カントの趣味判断を破折 カントの三批判書 批判というと、間違えや欠点を指摘するという意味ですが カントのいう「批判」とは、吟味、考察、究明を意味しています カントの批判哲学と呼ばれるものには 以下の3つがあり「三批判書」と呼ばれています 純粋理性の意味と限界を あきらかにした『純粋理性批判』 意志の自律に自由を求め 実践には魂の不滅と神の存在が不可欠である とする『実践理性批判』 理論理性と実践理性との間を橋渡しする 判断力の存在を示した『判断力批判』 カントは 『純粋理性批判』では悟性(理論理性) 『実践理性批判』では理性(実践理性) を考察し 前者は 川で溺れている子供をみて 「あの子はいずれ死ぬだろう」 「助けに飛び込んだら自分も死ぬかもしれない」 と自然の法則に従ったものの見方をする 認識としての理性の働きを明らかにしています 後者では 「救わなければならない」という 内なる「良心の声」そのものであり 意志を規定する理性の働きをあきらかにしています カントは自然法則や他人の支配から解放され 自己の道徳法則に従って生きることを「意志の自律」と呼び 意志の自律=自由 と説いています 以上のように カントは「自然」と「自由」という2つの原理を定義しています そして、自然界(理論理性)と 自由界(実践理性)の橋渡しをするものとして 美と自然の合目的性を悟る 「判断力」という原理を考えついたとされます 『判断力批判』は、美的判断力の批判(第一部)と 目的論的判断力の批判(第二部)からなり 本書の前半では、趣味判断能力を論じ 後半では崇高や合目的性を論じていて 自然(理論理性)と道徳(実践理性)を結びつけるものを 美と自然の合目的性であるとしています カントの趣味判断を破折 ① 判断力とは、一般に 物事を正しく認識し、評価する能力ですが カントによると 特殊(りんご)が、普遍(果物)に含まれている と考える規定的判断力と 特殊(りんご)に対して それを包摂する普遍(果物)を求める 反省的判断力があるといいます これらは、前者が「帰納法」、後者が「演繹(えんえき)法」にあたります なお、反省的判断力は とくに、普遍的なものが あらかじめ与えられていないときの判断力とされます 我々が反省的判断力をもつゆえに 天才芸術家の芸術に法則性が与えられ 彼の作品(特殊)は、模範型(普遍)となり 彼は流派持つに至る といったことが起きるそうです カントは 「美」の判断を 「趣味判断」(カントのいう趣味は、美を判定する能力をいう)と 「崇高に関わる判断」に区別しています 趣味判断は、反省的判断の一種だといいます 現代においては 「崇高」を、美の一種とみなす傾向が強いですが かつては 「崇高」を「美」とは 対照的な概念とみなす傾向も強かったといいます (とはいえ、美に付随するものとは考えられていたようです) それは「美」が ≪合目的で調和的な快≫であるのに対し 「崇高」はというと ≪気高くて偉大なさま≫という意味であり 崇高という言葉からは 「峻厳な山岳」などがイメージされますが 突き詰めると「自然の驚異」となるからです なので「崇高」は「美」とは、対照的に ≪反目的性≫ ≪不快≫から始まり ≪不快を耐えたのちに与えられる快≫である と考えられていたようです カントもこの立場にあって論じていますが 崇高なものは 人間の「使命」を呼びおこすという形で 合目的性が与えられると結論しています カントは「美とは道徳の象徴」と語っているように この≪崇高美≫(使命)によって 「純粋理性」(理論理性)と 「実践理性」の統合をはかろうという試みをしたようですが これには成功していません さて、カントによると 我々が対象を「美しい」「醜い」と判断するのは 快・不快に従って判断しているということであり こうした美的な判断を、≪趣味判断≫と呼びました つまり、趣味判断=美醜の判断力とは 快・不快そのものということになります 日本語でいう「趣味」は「好み」とか 「嗜好」という意味に近いですが カントの「趣味」とは意に適うことであり 言い換えれば自らの目的に合うこと、つまり合目的性を意味する らしいです