緋山酔恭の「物自体・事自体論」 カントの道徳論を論破



 緋山酔恭の


物自体・事自体論


 




ドイツの大哲学者 カント(1724~1804)は

「認識論」と「道徳論」における権威です


その彼の哲学で

根幹中の根幹をなすのが「物自体」(ものじたい)です


また、彼の思想において

一番、批判をされてきたのも「物自体」なのです





カントは、世界を、経験可能な「現象」(モノやコト)と

経験不可能な「物自体」に区別し


「物自体は知ることはできないが、現象を可能にするものとして

物自体が存在しなければならない」としました



また、経験可能な「現象界」と

物自体が属する世界の「叡智界」に分け


人間は「実践理性」という善性、道徳的原理によって

経験的な知覚では把握できない超感覚的な世界=「叡智界」

に、参入できるとしています





この「物自体」という発想は

プラトンの「イデア」なんかが源流と考えられていますが


「物自体」という概念とともに

批判されてきたのは


「物自体」という言葉です



≪物というのは

意識の対象であるから「物」であるのに

意識の対象にならない存在が、なぜ「物自体」なのか≫

という批判です





まず、カントの思想をざっくりと書いておきます





カントの道徳論 ①

仏教との類似性



カントの思想は


1、人間には、普遍的に発動される

善性(=良心・実践理性)が内在していること


2、この良心の声(実践理性)に従うによって

人間としての完成を目指すことができること


3、また、それが人間の目的であり幸福であること


この3つを前提としています


これは100%仏教と一緒 と言えるほど

仏教に酷似しています



「大乗仏教」では「十界論」が誕生しています

「十界論」とは、自己のなかに10種の命があるというものです


低い方から

地獄(苦しみ、怒りの最低な命) 餓鬼(むさぼり) 畜生(おろか)

修羅(嫉妬・傲慢) 人(平らかな気持ちを持てる命) 天(喜びの命)


声聞(しょうもん・仏教を学び無常すなわち空を悟った境涯)

縁覚(えんがく・仏教以外、たとえば自然摂理から空を悟った境涯)

菩薩(利他の境涯) 仏(智慧と慈悲の最高の境涯) です



なお「空」(くう)とは、全てが一瞬一瞬変化している 変化してやまない

全てが無常であるということです




どのような人のなかにも10種の命があるわけですから


どんな極悪人でも、川で子供が溺れていたりすると

「助かって欲しい」という「善」の心、菩薩や仏の命があらわれる

ということです


つまり、人間の性は善でも悪でもなく、両方備えていて

縁にふれて、様々な命があらわれてくる

ということです



とはいえ一般の衆生(人間)はふだんは

低い方から6つの命(地獄~天)が

環境にふれて(縁にふれて)現れ消え、現れ消えしているとされます


これが≪六道輪廻≫です



また、縁にふれて色々な命が現れ消えしますが

もどる場所に違いがあります

ふだんあるところの命が、その人の「境涯」ということです



そして仏教とはつまるところ

六道輪廻、つまり「縁(環境)にふりまわされている自己」から

「主体的な自己」を目指す教えと言えるでしょう



主体的な自己とは

声聞、縁覚、菩薩、仏 です





日本の既成仏教では

法相宗(興福寺や薬師寺など、法隆寺もその系列)以外

全ての衆生(いきとしいけるもの)に

「仏性」(仏界の生命・仏の生命)があることを基本としています


これは、来世に、極楽に往生することを願う

浄土宗や浄土真宗でも同じです





法相の場合は

「五性格別」(ごしようかくべつ)といって

生まれながらにもつ性質による結果の違いを説きます



菩薩となる種(仏性)をもっていて、仏教に縁すると仏になれる人


声聞(しょうもん)の種をもっていて

利他の心を欠き、仏教に縁しても声聞にしかなれない人


縁覚の種をもっていて、縁覚になる人


菩薩・声聞・縁覚の3つの種をもっていて

仏になれる者とそうでない者に分かれる人


全く宗教的素質がなく、よくて人や天界(喜び)の境涯にとどまり

多くは永く苦海に沈む人


と分けているのです







カントの「道徳論」の中心となっている

≪実践理性≫という最高の善は、仏性となんら変わらないわけです



しかも、人間は「実践理性」という善性、道徳的作用によって

経験的な知覚では把握できない超感覚的な世界=「叡智界」

に、参入できる としていて

仏教でいうところの「悟り」の世界まで説いてしまっているのです(笑)






