現在主流の「心の哲学」の嘘を暴く!! クオリアを葬る ②



 心と存在


「心の哲学」の嘘を暴く!!


 




クオリアを葬る ②



1990年頃、 デイヴィッド・チャーマーズ

(1966~・オーストラリアの人)という「心の哲学」の哲学者 によって

『クオリア問題』というのが提起されたました



クオリアというのは「主観的体験が伴う質感」のことらしく

「色」「形」「音」「香り」「味」「痛み」「恐怖」「喜怒哀楽」

などといった、我々の知覚や感情の全てが、それにあたるといいます




「クオリア問題」とは以下のような話です


「赤」がAさんには「青」に見えていて

Bさんには「黄色」に見えていたとします



そこで、AさんとBさんに

青・赤・黄色の3つの色を示して

「さて、このうち赤はどれですか?」と問います



Aさんは、青に見えている色を、赤だと信じていて

Bさんは、黄色に見えている色を、赤だと信じているので


Aさんは、青に見えている色(=赤)を指し

Bさんは、黄色に見えている色(=赤)を指す


結局、2人とも赤を指す



だから我々が、別の色を「赤」だと信じていたとしても

会話がちゃんと成立してしまう といった話です




信号は「青が進め・赤が止れ」と教わります

Aさんには青が赤、赤が青に見えていたとします


Aさんは「赤が止れ」と教わったとき

赤を青と思い込んでいるわけだから、青のときに止まる

でもその青は本当は赤だから、なんの支障もない

ということです




以上の話から

≪他人のクオリアは、どうやったって知ることができない≫

というのが「クオリア問題」です



この「クオリア問題」から

心の哲学は、はじまった と言っても過言ではありません





この問題は

心の哲学においては


意識と電気的・化学的反応の相関関係を扱う

「意識のイージープロブレム」に対して

「意識のハードプロブレム」(意識の難しい問題)と呼ばれています



脳の仕組みを解明すれば

精神の働きも明らかできると安易に考えていた

脳科学者や物理学者たちに、衝撃を与えたそうです







≪Aには「赤」が「青」に見える≫

とはどういうことでしょうか?



信号は「赤が止まれです」と教わったとき

Aは、「青」のときが止まれなんだな≫

と理解します



しかしこの「青」は、≪ホントは赤≫なので

Aは、赤信号で止まることになります




以上をを根拠として


≪Aには「赤」が「青」に見える≫

だったとしても、会話が成立し、生活に支障はない


さらに、Aの「認識」(世界をどのように見ているのか?)や

「心」を、他人が知ることはできない


と主張するのが「クオリア問題」です





なお、≪ホントは赤≫とは

Bさん、Cさん、Dさん・・・・の主観

大多数の主観 において「赤」ということです



大多数の主観とは

≪客観性≫ ≪常識≫ ということです




≪Aには「赤」が「青」に見える≫

の文の「赤」は、常識的な認識における「赤」です


また、≪「青」に見える≫は、Aの主観です



但し、≪Aには「青」に見える≫の文の

「青」という色自体は

常識的な認識における「青」です




要は、Aさんを観測者にしたときの「色」(青)は

Bさん、Cさん、Dさんに観測者を変えると

「赤」に観測される



この「赤」を、Aさんが観測すると

常識的な認識において「青」と呼ばれている色に観測される



この常識的な認識において「青」と呼ばれている色を

Aさんは「赤」だと信じているというわけです





この「クオリア問題」においては


≪Aには「赤」が「青」に見える≫とか

≪Aには「赤」が「黄色」に見える≫とか


つまり

≪Aには「赤」が「〇色」に見える≫

という定義というか前提が重要です



「Aさんは、自分の観測において

青に見えている色を、赤だと信じていている」


この文章の前に

≪Aには「赤」が「青」に見える≫

という前提があるのです




≪Aには「赤」が「青」に見える≫

という前提を置くと


Aが見ている「青」(主観)に

≪ホントは赤≫(客観性)という裏打ちされるのです





「クオリア問題」を、図で説明します












≪Aには「赤」が「青」に見える≫

という前提がないとどうなるのでしょうか?


Aさんが「青」に見ている色が

客観的に見て (Bさん、Cさん、Dさん・・・が見て)

何色だか分かりません


つまり、≪ホントは〇色≫が分かりません




≪ホントは〇色≫で、会話が成立するでしょうか?