カントは、こうした判断力を 悟性(狭義の悟性・ 感覚的内容を結合して概念化する能力)と 理性(理論理性)とともに 3つの上級の認識能力であるとしています カントによると 「趣味」=「美」の判断は 善のような概念を持たないし 一切の関心(欲望や理由)から自由だといいます 「この子と付き合いたい」とか 「この子の顔は均整がとれている」 とかいった関心とは 関係なく起こるということです 趣味=美の判断は ≪客観に対し、ただ形や、色、その他の形式を感じて 主観の心的状態に基づき 美しいと感じ「快」が生じる さらに、「快」を生むだけではなく 「合目的」(目的にかなっているさま)を感じる≫ と言います つまり、住み心地がよいように建てられた住宅は その目的を実現する形態をしているため 我々は美しいと感じ、快を感じますが 同様に 美女や花、あるいは地球や宇宙の映像などを見て 我々が「美しい」と感じるのは 花や美女、地球や宇宙が、それぞれなんらかの目的をもっていて その目的を充分に実現する形態をしているため 「美しい」と感じるのである という話です なお、自然に一定の目的があることを説いた理論を 「自然の合目的論」といいます 「自然の合目的論」に対しては 自然に一定の目的性、方向性を見るのは 自分の「生」に重ねて自然を見ているからで 客観にもとづかない、主観的な判断である との批判があります 話をもどすと、カントによると 【 “この花は美しい”という判断は、個人によるが 同時に、他者も“この花は美しい”と感じるはずだという 普遍妥当性をも要求している このように「美しい」と感じるのは個人の趣味の判断によるが 主観の域を超えて人々に共有されている つまり、美は、普遍性と合目的性をもって成り立ち 人間の美の判断とは、自由意志によって 普遍性と一致しようとするものである 】 といいます 美の判断は、個人の感性、表象から行われるものであるから 美の判断を、≪趣味判断≫というのでのしょうが この個人的な判断は、普遍性をもつわけです そして 【 人間の美の判断が、自由意志によって 普遍性と一致しようとするということは 道徳が、やはり自由意志によって 道徳法則と一致しようとするあり方と同じであり 人間は美という主観的な判断を通じて 道徳という普遍性とつながっているのである 美は、道徳に還元できる 】 というわけの分からない理屈 主観のかたまりのような結論が、最終的なカントの主張です それから ≪美とは目的なき合目的性である≫ という カントの有名な言葉があります 例えば、コップは、ある目的(液体をためて、口に運ぶ)に かなった形や機能を具えています =目的のある合目的性 を具えています これに対して 【 「美しい」という判断は、善のような概念を持たないし 一切の関心(欲望や理由)から自由である(目的なき) 事物の本来の目的に依存することなく 「美にかなっている」とか「美にふさわしい」とか いった印象(合目的性) を与えている 】 これがカントのいう「美しい」ということです さて、カントの論理だと 人間の趣味判断は、対象の美に対して その美にかなった合目的性を配置する ということになりますが その合目的性は、人間の主観であるから 対象そのものに、ホントに目的はあるのだろうか? ということが問題となります なので、カントの理論には さらに客観(対象)のもつ合目的性を判断する 目的論的判断力という判断力が登場してくるのです そして最終的には 世界創造の究極的目的は人間の創造であった なんて、人間中心の話になっているのです カントの趣味判断を破折 ② カントは、認識能力を 受容的な「感性」(直観・表象)と 能動的な「悟性」(理論理性)に分けています 直観から得られるのは、曖昧なイメージ(表象)にすぎない そこでイメージを「悟性」(理論理性)によって カテゴリー(分量・性質・関係・様相)に関連づけ、整理する必要がある というわけです そして、悟性=理論理性 というのは 感性によって与えられる現象界を超越することはない=自由ではない これに対し、実践理性は、意志を規定する能力であり 感性的衝動の克服を命じ、自由を実現しうる能力である