また、カントによると


【 あらゆる事物は価値をもつが

人間は内なる絶対的価値、すなわち「尊厳」を有している


尊厳は、いかなる価格を提示されても売り渡すものではなく

どんな価値とも交換されるものではない


尊厳をもつゆえ人間は

何らかの目的のために存在するのであって

誰かの目的の手段として使用されてはならない 】



【 この世には大別すると

理性的人間と、非理性的人間(動物的人間)が存在する


前者を「人格」と呼ぶ  善き意志を有している


後者は、絶対的価値である「尊厳」を有しておらず

相対的価値のみもつ存在である


手段として使用され

値段がつけられ、売買の対象となる者で「物件」と呼ぶ 】


ということですから

法相宗の「五性格別」(ごしようかくべつ)と同質と言えます







創価学会では

日蓮の図顕した曼荼羅に、南無妙法蓮華経(題目)を唱えると

自己に内在する南無妙法蓮華経(仏界の生命・仏性)が

大宇宙の仏界である南無妙法蓮華経

曼荼羅を介して、合致する と教えています



すなわち、南無妙法蓮華経は

宇宙の仏界、宇宙の根本原理、宇宙究極の法則、幸福のリズム

であるとともに


自己に内在する道徳的な原理でもあり

尊極の生命であるということです







カントの道徳論 ②

陽明学との類似性



それから、儒教の「陽明学」ともほぼ同じです


朱子学と並び称される「陽明学」(心学)は

王陽明〔1472~1529・本名から王守仁(しゅじん)とも呼ばれる〕

よって創始されました


朱熹(朱子)より300年以上も後の人です


心学の根本思想は

朱子学の「性即理」に対して「心即理」に集約されます



但し、陽明学のいう「理」とは、倫理的・道徳的原理であって

朱子学のように

それにプラス「宇宙の根本原理」などといったものは含みません


つまり、道徳的な判断能力です



但し、万物および人の本性に

理〔宇宙の根本原理であり、かつ道徳的な原理〕が

存在しているという朱子学の立場そのものを

否定したわけではありません



朱子学が、外部に理を求めることばかりに熱心で


自己に内在している理を求めていくこと

あるいは自己に内在している理を顕現していくこと


これについての実践を軽視していると批判したのです





朱子学とは、簡単にいうと

人の本性は、等しく理であり善であるが

気質の性の清濁によって

聖と凡との違いがある


ゆえに物欲を克服し

理という本来的な自己に立ち返らなければならないとし


その方法として「居敬」(きょけい)と「窮理」(きゅうり)を重んじ

経書(四書五経など)を読むことで

知的に深まることが求められたわけです



「居敬」〔敬(心を1つに集中させること)の状態を保つこと〕

「窮理」〔事物の理をきわめ知ること〕





陽明の「知行合一」(ちこうごういつ)は

朱子学が知を先にして

その実践(行)をあとにする知先行後(ちせんこうご)に

傾きがちであったことから立てられた立場です


「知っているのに実践しないというのは

まだ本当に知っているとはいえない

朱子学では仁義道徳を口にするが、これを実践しない」


「朱子学は知識の量的拡大を目的としているに過ぎない」とし

知(道徳的自覚)と行(実践)は、1つのことの両面にすぎない

と主張したわけです




中国では陽明学は

官学として硬直化した朱子学をしのぐほどの盛況振りを見せたそうです


ただ、知識を外に求めなくてよいという考えが強調され

経書の権威を否定し

読書を廃するといった極端な傾向も生まれたといいます



日本には江戸時代初期に日本に入っていますが

幕府や諸藩の弾圧によりそれほど普及しなかったようです


反骨の儒者と呼ばれる 熊沢蕃山(くまざわばんざん)や

大塩平八郎、西郷隆盛なんかが陽明学を学んだといいます







カントの道徳論 ③

