現在主流の「心の哲学」の嘘を暴く!!



 心と存在


「心の哲学」の嘘を暴く!!


 




心すら定義できない「心の哲学」



心理学においては、意識=心とは

知(知覚)・情(感情)・意(意思)と、定義されていますが


心の動きは、それぽっちではありませんよね(笑)


欲求も、衝動も、理性も、意志も そうです




心の哲学においては

「クオリア」という概念がつくられたわけですが


そのクオリアの例として

必ずといっていいほどあげられてきたのが

≪自分の見ている「赤」そのものを他人に伝えることはできない≫

という「知覚」の話です



それとともに、とりあげられてきたのは

≪海を見ているときの神経状態には

海を見て、感動している心的現象が描かれていない≫

という「感情」の話です




このように

心理学においても、心の哲学においても

「心」「意識」の代表として

≪知覚≫と≪感情≫が、とり扱われてきたと言えます




一般の人の感覚としては

心と言えば、まず「感情」と「理性」というのが思い浮かびますよね


それは、我々の生活が、価値生活であり

価値生活の中で、感情や欲求を優先させるか?

理性を優先させるか? という形で

心というものを実感しているからだと言えます




また、誰しも「心」といえば

まず「感情」を思い浮かべることでしょう


「欲求」の場合は、心の動きよりも

もっと本質的・根源的なものであって

欲求の上に、心の動きがあるというとらえ方もできます


「衝動」だと感情の1つとも思えます


「理性」だと、欲求や感情を抑える二次的な心の動きにも思えます


「意志」だと、複合的な心が集まったもののように感じられます


だから「心」といえば「感情」なのでしょう






心理学においては、意識=心とは

知(知覚)・情(感情)・意(意思)と、定義されています



「意思」というのは、意志ほどの積極性はないが

「意思表示」「本人の意思の尊重」というように

〇〇しようとする自分の考え、思い

とされていますが


我々は、感情でくくってしまっているのだと思います




知覚というのは、情報の統合

感情というのは、統合された情報に対する価値判断

意思というのは、価値判断から、行動への思い

といったところでしょう





これに対し、西洋哲学においては

「認識」は、人間がどのように世界を見ているかという点で

哲学のテーマになってきました


「心の哲学」において

「認識」と密接に関わる≪知覚≫が

感情とともに、意識の代表とされたのは

1つには、それがあると思われます



それとともに

「心の哲学」誕生の背景に

≪海を見ているときの神経状態には

海を見て、感動している心的現象が描かれていない≫

といった


「意識の二面性」の問題があり

≪知覚≫に還元できない≪感情≫という構図があった

と言えます






さて、そうした心について

心の哲学においても

脳の働きとは関係なく生まれているといった立場の人は少なく



心的なものは物質的なものに完全に付随して

生まれているが、心的なものと物質的なものがある

という二元論の「随伴現象説」



意識の世界には、2つの実体があるのではなく

実体は1つで、物理的実体と精神的実体は根本的には一緒


但し、この実体に、物理的側面と

精神的側面という2つの性質をもっているという「性質二元論」


が、主流派です






まず、心的なものは物質的なものに完全に付随して

生まれているが、心的なものと物質的なものがある

という二元論の「随伴現象説」をみていきます



二元論というのは、2つの実体を認めるものですが

「随伴現象説」というように、心=現象としています



これは「実体」の意味すら分っていないということです

〇〇という現象生み出している存在を、実体というのです



どちらかが「現象」ならば

どちらかが「実体」とならなければおかしい


つまりどちらかが「現象」ならば

一元論しか成り立ちませんよ(笑)



心的なものは物質的なものに完全に付随して

生まれているが、心的なものと物質的なものがある

という二元論の「随伴現象説」というのは言葉として成立していない

ということです






これで話はおしまいですが

そこはあえておいといて考えると



物質的なものとは「脳」しかありえず


「脳」に付随して生まれるとは

脳の働きによって生まれるという以外にないですし


脳の働きとは

脳の物理的・化学的・電気的反応の他に考えられません




その上で、あえて二元論となると

「随伴現象説」の「心」とは

脳の物理的・化学的・電気的反応によっておこるが


生まれてくる心は

物理的・化学的・電気的反応を超越した現象

という他にありません





食事という現象を生み出している実体は、Aさんです


ところが、「随伴現象説」だと

食事という現象を生み出している実体は、Aさんだけど


食事は、Aさんを超越した実体である

なんて訳の分らない話なるのです






「性質二元論」はどうでしょう?


性質二元論とは


1、心(意識)は、脳より「創発」される


2、意識の世界には、2つの実体があるのではなく

実体は1つで、物理的実体と精神的実体は根本的には一緒


3、但し、この実体に、物理的側面と

精神的側面という2つの性質をもっているという


ということです



【 創発・・・ 個々の神経細胞の相互作用により

個々の振る舞いの総和にとどまらない現象が

脳全体の振る舞い=意識(心) として現れているという意味

要するに、心は、脳全体のネットワーク機構より生じているという考え 】




性質二元論というのは

脳より心が生まれているという

前提があるので

どう考えても1つの実体は「脳」です



その上で、精神的現象=心は

物理的現象と根本的には一緒ということなので


100% 唯物論と同じです(笑)




ただ、そこは「創発」による

物理的・化学的・電気的反応を超越した現象=心

をもちだしてきて

唯物論となるのを、かろうじて回避しているといったところです






「性質二元論」では


創発特性、すなわち「心」は

物質の性質に、還元できないとしていますが

これを譬えると以下のようになります



Aさん、Bさん、Cさんが、食事をしていました

1人1人、料理を食べるという行為の他に

「創発」として、3人による会話がはじまりました



食事も、会話も

Aさん、Bさん、Cさんという実体によって

おこっている現象に他なりません




ところが「性質二元論」というのは

食事は、Aさん、Bさん、Cさんに、還元できるが

会話は、Aさん、Bさん、Cさんに、還元できない

なんて話なわけです(笑)





このように「性質二元論」にしろ「随伴現象説」にしろ

心についての概念すらちゃんと

(整合性のあるものとして)定義できずに

論理を積み上げただけの理論なのです




人間くささ




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