というのです それから、後者を、広義の悟性(広義の理論理性)とし さらに、細かく3つに分け ① 「狭義の悟性」(感覚的内容を結合して概念化する能力) ② 「判断力」 ③ 「狭義の理論理性」〔推論を行う能力で、①が構築する 概念に理念(こうであるという考え)を与える能力〕 としています それぞれ、概念(狭義の悟性)・判断(判断力)・ 推論(狭義の理論理性)の能力であり このうち、理論理性は ①、②で加工をうけたものを 統一化し体系化していく働きをする 最高の認識能力とされています なぜ、広義と狭義がある なんてややこしいことになったのか? それは、『判断力批判』を 最後に付けたしとして書いたからだと思います なお、『判断力批判』は 当初「趣味判断の批判」として構想され のちに、趣味判断(美的判断力)と目的論的判断力を 根底において同一の原理と考えるに至り 『判断力批判』としてまとめられたそうです 判断力は 具体的には、特殊を普遍のもとに関係づける能力であり 前述のとおり 特殊(りんご)が、普遍(果物)に含まれていると考える 規定的判断力Ⓐと 特殊(りんご)に対して それを包摂する普遍(果物)を求める 反省的判断力Ⓑがあるわけですが 両者では大きく違います Ⓐは、①と③を媒介する能力で 「狭義の悟性」①によってあらかじめ 与えられている「概念」(判断の範型)を カテゴリー(普遍)に適応させ、規定する能力である とされます これに対してⒷは 予め与えられている判断の模型がなく 感性、表象(イメージ)から、直接的に生じる判断である といいます 美の判断(趣味判断)における想像力は 狭義の悟性(概念を把握する能力) に一致するというか対応するそうです ちなみに崇高の判断は 純粋理性そのものの愉悦であるとされるので 規定的判断力の一種なのでしょう まとめると 規定的判断力は対象を普遍に当てはめる能力 反省的判断力は対象から普遍を発見する能力 ということになります さらに、反省的判断力は 美学的判断力(趣味判断)と目的論的判断力に分けられます 例えば、太郎くんが「この花は美しい」と判断したとします 花は、太郎くんのために 美しく咲いているわけではない (太郎に対して目的がない) にもかかわらず 太郎くんの心に適っている (目的に合っている) ことになります これを「目的なき合目的性」と言いますが 趣味判断とは、こうした主観的な合目的性を判断する能力です これに対して 花は、昆虫をおびき寄せて受粉させたり 実になって、これを食べた小動物に種を運ばせるために咲いている 目的にもとづいて咲いている 自然は、合目的性をもっている といったように 目的論的判断力とは、客観における合目的性を判断する能力です カントの趣味判断を破折 ③ ここからは、カントの間違えを明らかにしていきます カントは、趣味判断=美醜の判断は 快・不快に従っているとしながら 一切の関心(欲望や理由)から自由だ と論じていますが 快・不快とは 五感を通して得る心の満足=「価値」 であり 美味しいとか、楽しいとか、美しいとか 癒されるとか いったものです 価値というのは、幸福の内容や対象であり 一切の関心から自由どころか、幸福についての関心そのものです それと、快・不快とは、感情であって 快・不快の判断=価値判断とは、感情判断に他なりません カントという人は 感情判断=価値判断 というのを、全く理解できていないのです この時点でアウトです!! バカバカしくてお話になりませんが カントがどれだけデタラメだかを 明らかにするのによい機会なので話をすすめていきます このサイトによると https://www.jstage.jst.go.jp/article/ rinrigakukenkyu/46/0/46_157/_pdf/-char/ja カントは、以下のことを言っているようです 【 反省的判断力には固有の超越的原理が求められる この原理は経験的な諸原理が 「高次の諸原理 hoherenPrinzipien のもとで 統一されることを基礎づけるべきもの」であり これらは自然法則に規定されずに残されており 