良心と実践理性



カントは「理性」には

≪純粋理性≫(理論理性)と、≪実践理性≫の

2つがあるとしました



“人間は意志の自律によって「最高善」に至れる”という

道徳論者のカント(1724~1804・ドイツの哲学者)は

認識能力の「理論理性」(純粋理性)とは別に

人は、先天的・先験的な意志能力として「実践理性」を有するとしました


〔 先験とは経験に先だってということで

カント哲学においては、先天的・先験的な能力をアプリオリという 〕



なお、実践理性というのは、意志そのものではなく

意志を規定する道徳原理、道徳法則です



また、自己に内在する良心の声に従おうとする理性

=実践理性ではなく


「~しなければならない」という良心の声そのものが実践理性です



なぜ、良心そのものが「理性」なのか?

というと、この理性で考えれば、なにが正しいかが分かる

「~しなければならない」が正しいことが分かるからだといいます




例えば、川で子供がおぼれているのを見て

「あの子はいずれ死ぬだろう」

「助けに飛び込んだら自分も死ぬかもしれない」と

自然の法則に従ったものの見方をする働き=認識能力が「理論理性」



この「理論理性」(純粋理性)が

我々がふつう「理性」と呼んでいる理性です


カントによると「理論理性」も

先天的・先験的能力として、人間は有しているといいます




これに対して「なんとかして救いたい」

さらに「救わなければ」とかいう」という

内なる≪良心≫が「実践理性」というわけです


そして、カントは自然法則や他人の支配から解放され

この道徳法則に従って生きることを「意志の自律」と呼び


意志の自律=自由 と説いています





なお、「純粋理性」(理論理性)が

我々がふつう「理性」と呼んでいる理性です

と書きましたが


「純粋理性」も

カントのいうような認識能力などではなく

価値判断の結果であり

意志に近いものです







人間の行動原理は欲求です


「良心」だとか「善」だとかいった

利他的な原理をもちだしてくるうちは

まだまだ人間が見れてませんよ




自分が必ず死ななければならない

状況に置かれたら どうでしょうか?



例えば

見せしめのために10人が処刑されることになりました


あなたは、そのうちの1人の身代わりになることを

申し出ることができますか?


「はい。私は、良心に従って、身代わりになります」

と答えられる人が、どれだけいるでしょうか?



そう考えたとして≪良心≫とか

≪良心の声に従う理性、あるいは意志≫

なんていう原理を

持ちだすのは愚かしいですよ




そんな状況において

自分を、身代わりに差出し

死地へ飛び込ませる行為がなされるとしたら


それは「良心」や「善性」などといった

利他的な原理にもとづく理性や意志なんかではなく


≪最後まで、美しく生きたい≫とか

≪権力の横暴に、自分は屈したくない≫とか

いった「自己的な欲求」にもとづく感情や意志でしかないはずです




財布を交番に届けるのも

ゴミを道に捨てないことも

≪美しく生きたい≫という欲求ですし


弱い立場の者をいじめない

というのもそうです


この欲求に逆らうと「痛み」となるので、従うのです





おぼれている子供を助けるのも

罪や悪(自分の倫理観においての罪や悪)をする

勇気がないだけだと思います



人間に先験的な道徳性があったとしても


それよりも今までの経験や教養なんかによって培われた

自分というものがあって


それに対して≪理性≫ではなくて


「こうしたい」「こういう生き方がしたい」という

≪自己的な欲求≫が

子供を助けるという行動をとらせるのだと思います



仮に、カントのいうように

人間の行動原理が「良心」だとか「善」だとかいうなら

共産主義は、成功していたはずです(笑)