例えば

花子: 赤い風船ちょうだい


Aさん: はい どうぞ 赤い風船だよ と言って

赤だと信じている風船を渡します


Aが「赤い」と信じている風船とは

常識的な認識において「青」と呼ばれている色の風船です



このAの観測している「青」と呼ばれている色を


Bさん、Cさん、Dさん・・・が

観測したときに見える色が、≪ホントの色≫です



この≪ホントの色≫は

「ある色」ということしか分かりません


どのような色も可能性としてはあります



Aの主観の「青」に

≪ホントは〇色≫といった裏打ちがないのです



そうなると

赤(Bさん、Cさん、Dさん・・・の認識において)

ではない風船を渡したり


赤信号で止まらなかったりと


会話が成立しない

生活に支障をきたす といったことになるのです






太郎の主観(青)は

常識(ホントの赤)によって統一されるしかない


なので太郎は、主観の「青」を、「赤」と信じる以外にない

という反論があるかと思います



つまり

太郎の主観(クオリア)が「青」であれ、何色であれ

その色が、≪ホントは赤≫ならば

太郎は、主観の主観の色(例えば 青)を、「赤」と信じるはずだ


仮に「黄色」と信じるケースは

単に、「赤」という色を、間違って学習しているにすぎない

という反論です










結論から言ってしまうと

『クオリア問題』の根本的な間違えは


大多数のクオリア = 客体・客観 (外界に存在する色)

としているところです


正しくは

大多数のクオリア = 大多数の主観 (客観性) です




【 大多数のモノの見方を、「客観性をもつ」とか

「客観的に見て」とか言います


ややこしいのですが

認識論においての「客観」は


外界にあって

主観の認識を可能にする存在 = 「客体」 と一緒です 】





≪ホントは赤≫も、外界に存在する色ではなく

大多数の主観にすぎないのです






これは間違えです





最も重要なコトは


太郎の観測する「青」は

大多数の人の観測する「赤」に対してのクオリアではありません


大多数の人が「赤」という言葉で表現する

外界の色を観測したときのクオリアです!!



なぜなら

他人の脳が観測している色を

直接、観測することは不可能だからです




正しい図はこれです








一般的に、我々は、知覚された世界(主観)が

他人と違うことはあったとしても

客観は同じモノとして存在し、客観が存在して主観がおこっている

と考え、客観の普遍性と実在性は疑いません



この理屈を図にしてみましょう





大多数の人の視点からはこうなります


但し、太郎や次郎においては違います



≪客観は同じモノとして存在し

客観が存在して主観がおこっている≫という理屈なので


太郎の視点からいくとこうなります





太郎は、外界の色を

自分の「青」(クオリア)と一緒の色と信じています




次郎の視点からいくとこうなります





次郎は、外界の色を

自分の「黄色」(クオリア)と一緒の色と信じています




また、太陽の光(可視光線)の中には

赤、燈、黄、緑、青、藍、紫の7色が含まれているとされますが

人の目の細胞は、赤・青・緑の3色にしか反応しないとされています



ハトは、少なくとも五色型程度の色覚をもつことが知られているので

ものすごくカラフルな世界を見ているのとされています






外界のある色が

人間には「赤」に見えたとしても


その外界の色を

ハトは「あるカラフルな色」に見ているのです




我々が「赤」に見えるから

外界の色も「赤だ」と信じるのは


ハトが「カラフル」に見えるから

外界の色も「カラフルだ」と信じるのと一緒です



【 人間という主観、ねこという主観、ハトという主観

カエルという主観、バッタという主観・・・・

主観によって、見ている色が違う


ある主観は、他の主観がどのような色を見ているのか

を知ることはできない 】



そればかりではありません


≪外界の色≫なんて、誰も決めることができないのです







なので、これが正しいと思います





仮に、≪外界の色≫が「黒」だったとしましょう


≪外界の黒≫は、大多数の人の脳には「赤」に見えている

ことになります






この「赤」は、太郎、次郎には観測できません


太郎のクオリアの「青」も、次郎のクオリアの「黄色」も

大多数の人の脳が「赤」と観測し、「赤」と表現する

≪外界の黒≫を観測したときの色でしかない ということです





花子: 赤い風船ちょうだい


太郎: はい どうぞ 赤い風船だよ と言って

赤いと信じている風船を渡します


太郎が「赤い」と信じている風船とは

太郎の観測する「クオリア色」の風船であり


常識的な認識において「青」と呼ばれている色の風船です



この太郎が観測する

「青」(太郎のクオリア)を


大多数の人が

観測したときには

(直接、観測できないが、結果として考えると)

「赤」ですが


この「赤」(大多数の人のクオリア)を

太郎は、直接、観測できません



では、太郎が「赤」と信じるに至った

「青」(クオリア)は、どこからきているのでしょうか?