統一は自然ではなく判断力が自ら与えることになる つまり、反省的判断力は「自分自身にだけ法則を与えるものであって 自然に法則を与えるものではない」 】 こういう文章は 内容の真偽を判断する以前に なにが書かれているのを判断しなければならず(笑) めちゃくちゃ時間がムダです なぜわざと難解に書いてあるのかというと そもそも本人(カント)が、なにも分っていないからでしょう たぶんこんな話だとは思います 【 規定的判断力は独自の原理を必要としないが 反省的判断力(美の判断)は固有の原理を必要とする この美の判断における固有の原理は 自らの経験にもとづいて統一されていて 普遍(カテゴリー)によって規定されず 理論理性(自然法則)による認識判断とは 別の独自の認識判断をなす 】 例えば、新番組のドラマがはじまるとします あなたは、ドラマをみて はじめて「面白い」「つまらない」の価値判断ができます つまり、価値というのは 主体が、一方的にモノやコトに、与えるものであり 主体(あなた)と、客体(新番組のドラマ)の関係性において 生じるものではありません 但し、価値は関係性より生じると言えなくもないケースもあります 自分の脳のなかには価値判断の基準があります その基準と対象(モノやコト)との相対 つまり相(あい)対する関係から価値は生じている という観点からみれば 「価値は自分と対象との関係性から生じる」 といっても正しいとは思います 例えば「あいつ美人だな」と言ったとき 自分の脳の価値基準とあいつ(女性)との 相対する関係から 価値が生じているということです とはいえ、このケースの場合、すでに 自分の脳のなかに 価値判断の基準(タイプの女性のイメージ)がある ということですから すでにあるタイプ美人に対して 欲望があるということであり すでに価値判断がなされた状態にある ということを意味しています つまり、経験によって 形成された固有の原理(脳の中にある価値基準)にもとづく 価値判断というのは カントのいうような 高次の諸原理 hoherenPrinzipien のもとで うんちゃらこうちゃら というようなものではない ということです(笑) それに、脳の中に存在するる価値基準にもとづく 価値判断というのは なにも「美」に関することばかりではないでしょう トラウマ(心的外傷)は、過去の記憶や感情が 潜在意識にすりこまれたものとされます 過去の事実に、恐怖や不安の感情が強く結び付けらて 潜在意識に、記憶として留め置かれたものです こうしたトラウマにおいて なされる価値判断は、すべてそうです それから、理論理性(認識能力としての理性)というは 事実判断、真偽の判断(真理か虚偽かの判断)ということですが 美の判断が、理論理性に関係なく生じるわけがない(笑) 事実判断、真偽の判断とは、コップに水が入っていたとして 「水が入っている」と言えば『真理』 「石が入っている」と言えば『虚偽』というものです 脳の中に 価値基準(タイプの女性のイメージ)があったとしても 目の前の女性が「このような容姿である」 という 事実判断がなされない限り 快・不快の価値判断なんてできませんよ(笑) さて、カントの理屈からいくと 「この子は美しい」と判断するとき 感性によってとらえた事物のイメージ(表象)が 悟性(理論理性=認識能力としての理性)に行くことなく 快・不快を基準とした 美醜の判断がなされるということです そんなアホな(笑) 「美しい」が視覚体験であるので 感性によるイメージ(表象)から そんな空想を可能としているのです 「美味しい」(味覚)という判断は どうやったってそんな空想はでせきません(笑) 「〇〇店のラーメンうまいよ」というAさんに→ 「今度、食てみるよ」というBくん もちろん、Bさんは 〇〇店のラーメンを食べて=事実を認識して はじめて、曲に対して、快・不快の価値判断ができるのです 「美しい」と「美味しい」は どちらも五官を通して得られる心の満足 という意味において、差なんてありませんよ 聴覚も体験も同様に 「私、作曲が趣味なのです」というAさんに → 「じゃ、聴かせて」というBさん もちろん、Bさんは