心の哲学を葬る 「Aさんは、海をみている」 という客観的事実があるとします Aさんが海をみているという事実は Bさんにも、Cさんにも観測できる なので、Aさんが海をみている その「知覚・認識」における意識を ≪客観的意識≫と呼ぶことにしました また「Aさんは、海の青さをみて感激しているようだ」 というのは客観的事実があるとします しかし、Aさんが、どのような「青」をみているかは Bさんにも、Cさんにも分らない Aさんが、どのくらい、またどのように「感激」しているかも Bさんにも、Cさんにも分らない なので、このAさんの『青』に対する「知覚・認識」と Aさんの『感激している』という「感情」を ≪主観的意識≫と呼ぶことにしました というのが「意識の二面性」とか言われてきた問題です Aさんが、海を見ているときの神経状態には Aさんが、海を見て、感激している 心的現象が描かれていない という「説明のギャップ」というのは この「意識の二面性」を 脳の働きと結びつけて論じたものです Aさんが、海を見ているときの神経状態には Aさんが、海を見て、感激している 心的現象が描かれていない これを言い換えると Aさんが、海を見ているときの意識 ≪客観的意識≫は、脳に記述されているが Aさんが、海を見て感激しているときの意識 ≪主観的意識≫は、脳に記述されていない という話です さらに、チャーマーズに至り ≪客観的意識≫は、「機能的意識」と名付けられ しかも、こちらは、既存の物理学の範疇(はんちゅう)にある 神経科学の方法論で解明できる意識 意識と電気的・化学的反応の相関関係を扱う 既存の物理学で解明できる意識 であるとされ 「意識のイージープロブレム」と位置付けられます これに対して、≪主観的意識≫は、「クオリア」と名付けられ 既存の物理学の範疇にはない 「意識のハードプロブレム」と定義されたわけです なお、機能主義理論の立場から 「説明のギャップ」を埋めるこころみ つまり≪主観的意識≫と脳の機能を結びつけるこころみ が、さかんになされましたが、ほとんど失敗に終わり 前述した「表象理論」が唯一、残ったということです チャーマーズの考えだと ≪客観的意識≫は 脳の物理的・電気的・化学的反応によって 単純に生まれているのに対し ≪主観的意識≫に関しては そこ(脳の物理的・電気的・化学的反応)はあるものの 「創発」などの脳全体のネットワーク機能によって生まれている という話になるかと思います ≪客観的意識≫も「創発」だろ とかいう意見もあるでしょうが、細かい話は、置いておきましょう いずれにせよ 以上が、ざっと「心の哲学」が 「心の哲学」として存在しうる中枢的なところです そして、その全ての根本が 「意識の二面性」とか 「意識の多義性」とか言われる問題にあるのです ≪説明のギャップ≫については 説明のギャップを葬る で葬りましたので 「意識の二面性」を葬り 「心の哲学」自体を、葬ってしまいましょう 1、Aさんは「海をみている」というのは ≪Aさんの認識(主観)≫ 2、Aさんは「感激している」というのは ≪Aさんの感情(主観)≫ 3、「Aさんは海を見ている」という BさんやCさんにとっての客観的な事実がある それについてのBさんやCさんの認識は ≪BさんやCさんにとっての認識(主観)≫ 4、「Aさんがどのような『青』をみて どのように感激しているかは、私には分らない」という BさんやCさんにとっての主観的な事実がある それについてのBさんやCさんの認識は ≪BさんやCさんにとっての認識(主観)≫ となります 「意識の二面性」というのは この4つがごっちゃとなり Aさんは「海をみている」という ≪Aさんの認識(主観)≫が 「Aさんは海を見ている」という BさんやCさんにとっての 客観的な事実の認識に、すりかえられ Aさん自身の≪客観的意識≫となっているのです BさんやCさんは 【Aさんが海を見ている】という BさんやCさんにとっての客観的事実は知り得ても Aさんが海を見て どのように感激しているのかが分からないのと同様に Aさんが海を どのように知覚・ 認識しているかなどわかりませんよ Aさんの主観なんですから(笑) そして、この根源的な誤りの上に 「説明のギャップ」も「意識のハードプロブレム」も「表象理論」も そして「心の哲学」自体も組み立てられているということなのです それから、BさんCさんが 言葉や文字で、記述できないのは 自分(BさんやCさん)や 他人(Aさん)が感じている 主観的体験を伴う知覚=クオリア としての あるりんごがもつ「赤」ばかりでなく BさんCさんにとって 客観(客体)として存在する あるりんごがもつ「赤」についても同じです なぜなら、クオリアを葬る で、書いたように 存在の固有性は、共通の言葉で 疑似的に表現するしかないからです 反論として BさんCさんが あるりんごの「赤」を認識した時点で その「赤」は、りんごという物体(客体)の「赤」ではなく BさんCさんの「主観」=クオリアになるだろ!! という話はできるかもしれません しかし、BさんCさんの「主観」= クオリアの「赤」を分析するのでなく りんご自体の「赤」を、科学的に分析し 物理の言葉で、表現しようとしても やはり、固有性は、物理の共通の言葉で 疑似的に表現するしかありません すなわち 言葉や文字で、記述できないのは 1、主観が感じている主観固有の知覚や感情 例えば、主観が感じている主観固有の赤=クオリア 主観が感じている主観固有の冷たさ=クオリア 主観が感じている主観固有の感激=クオリア 2、「客観」(客体)自体がもつ固有性 例えば、あるりんごがもつ固有の赤=客観のクオリア ということであり 我々が、言葉や文字で、記述できないのは 主観性ではなく、固有性ということなのです 脳の構造から 人間の心と世界を解き明かす ![]() クオリアを葬る ② (ひとつ戻る) |
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