だいたい

人類は、全人類が食べていくのに十分な食糧を生産しています


富める国で過剰に生産され、廃棄している食糧が

貧しい国の人たちに分配されれば

この世界から「食べることに苦しむ」という不幸の1つが消滅します



こんなことは、皆が解っていることですが

この誰もが解る単純な話が実現できないのです



万物の霊長と称される

人間という存在の英知をもってさえ、それができないのです


だから世界の1/6もの人が、今も飢餓で苦しんでいるわけです



なぜ、解決できないのか?


「助ける方が望ましい」くらいにしか感じていないからです

「助けなくても罪悪感を感じる必要などない」と思っているからです





それから「あいつのしていることは偽善だ」とかいいますが

そもそも≪偽善≫なんてないのかもしれません


自分の行為を他人が

「善」とか「悪」とか「偽善」とか評価しますが

自分は、つねに≪信念≫に従って生きているだけ


自分にとってあるのは

≪自分の信念に従って生きているかどうか≫だけだと思うのです



≪美しく生きる≫といったって

≪美しい≫という基準が、人によって違います


だから、結局

≪美しく生きるとは、自分の信念に従って生きること≫

以外にないということです







カントの道徳論 ④

定言命法と義務論



規範倫理学というのは

「正しい」の意味を説明するものではなく

「正しい」の意味は同じであるという前提のもとに

なにが「正しい行為」なのかを研究するものだといいます


なお「正しい」の意味は

メタ倫理学(メタとは高次のという意味)で

議論されるテーマだといいます





そうした「規範倫理学」の立場には

3つの基本型と、その複合型があります



1、功利主義


「最大多数の最大幸福を実現すること」

を正しいとする考え方です


最善の帰結を目的とする結果主義です





2、義務論(せねば・すべし)


カント主義とも呼ばれ

義務(実践理性による〇〇せねばならない)

