現在主流の「心の哲学」の嘘を暴く!!



 心と存在


「心の哲学」の嘘を暴く!!


 




機能主義はすでに成立している



そもそも、心の哲学の主流派が

唯物論、物理主義、機能主義を

否定してはいることは分かりますが


それらのなにを否定しているのか

よく分かりませんよね



唯物論、物理主義というのは

心というか意識が存在する という前提に立っています



心(意識)は

脳という高度に発達した物質より、派生的に存在するもの (唯物論)


物理学が進歩していけば

心についても、物理学の言葉(物理の式)で説明できる (物理主義)


ということですから・・・・




唯物論に関しては、心の哲学の主流である

「随伴現象説」とか「性質二元論」というのは

唯物論とほぼ差なんてありません




そうなると、唯物論、物理主義に対しては

物理学が進歩していけば

≪心についても、物理学の言葉で説明できる≫

ということへの否定にしか

根拠がみいだせないということです






唯物論の一つ機能主義については

こういうことです



心の哲学の主流派は


どんなに優秀な人口知能をつくったとしても

人工知能の入力や出力といった作業には


うきうきした気持ちとか

わぁという心とかが伴うことはない


といって「機能主義」を否定しているのです




ここに、心の哲学の最大の根拠があり

またここに主流派と、機能主義派の論争が生まれていると言えます






心の哲学における

「機能主義」についての根本的な勘違いをあげておきます



なお、機能主義とは

材料が神経細胞ではなくバネと歯車で構成された機械であっても

人間の脳の機能を忠実に再現すれば


脳と同じように「喜び」「痛み」とかいった「心」を持つという考え

「心」とは物質の機能的役割であるとする立場です




まず、現代において

バネと歯車で、人間並みの心をつくり出そうなんて科学者はいませんよね


そうではなく、プログラミングとデータの入力によって

それをなそうとしているということです




チャーマーズの提示した「哲学的ゾンビ」には


行動だけでは普通の人間と区別できないが

解剖すれば人間との違いが分かる「行動的ゾンビ」と


観測可能な物理的構造(脳の神経細胞の構造まで)

人間と区別する事が出来ないが

現象意識(心)が欠如している「神経的ゾンビ」がいて


ふつう哲学的ゾンビといえば「神経的ゾンビ」をさす


ということですが

こうした考えは、時代に即していません


現代の機能主義の本質に関して、誤解を与えてしまうということです




中国人にリレーとして行わせたとき

そのリレーに現象的意識は生じるのか?

といった「中国人民」(中国脳)という思考実験なんかは

人工知能の概念すら理解していないということです






そうなると

携帯のSIMカードサイズの「哲学的ゾンビ」が

実現される可能性だってある


カードをスマホに挿入すると

スマホが、心をもった人間のごとく

コミュニケーションをとる時代がくるかもしれません



お嬢さんタイプのA子カード  ギャルタイプのB子カード

ちょいSのC子カード なんていうように

様々なタイプのカードが売り出されるなんて時代がくる

可能性だってあるわけです






心の哲学における機能主義に対する批判からいくと

≪心=クオリア=知覚や感情は

既存の物理学では解明できない

解明できない存在をどうやってつくり出すことができるのだろうか?≫

ということになりますが



解明することと、実現することとは

全く別であるということが理解できていません




「知覚」に関してはすでにできているじゃないですか(笑)


デジタルカメラが色を認識する仕組みは

人間が色を認識する仕組みとほぼ同じだといいます


というより

人間の眼の仕組みを参考にして作られているそうです



視覚についての知覚、認識というのは

入力した画像を数値化するだけの話です





デジタルカメラの仕組みは

イメージセンサー(フィルムカメラのフィルムにあたる)上に

レンズが像を映し出す➝

画素が、光の情報を読み取りる➝ 写真となる

というものです


デジタル写真は、点描画みたいなものです



人間の視細胞(錐体細胞)のように

デジタルカメラにも

赤を認識する画素、緑を認識する画素

青を認識する画素 を用意して


イメージセンサに当たった

ある波長の光に対して


赤の画素はこれくらいの強度を認識した

緑の画素はこれくらいの強度を認識した

青の画素はこれくらいの強度を認識した

と数値化し、色を表現しているといいます





「デジカメは

画像を映し出すだけで

『これはなんである』という認識は、ムリでしょ?」

という反論もあるでしょう


そのとおりです


しかし、次元の低い認識なら実現できている

と言えますよ




では、我々が、紙に書かれた文字を

文字として認識できるのはなぜでしょう?



これは

紙に反射した光の情報から

「紙」「文字」「インク」などを認識しているのです



つまり、光の情報を解析し

紙に、文字が書かれているかを

またどのような文字が書かれているかを

認識しているということです



同様に、デジカメも、光の情報を解析し

映像化している=認識しているということです





また、デジカメができるの認識はここまでですが

『これはなんである』を

機械に認識させることも実現されています



例えば、イチゴを理解させるために

人工知能に、たくさんのイチゴの画像を

読み込まる=学習させる ことで、それは可能です



最近では、ディープラーニング(深層学習) という

人工知能に学習させる方法も確立しています





とはいえ、≪相手の感情や心理を理解する≫

なんていう知覚、認識のレベルになると

その正解をとらえるなんて

人間ですら至難、およそのことしか分からないので

簡単にはいきませんが


理論上は可能ということです







「人工知能が、ミクロ的でも喜怒哀楽や痛みを感じている

という事実があるならともかく

理論上でも、人工知能が感情をもつことなどありえない」


と思った人はいませんか?



いやいや

昔のパソコンだと、ネットサーフィンをしすぎるなどして

大きな負荷がかかったりすると


「ビー」とかいった音がして

画面が固まるなんてことが、よくありましたが


これは、パソコンが「痛み」を感じて

「防衛手段」をとったということですよ(笑)




そして、知覚においても感情においても、理論上では可能である

ということは、機能主義は、すでに理論上成立しているということです


機能主義が「真」とか「偽」とかいう以前に

すでに、成立してしまっているということなのです




心すら定義できない「心の哲学」




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