緋山酔恭の「物自体・事自体論」 カントの認識論について コペルニクス的転回



 緋山酔恭の


物自体・事自体論



 




カントの認識論

コペルニクス的転回



哲学の歴史には


人間の心は「タブラ・ラサ(白紙)」で

人間の認識は全部経験に由来する(=後天的)

感覚的なものであるというロックなどの≪イギリス経験論≫に対し


「生得観念」〔しょうとくかんねん・

もともと心に具わっている観念 神や自我の観念など〕

の存在を認めるデカルトなどの≪大陸合理論≫との対立がありました




なお、「生得的に」(生まれながらにして)とは、先天的に

あるいは先験的に(経験に先だって)ということで


生得的にとか、先天的にとか、先験的にとかを

カント哲学では「アプリオリ」といいます




大陸合理主義においては、人間は生得的に

「神」や「自我」など基本的な観念・概念と

「理性」(理性といっても、宗教的な理性に近い)が

与えられているされています



そして、理性の能力を用いた内省・反省を通じて原理をとらえ

そこからあらゆる法則を演繹(えんえき・おしひろげること)

していく演繹法が、真理の探求の方法とされたといいます



また、経験に基づく感覚や感性による認識は

低い認識であると主張します






経験論の先には「理性偏重主義」や「懐疑論」があります

経験論では、因果関係なども「経験による思い込み」

として説明されました



一方、宗教の説くような「理性」を重視する合理論が行き過ぎると

「独善」に陥ります



デカルトの「神の本質論的証明」なんてその代表ですね





ドイツの哲学者 カント(1724~1804・イマヌエル・カント)の言葉に

「全ての認識は経験とともに始まるが

だからといって全ての認識が経験によるのではない」

とあるように


カントという人は、こうした経験論と、合理論の対立を超え

両者の統一を試みています






カントの「認識論」は


【 対象により受動的な感性が触発される

「感性」は対象を、時間と空間によって秩序づける


ここに直観が成立する


つまり認識は、外部の物体からの刺激を

感性によって直観することからはじまる



直観から得られるのは、曖昧なイメージ(表象)にすぎない


そこでイメージを「悟性」(理論理性)によって

カテゴリー(分量・性質・関係・様相)に関連づけ、整理する必要がある



すなわち、直観を能動的な理性(理論理性・悟性)を

量や性質とかいったカテゴリーを用いて整理する必要がある


それによって対象は、特定のものとして認識される



〔 人間の感性の働きにより直観されたものは

整理、統合されていく。そのとき用いられる枠組みがカテゴリー 〕




理性が有効に働のは、感性が及ぶ範囲=時間と空間

に限られる



感性が対象を秩序づけるときの

「時間」と「空間」というカテゴリー(形式)と


理性が対象を整理するときの

「分量」「性質」「関係」「様相」といったカテゴリーは


経験に先立って、つまり生まれつき

=生得的、先天的、先験的に=アプリオリとして

認識能力に存在している



認識は、感性によって得られたイメージを

理性によって再構成する作業を経て可能である=

対象は主観によって構成される 】


ということです





なお、悟性には、広義の悟性(=広義の理論理性)を


さらに、細かく3つに分け


① 「狭義の悟性」(感覚的内容を結合して概念化する能力)


② 「判断力」


③ 「狭義の理論理性」〔推論を行う能力で、①が構築する

概念に理念(こうであるという考え)を与える能力〕


としています




狭義の理論理性によって

魂、世界、神などに理念が得られる

としています






それまでは、人が目にしているもの=

存在するものと考えられていました



ところが、私たちが認識しているのは

対象そのものではない


対象についての情報を感覚器官が受け取り

それを主体が「なんであるか」知るために


ある枠組・形式(カテゴリー)を用いて

構成した表象(知覚したイメージ)にすぎない


というのがカントの認識論なわけです




カントは、認識を構成するのは、主観側にある

主観が客観に従うのではなく、客観が主観に従い

主観が客観を可能にする


そこに経験が生じるという考えを打ち立てたということです




カント自身この発想を

地動説をはじめて唱えたコペルニクスにちなんで

「コペルニクス的転回」と呼んでいます




それから、カントは

「世界を人間全てに共通する形式に沿って認識するのだから

得られた認識は客観性を持つ」

としています







カントのカテゴリーの内容自体は

なんとも言えませんが


我々は、対象を

空間的(大きさや数・あるいは対象が存在する場所))

時間的(動きや変化のあるなし)

様相的(姿や形・色彩など)、本質的(これはなんであるか?)


また、他との関係(同一や差異)、他との関連(因果)

などといった観点から

認知しているのは確かなはずです



そして、そういった知覚や認識に関する機能が

カテゴリー(形式)として

もともと我々の「脳」に具わっていることも確かだと思います





とはいえ、私たちが

コップだの、本だの、花などを

認識する場合どうですか?



コップではないものや

コップに似たものなどを

次々に認知していくなかで


ガラスでできているモノとか、水を入れるモノとか

日常使うモノとかいった


一般概念(カテゴリー)に

はめていくように分けていき

存在をコップとして識別し、認識しているはずです




つまり、カントが示した生得的なものと

経験的に学んだ一般概念を利用して

モノやコトを認識していると言えるのです




カントの趣味判断を破折する




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