を守る行為が正しく

それに違反する行為は不正だとする考え方です





3、徳倫理学


≪有徳な人ならそうするから≫が「正しい」の基準です


第二次大戦後、これまでの「行為」ばかりを重視した

倫理学への反省が生まれたといいます


なにかをする行為について

「最善」とか「義務」ではなく

徳をもってなすことが正しいという考え方です





4、複合型


功利主義の中で、義務や徳を重視を重視した

功利主義+義務論、功利主義+徳倫理学 もあります



また、そもそも、カントの実践理性=良心=徳

であることから、義務論+徳倫理学 もあるようです







カントは、実践理性が命じる道徳的命令「汝~せよ」を

「定言命法」(ていげんめいほう)と呼びました



「定言命法」は、格率(かくりつ・自分の行為規則)を

普遍的な道徳法則(実践理性)へと高めるそうで


定言命法に従い意志の自律=自由を獲得した主体を「人格」

人格を目的とした共同体を、目的の「王国」と言っています




なお、定言命法とは

「もし幸福(大学に入ること)を望むならば、云々の行為(勉強)をせよ」

といった条件つきの命令(仮言命法)でなく、無条件のものである

といいます




【 欲求・傾向性→ 格率(かくりつ・自分の行為規則→ 仮言命法

  理論理性→ 普遍的な道徳法則→ 定言命法


仮言命法においては

なにを求めるかが人それそれれなので、道徳の根拠にならない


定言命法においては

理論理性で考えればなにが正しいかが分かる

「~しなければならない」が正しいことが分かる

なので道徳の根拠になる 】






義務論(カント主義)とは

カントの道徳論の根幹である「定言命法」に基づき


道徳的に正しいとは

1、普遍化できない格率(自分の行為規則)による行為をしないこと

2、ある人の人間性を手段として扱わないこと

というものです



普遍化できない格率とは

「守るつもりのない約束をしてもよい」などといったもので

こうした格率は、全員がもつことになると

世界に「約束」そのものがなくなってしまうので

普遍化できないという話です



また「守るつもりのない約束をしてもよい」というのは

約束相手の人間性を、自分の欲望の手段として扱うことになる

ということです



なお「格率」(自分の行動規則)が

普遍化可能であれば

それは法則として成り立ち

全員がその法則に従うという形で

世界の秩序が形成されているといいます







なお「守るつもりのない約束をしてもよい」

などといった「格率」(自分の行動規則)は

普遍化できないといいますが、これはデタラメです



【 肉を食べれば、家畜の飼料として穀物が多く必要となり

飢餓が増えることを知りつつも毎日、肉を食べ

多くの人を殺している私たち…


これは、家畜を食べているというのではなく

我々先進諸国の人間が肉食獣として

草食獣の発展途上国の人間を食べているのと同じです



それにコンビニのお弁当を食べるたびに

分解しにくいプラスチックを廃棄し

地球すら破壊しようとしている私たち・・・

全てのことが「お金」の世の中…



そんな上に私たちは

「人権」だとか「尊厳」だとか「正義」だとかいった

バーチャルな世界、言葉の世界をつくり上げ

その上にのっかって生活しているのです


つまりゲームの世界だけでなく

現実と信じている私たちの世界そのものがバーチャル

仮想現実の上にのっかった現実なのです 】



つまり、殺人すら「普遍化」して

我々は、生活しているということです







カントの道徳論 ⑤

カントの理性の正体



「理論理性」も

カントのいうような認識能力などではなく

価値判断の結果であり

意志に近いものです


と書きましたが、これについて補足しておきましょう




≪自分は〇〇しなければならない≫

という意志は

自分に対して「こうありたい」「こういう自分でありたい」

という『欲求』からくるものです


そもそも意志とは、理性よりも欲求に近いものです



例えば、弱者を「哀れむ」(憐れむ)は

感情としての『愛』であるのに対し


「愛する」とか、相手の未来を「信じる」は

感情ではなく「意志」としての『愛』です


意志とは、欲求に近いものです



なぜなら、相手を愛するのも

こっちを好きになってほしいという欲求があったり


信じるというのは「そうであってほしい」とか

「そうなってほしい」とかいうものだからです



≪〇〇しなければならない≫という

「理性」は、結果にすぎず

原因は、「こういう自分でありたい」という欲求です



つまり、理論理性とは

「こういう自分でありたい」という欲求に対する

≪〇〇しなければならない≫価値判断なのです





一方、理論理性というは

≪認識能力の理性であり、推論を行う理性である≫

とされています



推論とは、ある事実をもとにして

まだ知られていない事柄をおしはかることです


なので「認識」の範疇(はんちゅう)でしょう



しかし、カントの論理というのは

実践理性=道徳法則

理論理性=自然法則 ということであり



理論理性というのは、認識のみならず

価値判断までをも含む概念なのです



自然の法則に従うということなので


「川に飛び込めば自分が命を落とすかもしれない」(事実の認識) →

「だから助けない」(価値判断)


ここまでが「理論理性」です



「だから助けない」 これは意志ですよ(笑)




結論をいうと


理論理性は、自分の生命全体や一生といった

自分とって必要なモノやコトを基準とした価値判断



実践理性は、自分の倫理観、信条、倫理観

道徳観、宗教観などといった

救済原理〔自分を成り立たせている根源的な論理〕という

自分とって必要なモノやコトを基準とした価値判断



であって、どちらも必要性=欲求に対する

価値判断=理性 であり、一緒ですなのです



そして、価値判断というものが

意志→ 行動 を規定していくので


理論理性も、実践理性も

意志を規定するものとして一緒なのです




要するに、カントは、認識(知覚)判断と

価値判断の違いをちゃんと理解しておらず


彼の認識論は、両者がごっちゃということなのです




また、理論理性における価値判断が、自由でなく

実践理性における価値判断が、自由である

なんて話が、いかにアホでくだらないものであるかが分ります(笑)




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