Aさんの曲を聴いて=事実を認識して はじめて、曲に対して、快・不快の価値判断ができるのです つまり、真偽の判断(真理か虚偽か) といった知覚判断・事実判断があって はじめて、快・不快といった価値判断・感情判断ができるのです それから、カントは、あるモノやコトを 美しいと知覚したならば それは快楽をもたらす事になる 逆に醜いと知覚したものならば それは苦痛(不快)をもたらす事になる という理屈から 「美」と知覚した存在は、必ず快楽をもたらし 「醜」と知覚された存在は、必ず不快をもたらす といったバカみたいな理論を展開していますが これでは、落ち目の女優が 若い女優の美貌に対して 不快を感じることについての説明がつきません(笑) カントという人は 感情判断=価値判断というのを 全く理解できていないのです と書きましたが 感情論 より抜粋しておきます 竜太 感情を辞書で引くと ≪「快い」「美しい」「感じが悪い」などというような 主体が状況や対象に対する態度あるいは価値づけをする心的過程≫ (広辞苑) ≪ある状態や対象に対する主観的な価値づけ 「美しい」「感じが悪い」など対象に関するものと 「快い」「不満だ」など、主体自身に関するものがある≫ (三省堂 大辞林) とあるよ 酔恭 感情って喜怒哀楽ばかりでなく、苛立ち、狼狽、困惑、動揺、驚き 苦悶、苦悩、不安、心配、落胆、不幸、絶望、失望、嫌悪、憎悪、敗北感 屈辱感、敵意、悪意 、拒絶 、反感、驕慢、憤慨、葛藤 孤独感、疎外感、寂しさ、罪悪感、羞恥、優越、劣等、軽蔑、侮蔑、恐怖 不機嫌、可哀想、感傷、嫉妬、不愉快、辛い、ホームシック、衝撃、悲痛、悲哀 面白い、つまらない、気が休まる、気が滅入る、癒される、安心、幸福、優しさ 思いやり、満足、希望、好き、憧れ、 愛、同情、共感、哀れみ… たくさんあるよね ≪嬉しい≫と≪楽しい≫では 似ているような心の状態を表すけど、少し違いがある 竜太 そのように心の状態にちょっとずつでも違いがあるからこそ 色々な言葉があるのだろうど、でも基本的には3つしかないと思うよ 酔恭 3つ? 竜太 感情とは、1種の防衛手段で 自分にとって「是」か、「非」か 「どっちでもない」か の3つしかないってことだよ つまり、刺激に対して、自分が「是」のとき、安心なときに 楽しいとか、嬉しいとか、おもしろいなどといった感情が起こる 「非」のとき、危険があるときに、苦しい、怖い ムカつくなどといった感情が生まれる また、どっちでもないとき・なにもないときには 無感情であったり、平常心であったりするのではないかと思う 無感情は、どちらかといえば「是」の感情に入る だから、さらに言うと "感情とは、刺激(情報)に対する「是」か「非」の反応でしかない" ということになる 酔恭 なるほど・・・・ 脳が、自分の生命に危険があると感じると ムカつくなどの感情を発動させたりしているわけだね 竜太 感情が"基本的には3つしかない" "刺激(情報)に対する「是」と「非」の反応でしかない" となると 我々が思っているような感情とは全く違うよね 我々が思っているような感情は 感覚(知覚)を前提として考えているものだと思うよ 酔恭 どういうこと? 熱いとか、冷たいとか、美しいとか、硬いとか うるさいとか そういったものが「知覚」だな 竜太 そういった「知覚」と 「感情」とをごちゃまぜに考えているから 誰1人その誤りに気づかない 心理学という分野ができても 結局、感情について解き切れないでいる と思う 「寒い」(知覚)と、「やだなぁ」(感情) 「うるさい」(知覚)と、「頭くる」(感情) が同時に起きていることから ごちゃまぜに考えてしまうのかもしれない 酔恭 なるほど・・・・ 「寒い」とか「暑い」なんかは はっきり知覚だと分るからまだいいけど 可愛いとか、美しいとか、美味しいとかなんて 知覚か感情かよく分らない 竜太 「可愛い」「美しい」「美味しい」は 基本的には、知覚なんだけど これを感情だと勘違いしてしまうわけだよ 「知覚」とは、五感を通じて得た情報をもとに脳が行う 「このものは何であるか」「これはどのようなものであるか」 という真理の判断 (但し、知覚されたものは あくまで個人の事実であって、真理とは限らない) これに対して感情は「可愛い」「美しい」「美味しい」 という知覚に対する「是」「非」という価値判断ということになるよ 酔恭 知覚が「認識」の手段なのに対し 感情は「価値判断」の結果ってことだな 竜太 そうだね 「可愛い」「美味しい」が いつも「是」となるとは限らないよね 「あの子、私よりも可愛いなぁ くやしい(T_T)」とか 「このラーメン、うちの店よりうまい やばい」とか 「非」の場合もある 酔恭 広辞苑と大辞林は「美しい」や「感じが悪い」を 感情の例としてあげてるけど「感じが悪い」も知覚と言えるね 「感じが悪い」がいつも「非」であるわけではない 「あの人感じ悪いわ (よしよし) この面接、私の方がだんぜん有利 (やった!!)」 となることもある 以上のように 知覚・認識とは、情報に対する「真理」(事実)の判断 感情とは、認識に対する「価値」の判断 であるということです 結論をいうと 「この子の顔は均整がとれている=美」 〔 知覚あるいは認識判断の結果= 美・醜の判断の結果 〕 → 「この子は、ホント美しいなぁ=快」 〔 心の満足を 基準にした価値判断の結果 〕 → 「この子と付き合いたい」 〔 自分にとって必要なモノやコトを 基準とした価値判断の結果 〕 というのが この場合の「認識判断」「価値判断」の順序です 「美」の判断の場合 以上のように 知覚の判断によって「美」と結論されているときと 価値の判断(快・不快)によって 「美」と結論されているときとがあることも注意すべきでしょう また「この子と付き合いたい」 これは ≪自分にとって必要なモノやコトであるか?≫ を基準にした「価値」=「自分にとっての合目的性」による判断です さらに ≪自分にとって必要なモノやコトであるか?≫ を基準にした価値の判断は 感情によってなされる場合も 理性によってなされる場合もあります 理性とは、たとえ「理論理性」であったとしても ≪道理に従って判断したり行動したりする能力≫です なにに対する「判断」なのか? もちろん、認識ではなく、価値に対する判断です それから 「価値判断」が必ずしも 心の満足を 基準にした価値判断の結果 → 自分にとって必要なモノやコトを 基準とした価値判断 という順序にしたがうというのではなく 「ラーメン食べたい」 (自分にとって必要なモノやコトという価値) → 「美味しい」(心の満足という価値) という場合もあります 雲海に浮かぶ山並みとか 満天の星空とか、澄みわたる青空とか いったものに対する「美しい」は およそ人類共通な価値判断なので こうした≪美しい≫は 「客観性」「普遍性」さらに言えば「絶対性」 をもつと言ってもよいでしょう なので、あくまで 「人間の認識において」という前提をつければ ≪真理≫と言っても誤りではないかもしれません しかし、たいがいの「美しい」は 自分あるいは、特定の社会という 主観性からくる価値判断の結果です ≪価値≫そのものなのです だから、同じ行為が、キリスト教徒では「テロ」と呼ばれ イスラム教徒には「聖戦」となるわけです それから、カントのいうように 主観による「美」の判断は ≪他人も"この花は美しい"と感じるはずだ≫ というのは普遍妥当性の欲求を含みますが そうした主観による「美」の判断に 必ずしも普遍性があるというわけではありませんよね(笑) 「美」が、主観の域を超えて人々に共有されている みんながみんな同じモノやコトを美しいと感じる というなら 文化の対立なんておきません 江戸時代の武家の婦人の 「武家の婦人として敵に一矢むくいず、犬死するのは主君に対しても 家名に対しても、まことに恥ずかしい」なんていう美意識は 時間を超越した美意識などでも、人類共通の美意識などでもなく その時代の、また武家社会の パラダイム(常識・しきたり・しがらみ)の上に成り立つ この婦人にとっての救済原理(自分を成り立たせる論理)=価値 であって それによって、彼女は、美しく生きられもしたわけです カントの趣味判断を破折 ④ それからカントの哲学の特徴をいうと 「目ぼしい概念」をなんでもかんでも 