もちろん

大多数が観測する≪ホントの赤≫ではなく

≪外界の黒≫からきています



なので、太郎は

≪外界の黒≫の風船 = 太郎のクオリアで「青」の風船 =

太郎が「赤」と信じる風船 を渡すことになります








一方、花子が大多数の一人であるならば

この≪外界の黒≫を、「赤」と観測できますが


その確率は100%ではありません



しかし、花子が、太郎のケース(外界の黒を青と観測)

次郎のケース(外界の黒を黄色と観測)の場合でも

観測する色を、「赤」と信じているために


→ 必ず、会話が成立し、生活に支障がない

という主張が、成り立ちます



また花子が、大多数のケースなのか

太郎のケースなのか、次郎のケースなのか

知ることができない ということは


≪他者のクオリアを知ることができない≫

ということなのです



 
太郎のクオリアでは、ピンクは水色であるが

その水色を、太郎は赤に白を混ぜた色と信じている






「クオリア問題」とは以下のような話です


【 「赤」が太郎には「青」に見えていて

次郎には「黄色」に見えていたとします



そこで、太郎と次郎に

青・赤・黄色の3つの色を示して

「さて、このうち赤はどれですか?」と問います



太郎は、青に見えている色を、赤だと信じていて

次郎は、黄色に見えている色を、赤だと信じている


太郎は、青に見えている色(=赤)を指し

次郎は、、黄色に見えている色(=赤)を指す


結局、2人とも赤を指す


なので会話がちゃんと成立してしまう 】




つまり、 【 主観(クオリア)が「青」であれ、「黄色」であれ

その色が、≪ホントは赤≫ならば

主観は「クオリアの色」を、「赤」と信じる 】


ということなのです




しかし

≪「赤」(ホントは赤)が、太郎には「青」に見えていて

次郎には「黄色」に見えていた≫


という前提でなく


≪「黒」(何色でもよい)が、太郎には「青」に見えていて

次郎には「黄色」に見えていた≫

でもよいのです



要するに、大多数の人が

その外界の色 (例えば黒) を

「赤」と観測すれば、それが「赤」となるのです





≪外界の黒≫に対するクオリアは

太郎には「青」、次郎には「黄色」

大多数の人には「赤」というように違いがあります


観測レベルでは違いがあります



ところが

≪常識≫(大多数の人における認識)によって

「赤」という名称に統一されるのです


「常識の赤」がないと

太郎がクオリアの「青」を「赤」と信じる根拠が得られません




≪常識≫レベルで統一されるところに

≪ホントの色≫が生じます



これによって

≪ホントは赤≫を、太郎が観測すると「青」に

次郎が観測すると「黄色」に観測される

という錯覚が生じているわけです


≪ホントは赤≫を、太郎が観測することは不可能です




いずれにしても

≪常識≫(大多数の人における認識)によって

「赤」という名称に統一されるところに

≪概念≫(共通認識)というものが成立し


≪概念≫の総体である我々の世界も成立しているのです





ここで、1つ大きな疑問が湧きますよね


観測者が

どのような色(クオリア)を観測していようと

常識において「赤」という言葉で統一され


会話や生活に支障がおきない

というなら


観測者に「色覚異常」(色盲)があったとしても

それが分からない = 現実として色盲は存在しない

ということになります





ところが、現に、色覚異常は存在します







色覚異常(色盲と色弱)について、少し触れておくと


色を感じとる視細胞には

赤に敏感なタイプ、緑に敏感なタイプ

青に敏感なタイプの3種類があります



3種類の視細胞のうち、どれか一つが欠損している場合を

異常2色覚(いわゆる色盲)といいます



3種類の視細胞のうち、どれか一つの機能が低下している場合を

異常3色覚(いわゆる色弱)といいます




色覚異常にはいくつかタイプがありますが


赤を感じる視細胞がない1型2色覚と

緑を感じる視細胞の感度が低い2型3色覚は


ともに

日本では、男性の20人には1人はいるそうです

(女性はともに 500人に1人)



参考資料 色覚異常(色盲・色弱)





なぜ、色覚異常は存在するのでしょうか?


