「心の哲学」の嘘を暴く!! エルンスト・マッハとフッサール



 心と存在


「心の哲学」の嘘を暴く!!


 




主体とはなに? ①

現象主義とエルンスト・マッハ



哲学においての「主体」とは

認識や価値判断をする当の存在で

される側が「客体」です


これに対し「主観」とは、

認識・行為・評価などを行う意識のはたらき

またそのはたらきをなす者で


認識論においては、主体と主観と同義として扱われます



一方、客観とは、主観の認識や価値判断の対象となるもの

主観に現れるもの

主観から独立して存在するもの

をいいます




「認識」は

人間がどのように世界を見ているかという点で

哲学のテーマになってきましたが


それにともない「主観」と「客観」の関係や

「主体」についても

様々に言われてきました






客体の存在を否定する考えとしては

認識の対象は、現象の範囲に限られるとする

「現象主義」があります




【 二元論は、知覚する主体と

知覚される客体の存在を前提するが


表象(知覚像)は

現象(意識の中に現れるもの)にすぎす

意識の外のものではない



現象外部の存在=客体 については

不可知(人知では知ることができない)である


客体の存在を認めることは

経験を超越した存在を認めることである


ゆえに、二元論は、間違えである 】


なんていう立場で


イギリス経験論を代表する

ジョージ・バークリー(1685~1753年)に始まり

デイヴィッド・ヒューム(1711~1776)において

完成したとされます




現象主義に、形而上学的な判断が加わった考えを

「観念論」といいます




バークリーは

「存在とは知覚されること」

という有名な言葉を残していますが

のちに経験主義から観念論へと至ります



彼は、存在を精神の内容(主観的観念)とし

存在の客観性を否定して


さらにアイルランド国教会の主教でもあったことから

世界は神の観念にすぎない

という「主観的観念論」に至っています




バークリーによると

「私が机を叩いてその固さを認識したとしても

≪机の固さ≫としてではなく

≪知覚≫として認識しているのであり

≪机自体≫を認識していることにはならない

その原因は神である」といいます






言葉に対応するものが

それ自体として実在していると考える実在論に対し

現象主義は、意識内在主義てあり

世界および自我は「知覚現象の束」として説明するといいます



現象主義の近代における代表は、エルンスト・マッハです



エルンスト・マッハ(1838~1916)は

オーストリアの物理学者であり

実証主義の哲学者です



実証主義とは、経験主義に近く

感覚的経験によって認識できない

「神」や「イデア」のような形而上学的な存在を認めない立場です




マッハは、物理学においては

空気中を動く物体の速さが音速を超えたとき

その物体に対する空気の性質が急激に変化する

ことを明らかにし


この功績により

空気中での音速は、マッハ1と呼ばれ

音速の2倍がマッハ2、音速の3倍がマッハ3と呼ばれています





実証主義哲学(科学哲学)においては


ニュートンの「絶対時間」「絶対空間」の概念には

形而上学的な要素が入り込んでいるとして否定しました


この考え方は、アインシュタインに大きな影響を与えています


但し、マッハは

相対性理論に対しても、生涯、否定的な立場をとったとされます




さらに、ニュートンの「力」という概念をも否定し


「原子論的世界観」(全ての物質は原子からできているという考え)や

「エネルギー保存則」についても批判し


「現象的物理学」あるいは「物理学的現象学」を

構築するべきだと主張したといいます



また、物理学と心理学との違いは、研究対象の違いではなく

記述を作り出す観点の違いにすぎないし

「統一科学」というものを構想したそうです



とはいえ、マッハは、物理学の欠陥を

具体的には何ら指摘できていないことも事実とされます







主体とはなに? ②

フッサールと現象学



マッハの考えは

フッサールの「現象学」に影響を与えたとされていますが

フッサール自身は、マッハの考えには

「志向性」の概念が欠けていると批判したといいます




デカルト(1596~1650・フランスの哲学者・近代哲学の父)は

疑わしいものを次々と廃棄していった結果

どうしても廃棄できないものを発見した


それは疑う(考える)という行為だった


そこで「我思う、ゆえに我あり」という原理を打ち出した

とされています



デカルトの立場は

考える私(精神)と、考える対象(肉体を含めた外界の物体)は

それぞれ実在するという「主客二元論」です




このデカルトより300年

ドイツの哲学者 エトムント・フッサール(1859~1938)は


≪ 「あらゆる意識は、必ず何かについての意識である」

(この概念を志向性という)


つまり「考える対象があって、我あり」である


ところが「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの原理だと

考える対象がなくても考えることが出来てしまう ≫ と疑問を持ちます



そして、ノエマ(考える対象)、ノエシス(考えるという行為)

