲーム」にはのっけられないということです 】 【個体の固有性を、言葉で表現できない】 【個体の固有性は 共通性の言葉を重ねて、疑似的に表現するしかない】 という事実は 物理学においても同じで 【個体の固有性は 共通性の物理学の言葉を重ねて、疑似的説明するしかない】 のです A子さんの固有性について 身長は〇〇cm 体重は〇〇㎏ 髪の長さは〇〇cm 肌の透明度は光の反射率で〇〇%・・・・ というように 共通性の言葉(cm、㎏、% など)を重ねて 疑似的に説明するしかないということです そしてこの 【個体の固有性は、物理の世界においても 疑似的にしか説明できない】 という事実は 『主観』の事実ではなく ≪A子さん≫ ≪対象≫ ≪客観≫ に関しての事実であるということです すなわち、主観(クオリア)ばかりでなく ≪客観≫も、同じであるということです 『A子さんのもつ固有性』を 自分がどう感じたかは「主観性」(クオリア)ですが 『A子さんのもつ固有性』自体は A子さんという客観がもつ「客観性」(客観性のクオリア)です ゆえに「心の哲学」の既存の物理学が 「主観=クオリア だけ」をとりこぼしているという批判は ≪的外れ≫ ということです 同時に、大事なことは これは、意識の問題ではなく、言葉の問題であるということです そして、哲学も、物理学も、化学も、数学も・・・ みんな言葉や文字で思考する世界のモノです 言葉や文字が、あいまいなことしか表現しえない あいまいなことしか伝えられない おおざぱなことしか伝えられない ということは 完全な知識などありえないということなのです クオリアを葬る ② ![]() 大森荘蔵の「重ね描き」 (ひとつ戻る) |
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