主体とはなに? ④ 以上のように 客体の存在を否定する立場もあるということです 一方、自分の意識(主体)は 意識されるもの(客体)=世界 があって成り立つ また、意識されるもの(客体)=世界 も、自己の意識(主体)があって はじめて客体として成り立つという考え方もできます この考えは至極当然ですよね もし、外界にモノやコトがないというなら カメラで撮影した写真と 我々の認識する表象(イメージ)が 大きく違ってこなければおかしいです カメラで撮影した写真にはなにも写っていないのに 我々の認識にはある といったことがなければ おかしいということです 外界の存在を認める立場からいくと 【 自分が「ものごとを知る=知覚する」という基礎には 主体(自己の意識)と客体(意識されるもの)が一体となった世界があり そこから分化によって 「自分」と「自分ではないもの」という知覚が生まれ さらに「自分ではないもの」を分化していき 花だの、石だの、ペンだの、コップなどという知覚が生まれている という見方ができる つまり「人間の『知る』という現象の基礎には 主観と客観が混然一体となった状態があり この原初の世界が、分化されることによって「知る」が成立している」 】 なんていう考え方もできるわけです それから ≪自己≫とか≪自分≫という意識は 自分を他人としてとらえるとき、自分を他者化 客体化したときに、はじめて生まれるのものです つまり「自分とは他人(客体)である」ということです 自分の中にいるある存在、これを仮に≪主体≫とします この主体が、存在A【=自分なんだけど、主体はこのときまだ 存在Aが、自分だという意識、認識をもっていない】 とは何か? と識別する場合 まず、存在Aを、コップ、りんご、ペン、猫 などなど 世界に存在するあらゆるもの=客体と、同列化します つまり、存在Aを、客体化します そして、この客体化した存在Aを 自分の経験や知識に照らして 「こいつは何であるか」と識別していきます その結果、世界のあらゆる存在とは区別できる 存在Aを知覚し、意識し、認識します このときはじめて≪自分≫という「自我意識」が生じるわけです すると、主体が≪自分≫であると認識する存在Aは 真の自分(主体)ではなく、≪他人≫ということになります 認識する自分(主体)と、認識される自分(存在者A)は ふだん一体ですが 自分を【自分】と認識するときに 主体は、存在Aを、外界のモノと同列化、客体化、他者化します そこで、主体が≪自分≫と意識する自分は すでに≪他者≫であるという考えもできるのです 主体が≪自分≫と意識する自分は すでに≪他者≫ 面白いですよね 但し、この話は 潜在意識の主体ではなく 顕在意識の主体が 「自分とはなにか?」と意識したときの話です 結局、西洋哲学で問題にしてきた 「主体」とは、【顕在意識の主体】にすぎないのです 主体と世界 主体とはなに? ③ (ひとつ戻る) |
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