組み入れ、統合し、理論を完成させたところにあります 「時間」「空間」、いまで言う『時空』もそうですが イデア的な『物自体』 (経験・認識できないが、背後で経験を成立させる存在)もそう 世界の『合目的性』もそう それから 特殊(りんご)が、普遍(果物)に含まれている とみなす『規定的判断力』(帰納法) 特殊(りんご)に対して それを包摂する普遍(果物)を求める『反省的判断力』(演繹法) なんかもそうです こうした概念を 全て自分の「認識論」に組み さらに「認識論」を「道徳論」に結びつけているのです なんでもかんでも 「目ぼしいモノ」をとり入れていくのですから 一見、斬新で、おもしろいのですが すぐに化けの皮がはげてしまいます 太郎くんが、花子さんに対して 「美しい女性だなぁ」 「自分の心に適って (目的に合って) いるなぁ」と感じる主観の抱く合目的性と 地球は目的を持っているのではないだろうか? 宇宙は目的を持っているかもしれない? という客観のもつ合目的性 前者を悟る趣味判断(美的判断力)と 後者を悟る趣味判断(目的論的判断力)と が、根底において同一の原理 (・_・?) アホか!! 前者が、価値の判断なのに対し 後者は、真偽の判断だろが(笑) ちなみに ショーペンハウアー(1788~1860・ドイツの哲学者)は カントの「趣味判断」について 「最高に頭の良い盲人が組み立てた色彩論」と批判したそうです 【 ショーペンハウアーは 仏教をはじめとするインドの思想を高く評価し ドイツで東洋の研究が進むきっかけをつくったとされています 彼は、カントの主観が客観を可能にするという認識論に賛同し 発展させ、世界を主観(意欲)の表象(心の像)とみなしました 彼の主張は以下のとおりです ≪ 我々が意識している世界は、自分の身体も含めて 食欲、性欲、征服欲などの意欲 (生への盲目的な意志)の現れ(表象)である 人間社会においては、この意志は、他人の意志によってたえずはばまれ 苦につきまとわれることになる。世界はエゴイズムの場である ≫ ≪ しかし、我々は、自然や芸術にふれる美的経験(観照)や 他者の苦を自分のことのように思い共感する道徳的経験(同情)により 自己を盲目的意志から解放し、エゴイズムを消滅させることができる ≫ ≪ 古今東西の聖者たちは、禁欲的修行により意志を否定することで 盲目的意志から逃れてきたのである ≫ ≪ 盲目的意志からのさらなる解放を求めるなら、意志の否定か 全て空しいと知る諦観(ていかん・あきらめること)以外にはない ≫ "あきらめを十分に用意することこそ 人生の旅支度をする際には何よりも重要だ"という言葉も残しています ● 諦観 「諦」とは真理の意味で 「諦観」とは、本来、仏教で ものごとの本質をあきらかに見きわめることをいう のちに欲望を空しいものと悟ること さらには、あきらめることの意味になった 】 カント(1724~1804)は、「美しい」という判断は 【 善のような概念を持たない 】 とか、アホみたいなコトを言っています もちろん、文字だけあって意味や概念のない言葉などありませんよ 「美」という言葉は、ちゃんと概念を持ちます 善という言葉の原型の概念は、およそ ≪自分可愛さの欲を捨て集団あるいは誰かのためにする行為≫ あるいは ≪そうした正しい行為によって秩序性が保たれているコト≫ といったものでしょう では、原型の美は何か? 我々の祖先が ≪そうした正しい行為≫ あるいは、≪そうした行為によって秩序性が保たれている状態≫を 「美しい」という言葉で、他のコトとは立て分けた ことが容易に想像できます つまり、ある「概念」を「美」という概念で立ち分けたということです カントの言う【 美には善のような概念を持たない 】 これは、美には「概念」がないというのではなく 美には、善のような「目的性」がないという意味なのかも知れません しかし、そうとらえたとしてもデタラメです ≪正しい行為によって秩序性が保たれているコト≫ こうした「善」や「美」は 社会においての≪必要性≫(=価値)です また、キリスト教信者のAさんなら 