という概念を立て


≪考える対象を思い浮かべたとたん、すでに人は考えてしまっているので

ノエマとノエシスとは明確に区別されるものではない

一体で切り離すことができないもので、究極として同じものである ≫

とい主張します




さらに

我々はふつう、知覚された世界(主観)が

他人と違うことはあったとしても

客観は同じモノとして存在し

客観が存在して主観がおこっていると

客観の普遍性と実在性は疑いません



これに対しフッサールは

≪ 客観世界が実在するかどうかは確かめようがない

なぜなら、目の前の知覚された世界も

記憶や想像によって現われた世界も

全ては意識の中に現われた世界としか言えないからである ≫

と主張したのです





そもそも「現象学」というのは

現象を説き示す学問の意味ですが


今日の現象学は、フッサールの現象学に始まるとされ


≪客観世界が実在するかどうかは確かめようがない

全ては意識の中に現われた世界としか言えない≫

という立場をとり


そこから「意識の外に客観世界が実在している」という思考を

一時的に保留(エポケー)にし


その上で「客観世界が実在している」という

確信が成立する条件を問うものなんだそうです





現象学というのは、ケーキを目の前にしてヨダレを流しても

このケーキは頭の中のメッセージかもしれない


ケーキを食べて「うまい」と感じても

脳の中の出来事かもしれない 実際には食べてはいないかもしれない


そこから始めなさい というわけです




そして、「客観世界が実在している」という条件を

取り出す作業のことを

フッサールは「超越論的還元」と呼んだようです




本来、現象主義では

感覚として現れない超越的存在は否定されますが


現象学は、主観・客観の根源となる

超越的存在の説明に、重点が置かれていて



「感覚与件」(物質でいう原子のような最小単位)が存在し

その組み合わせによって、知覚・観念・思惟など

全ての現象が生まれていると考える

≪還元主義的な現象主義≫と


それぞれの現象は、全一的な存在で

何ものにも還元できないだと考える

≪非還元主義な現象主義≫とに別れるそうです






要するに「このケーキ美味しい」→ 脳の中の出来事かもしれない

ケーキの実在性は証明ではない といった屁理屈です(笑)



意識の外の世界を否定するのではなく

客観世界の実在性を否定するような唯心論ではなく


「意識の外に客観世界が実在している」という思考を

一時的に保留(エポケー)にし


その上で「客観世界が実在している」という

確信が成立する条件を問うたてまえがあるもの


本質的には、唯心論となんら変わりません



現象学と従来の現象主義との違いも

この「たてまえ」を設けているかいないかの違いぐらいでしょう







●  メルロポンティの身体論



フッサールの現象学を受けて

フランスの現象学の哲学者 モーリス・メルロポンティ(1908~61)は

「両義性」(どちらとも言えない)という概念を立てていいます


精神と肉体というデカルト以来の対立について


彼は、≪ 私の身体が「自分自身になるのか」

「対象になるのか」は

「両義的でどちらとも言えない」


また、私が対象を認識するとき

対象が「自分の精神の中のものなのか」

「対象の中のものなのか」も「両義的」である


但しこの「両義性」は曖昧性にあるのではなく

明確に自覚されたときに生まれるもので

それこそが「私という世界認識である」 ≫

としています



「禅問答」のような話ですが

メルロポンティが面白いのは

≪身体≫という概念を構築したところにあります




経験論では、リンゴの「赤い」性質は

対象に備わっていて

それと類似したモノに関する記憶が呼び起こされ

「赤い」という知覚が生じると考えます


こうした客観の存在を疑わず

かつ自分の理性による経験を重視する立場に対し



メルロポンティは

精神盲〔脳の損傷により、物は見えているのに

それを意味づけて認識・理解することができない状態〕の患者が

脳の命令に基き、腕や足を動かすことができないのに


蚊に刺された箇所へ素早く手を持ってゆくことはできる

ことを例にあげ



このことは、≪ 意識的に身体を動かすことよりも

無意識的に身体を動かすことのほうが根源的であることを示している ≫


≪ 身体の感覚的経験は知に回収しきれない原初的なものである ≫


≪ 習慣の獲得は身体の図式の組み替えであり

知性に関係しない意味の把握であり

身体が新しい意味と同化したとき、習慣が獲得される ≫

と主張したとされます


伝統的な「精神偏重主義」を

現象学の立場から乗り越えようとしたとされます







●  レヴィナスの「顔」



エマニェエル・レヴィナス

〔1906~95・フランスのユダヤ人哲学者。タルムード学者であり

ハイデガーとフッサール哲学の研究者〕の哲学は

「愛」の現象学と呼ばれます



フッサールは、全ての客観を

自己の「表象」(イメージ)として一元化したのに対し



レヴィナスは

「存在」としての「他のモノ」と

「存在者」としての「他者」を区別し

「他者」は、全体に一元化できない「主体性」であると考えたようです



彼は、≪「他のモノ」でなく「他者」に出会い

他者の主体性、原理を迎え入れることが「愛」であり「正義」であり

「道徳的意識のはじまり=自由のはじまり」である ≫

と主張したようです



レヴィナスは、自分に絶対に回収できない主体性を

「他者」とか「顔」とか呼んでいでいますが


その「顔」を理解すること

(これをレヴィナスは渇望と呼んでいる)によって

「もはや殺人は不可能なものとなる」と言っています


ナチの大虐殺を体験したユダヤ人としての結論とされます




レヴィナスのいう「他者」「顔」とは

自分の存在の根拠であり

救済原理〔自己を成り立たせている根源的な論理〕に他ならない

と思います




主体とはなに? ③





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