随伴現象説と 現象判断のパラドックス 「心の哲学」には 精神作用には ① 心的なものと、物質的なもの(脳)がある という二元論から 両者は並行して進行していて 互いに影響を与えないとする「心身並行説」 ② やはり同じく二元論の立場をとりますが お互いに影響を及ぼしあっていて 脳内の物質が、意識の世界から影響を受ける という「相互作用説」 ちなみに、この立場は 既存の物理法則ではありえません ③ やはり同じく二元論の立場をとりますが 心的なものは、物質的なものに完全に付随して 生まれているという「随伴現象説」 があるといいます 「随伴現象説」について説明すると 「心的なものは物質的なものに完全に 付随して生まれているにすぎないという」 「心は、脳という実体より生じているのにすぎない」 というだけなら単なる≪唯物論≫ですが 「随伴現象説」の場合 心的なものと、物質的なもの 2つの実体を認める二元論をとります ただ、この論理は、単なる言い換えであって 唯物論と一緒ですよ(笑) バカバカしい(笑) それから「随伴現象説」は 工場(脳)の煙突から出る煙(心)に譬えられます 煙(心)の状態は、工場(脳)の状態によって決まる 一方、煙(心)が、工場(脳)に影響を与えることはない というわけです つまり、この説の原因と結果の関係は 工場(脳)➝ 煙(心) への一方向だけであり 煙から工場に対しては何の因果的作用もない すなわち 意識の変化には、それに対応する 脳の物理的・化学的・電気的な変化が必ず存在する 一方、意識は脳の物理的な状態に対して 何の影響も及ぼさないということです 随伴現象説は 物理学の基本である 「物理的領域の因果的閉包性」〔物理的な存在は 物理的に存在しないものから影響を受けない〕を前提とするので 既存の物理学と対立しません そのため科学的な素養を持っている人々からは受け入れやすく 脳科学者の茂木健一郎氏なんかがこの立場をとり チャーマーズもこの立場に好意的であるといいます 但し、この説では 「現象判断のパラドックス」や 「脳に対して、何の影響も及ぼさない意識なら必要ないではないか?」 といった問題が生じることが指摘されています ● 現象判断のパラドックス 現代の物理学で基本的な前提となっているのが 「物理的領域の因果的閉包性」である 「物理的領域の因果的閉包性」においては 「物理現象の原因としては物理現象だけを考えれば十分で それ以外の要素について考える必要がない」ということになる 例えば、神が介入し、ときどき奇跡を起こすような世界では 「物理的領域の因果的閉包性」は成立しない 「現象判断のパラドックス」とは 物理的領域の因果的閉包性を仮定し かつ意識やクオリアが 物理的に存在しないものであるというなら 意識やクオリアは、脳が行う判断の原因となることが出来ない なので、脳が行う意識やクオリアについての 判断(セーター着よう)には 意識やクオリア(寒い)が、因果的に一切関わっていないことになる といった矛盾である ドイツの童話作家 ミハイルエンデ(1929~95)は 「物質の集合である人間が なぜ自分自身を物質であると理解できるのか」 と唯物論、物理主義を否定しましたが 物理主義を否定するチャーマーズらが その根拠を同じような論法で切り崩されたわけです なお、この問題に対して チャーマーズは 「我々のまだ知らない自然の法則がこの宇宙にある」 「意識やクオリアといった心的経験は 脳や神経細胞といったスケールではじめて生まれるのでなく クォークや電子などといった素粒子に 意識やクオリアのもととなるもの〔原意識・心の塵〕が含まれている」 なんていう「汎経験説」(汎心説)を立て 「サーモスタットや岩にも 人間のもつそれよりずっと単純であるにせよ意識がある」 などと述べているようです 17世紀後半のライプニッツの モナドロジー(単子論)に帰ってしまうわけです 性質二元論 マリーの部屋 (ひとつ戻る) |
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