神に敬虔な行為は「善」であり「美」であると感じているでしょう こうした「善」や「美」は Aさんにおいての≪必要性≫(=価値)です 必要性とは、目的性、また合目的性そのものです 一般に【価値】という言葉は 大きく二つの概念を意味する言葉として 使われています 1つは、主体(自分や社会)にとっての 必要なモノやコトです 「善」というのもこのうちの一つです この価値は、≪幸福の対象≫としての価値です もう1つは、五感を通して得る心の満足です 美味しい、楽しい、美しい、心地よい・・・・ といったものです 必要性の価値の基準が 必要か必要でないかにあるのに対して 好きか嫌いか、快か不快かのレベルにおいての価値判断です この価値は、≪幸福の内容≫としての価値です カントのいう「美」がデタラメ極まりないのは 「美」は≪一切の関心(欲望や理由)から自由≫と語り つまり一方で、知覚判断(事実判断)としての「美」を定義しておき 一方では、快か不快かの価値判断=感情判断による ≪五感を通して得る心の満足≫という価値としての「美」なのです 両者をイコールにして 都合で語っているのです ≪美とは目的なき合目的性である≫ というカントの言葉のトリックを明かしておきます ≪美とは目的なき≫の「美」とは、知覚判断による「美」 ≪美とは合目的性である≫の「美」とは、価値(感情)判断による「美」 ということです 別々の「美しい」をごっちゃに語ることで あたかも真理のごとく装っているということです コップとか、スプーンとかいった人間の創造物は 人間という主観にとっての必要性によってつくられたものであるので 目的にかなった形=合目的性 をもつのは当然です 一方、≪五感を通して得る心の満足≫という価値の 合目的性の正体は、【心の満足】なのです 合目的性とは 主観(人類、民族、集団、個人)に与えられるものです 例えば、満天の星空とか、小鳥のさえずり 澄み切った青空などというのは 全人類的に、合目的性を感じさせるものと言えます これに対して、「侘び寂」という 簡素のものに、趣きを感じる日本人固有の美意識があります 日本人だけに≪普遍性≫をもつ「美」です 「趣き」を感じるとは ≪心の目的にかなっている≫と感じるということであり ≪合目的性≫を感じるということです つまり、別の言い方をすれば 日本人という主観だけが「侘び寂」という美に ≪普遍性≫と≪合目的性≫とを創造し得るということです 価値とは、そもそも主観によって与えられるものです コップのもつ「液体をためて、口に運ぶことができる」 という目的性は、人間という主観が、コップに与えた価値です これをもうちょっと細かくいうと コップのもつ「液体をためて、口に運ぶことができる」 という目的性から 人間という主観が、液体を口に運ぶという状況においての 必要性を、コップに感じているということです すなわち、コップの目的性とは 主観が、コップに与えた必要性=価値 であるということです 同様に、日本人が、侘び寂を「美」と捉えるという意味は 「心の目的にかなっている」という目的性から 日本人という主観が 侘び寂に、「快」という価値として与えている ということなのです それから、カントによると「美」は ≪合目的性と普遍性をもつ≫ということなので 「普遍性」について補足しておきます 例えば、侘び寂という精神文化が 日本人固有の美意識によるものであるならば 侘び寂は、日本人のみに普遍的であるが 世界的には特殊であり、普遍ではないということです すなわち、これは 対象のもつ侘び寂という芸術的要素から (価値としての)「神」や「真理」を創造しうるのは 日本人だけであるということです 結論をいうと カントというのは、「価値」とはなにか? 「感情」とはなにか? 「認識する」とはどういうことか? 「合目的性」とはなにか? といったことに対する答えのないままに ただ単に、なんでもかんでも統合し 論理を構築したというだけの人ということです カントの形而上学と平行線 カントの認識論 コペルニクス的転回 (ひとつ戻る) |
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