コウモリの視点 アメリカの哲学者 トマス・ネーゲル (1937~。専門は政治哲学、倫理学、心の哲学、認識論など)は 機能主義的な物理主義に対する反論として 「コウモリであるとはどのようなことか?」(コウモリの視点) という論文を書いたことで知られています 彼は、意識の主観性を考える上で 「〇〇であるとはどのようなことか?」という考え方を 提示したことで知られています この論題は 人間がコウモリのような生活をしたら どのように感じるかということではなく コウモリ自身(主観)にとって コウモリ(自分)であるとはどのようなことか? という話です 「コウモリであるとはどのようなことか?」 の言いたいことは コウモリについての構造や機能に関して 完璧な知識をもった人間がいたとしても コウモリにとって コウモリであるとはどのようなことか?とか コウモリであるとはどんな感じがするのか? とかいうことは知りえない ということです コウモリは、口から超音波を発し 反響音よって周囲を認識しているが この反響音をどのように感じているのか? 人間がものを「見る」ようにして感じているのか? それとも「聞く」ようにして感じているのか? または、我々とは違った感じ方をしているのか? 人間には、コウモリの「心」を知りえない= 人間の知らないクオリアが存在している → 機能主義は「偽」である ということです ネーゲルが対象とする動物を コウモリとしたのは、コウモリが哺乳類に属しており ある程度人間に近い生物であること とはいえ、翼があったり超音波で周囲の状況をとらえたりと 運動器官や感覚器官に関して 人間とは大きな差ある生物であること からだといいます すなわち 人間に近すぎる生物だと問題を鮮やかに示すことができないし かといってハチとかアリまで行くと そもそもそこに意識があるのかどうか分からない ということになるので コウモリを選んだということらしいでのす さて、この話が可笑しいのは 『人間には、コウモリの心は知りえない』 というのは、まだ【前提】です なのにそこから一足飛びに 物理主義、機能主義は「偽」という結論を導き出しているところです つまり全く 【物理主義・機能主義を超越した心】 【物理的・化学的・電気的な反応を超越した心】 というモノの存在証明ができていないところです ここでいう証明とは 科学的実験による証明ではありません 哲学なので、論理としての「説明」があればよいのすが それすらありません(笑) 物理主義とは、物理学が進歩していけば 心についても、物理学の言葉(物理の数式)で説明できる と考える立場です 物理主義=唯物論と、心の哲学では考えます 唯物論とは、心(意識)は 脳という高度に発達した物質より、派生的に存在するもの と考える立場です つまり、物理主義も、唯物論も 「意識」なり「心」なりがあることを前提としています その上で、物理主義や唯物論が「偽」というなら 物理主義を超越した意識であること 物理的・化学的・電気的な反応を超越した意識であること の論理的な証明がなければ、お話にもなりません 結局、最初から 主観(コウモリなり、人間なり)にとっての「心」「意識」が ≪物理的・化学的・電気的な反応を超越した実体である≫ という決めつけのもとに語られたおそまつな話 ということです そもそも コウモリの心=クオリア=主観 であるため 人間には知ることはできいない なんて論理おかしいですよ(笑) そうではなく 正解を書いておくと コウモリという主観と 人間という主観では 認識する世界に違いがある ということです 「心の哲学」というのはすべてにおいてこうです 主観にとっての「心」「意識」が ≪物理的・化学的・電気的な反応を超越した実体である≫ という決めつけを 「哲学的ゾンビ」とか「マリーの部屋」とか 「中国語の部屋」とか「中国人民」(中国脳)とか 「水槽の脳」とか「逆転地球」とか 「コウモリであるとはどのようなことか?」とかいった話で 装飾しているにすぎず そこに 【物理主義・機能主義を超越した心】 【物理的・化学的・電気的な反応を超越した心】 に対しての 客観的、普遍的な解説が1つとしてみあたらないのです 意識の超難問 主体と世界 (ひとつ戻る) |
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