結局、信号の色、看板の色、料理の色彩・・・・

我々の視覚世界は、常識レベルの人たちの

クオリアによって決定されています



ところが、それによって

信号なら、黄色と赤、黄色と赤 が識別しずらい人が出るのです




太郎を観測者に置き換えて述べます


大多数の人は、≪外界の黒≫を「赤」

≪外界の白≫を「緑」と観測するとします


太郎は、≪外界の黒≫を「青」

≪外界の白≫を「ほぼ青」と観測するとします



すると、太郎には「赤」と「緑」の判別がほぼできない

ということになります



また、太郎にとって「青」にしか見えない色を

大多数の人が「赤」と言ったり、「緑」と言ったりしている

ということになります



ということは

太郎は、クオリアの「青」を、「赤」に還元できない



太郎や次郎が、クオリアの「青」や「黄色」を

「赤である」と信じることはほぼない ということになります



つまり、(現実としては) 常識レベルで

クオリアが統一されることはない ということになるのです






さらにもう一つ考えてみてください






太郎は、自分の観測において

バナナに見えている存在 (ホントはりんご)を

「りんご」であると信じている としましょう



太郎に、りんごはどれですか?

とたずねると


太郎にとって「バナナ」に見えている存在

(ホントはりんご) を指さします





但し、以下は間違えです



私: 「りんごって丸いですよね」


太郎の観測するホントはりんごは、バナナなわけですから


太郎: 「えっ 丸いですか?」

ということになって会話は成立しません



私: 「りんごって赤いですよね」

太郎: 「いいえ 黄色ですよね」

ということになって会話は成立しません



これらは間違えです



なぜ、間違えなのでしょうか?



前提は

≪ホントはりんごを

太郎は「バナナ」と観測し、りんごであると信じている≫です



この文において

≪ホントはりんご≫が、太郎には

バナナに観測されている という意味は


太郎には、丸い形が、細長い三日月形に

赤色が、黄色に観測されている ということに他なりません




なので、 ≪ホントはりんごを

太郎は「バナナ」と観測し、りんごであると信じている≫

の文章を分解すると


≪丸い形・赤色( = ホントはりんご)を

太郎は、細長い三日月形・黄色( = バナナ)であると観測し


その細長い三日月形・黄色( = バナナ)を

りんごである と信じている≫ということになります




そこでもう一度、聞いてみます


私: 「りんご(ホントはりんご)って丸いですよね」


太郎: 「はい 丸い(太郎の観測では細長い三日月形)です」

ということになって会話は成立します



私: 「りんご(ホントはりんご)って赤いですよね」


太郎: 「はい 赤い(太郎の観測では黄色)です」

ということになって会話は成立します





但し、こう聞くとどうですか?


私: 「りんごって甘酸っぱいですよね」


太郎: 「えっ 甘酸っぱいか? 甘いでしょ」

ということになって会話は成立しません



なぜなら

≪ホントはりんご≫が、≪バナナ≫に見える

というのは、視覚においての話でしかないからです



会話を成立させるためには

≪太郎の観測(視覚)するバナナは、ホントはりんごである≫

とは別の定義(前提)が必要になります



すなわち

≪太郎の味覚するバナナは、ホントはりんごである≫

という前提を置く必要があるのです




以上のように

≪りんご≫という「存在」また「名称」(言葉)

1つとっても


言葉のもつ世界 = 「概念」 が

【様々なクオリアの複合体】である ということが分かります



なので単純に

≪太郎が黄色いはモノ(太郎のクオリア)を、赤いモノと信じている≫

というだけで


会話が成立し、生活に支障がない という理屈にはなりません




それから

「これは、りんごである」という単純な認識は

「意識のイージープロブレム」で


≪丸い≫ ≪赤い≫ ≪甘酸っぱい≫は、クオリアで

「意識のハードプロブレム」(意識の難しい問題)

と言ったって


りんごもバナナも【様々なクオリアの複合体】でしかないでしょ(笑)

という話になる ということです




心の哲学を葬る




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