カントの形而上学と平行線 カントは自然法則や他人の支配から解放され 自己の道徳法則に従って生きることを「意志の自律」と呼びました そこで、 カントは 理論理性では認識されないが 道徳の実践として、実践理性にとって不可欠なものとして すなわち実践理性の命令を根拠付けるものとして 自由、霊魂の不滅、神という3つの存在が要請される としています 最高善は ≪霊魂の不死≫を、前提としてのみ可能である としています これは、道徳的に、仮想的な神の存在が必要である というのではなく 実体として、神が存在するという カント流の「神の存在証明」(道徳論的証明)です また、カントは「定言的命令」にしたがい カントは自然法則や他人の支配から解放され 自己の道徳法則に従って生きることを「意志の自律」と呼び 意志の自律=自由 と説いています カントによると ≪ 人間は道徳的完全性を所有することは不可能であるが それに向かって無限に努力し、一歩一歩近づくことはできる ≫ ≪ 有限な人生では、道徳的完全性を成就することはできない だから魂が肉体的死を超えて存続すること すなわち「魂の不死」が要請されねばならない 最高善は、霊魂の不死を前提としてのみ可能である ≫ また ≪ 人間は「道徳的完全性を目指して無限に努力する存在者」 という性格を失うと、2つの悪しきことが起きる 1つは、道徳的完全性が可能であると思い込み 道徳をその最高の座から引きずりおろし 自分を道徳的に完全な存在とみなすこと もう1つは、道徳的完全性と現実的な人間の距離を縮め 道徳的完全性の獲得を急ぐあまり「狂信的な神智学的夢想」 つまりオカルト的宗教にのめり込むことである ≫ そうです なお、カントの言う「狂信的な神智学的夢想」というのは 明確には分かりませんが 神智学とは、およそ 通常の信仰や推論では知りえない 神の本質や行為についての知識を得ようとする考えのことで 究極的には人間精神と神との合一を目ざす教義体系です カントは、 理論理性では認識されないが 道徳の実践として、実践理性にとって不可欠なものとして 神や霊魂という存在を定義し 理論理性と実践理性を立て分けたわけですが そもそも、我々の世界自体がバーチャルなのです 20世紀最大の哲学者と称される ウィトゲンシュタインの 「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」 〔語られたものだけが、現実になり、真実にもなる〕 という言葉によって 形而上学(けいしじょうがく)は終焉を告げた とされますが 「神」とか「霊魂」とかいった 形而上学であつかわれる存在だって 我々の世界に 「言葉としても、概念としてもある」わけで ≪語りえぬもの≫ではありませんよ(笑) また「神」とか「霊魂」とかいった存在だけが バーチャルかと言えばそうではありません 言葉の世界においては 「愛」も「尊厳」も「人権」もまたバーチャルですし 我々の価値生活自体が バーチャルな言葉の世界の上に成り立っているのです 価値論において このように↓書きました 【 2千年もの長きにわたって、ユークリッド幾何学は 世界で唯一の幾何学(図形について研究する学問)とされてきました ユークリッド幾何学では ① ある一点から他の一点に直線を引くことができる ② 直線はどこまでも伸ばすことができる ③ 中心と半径で円を描くことができる ④ すべての直角は互いに等しい ⑤ 平面上に絶対に交わらない2本の線を引くことができる といった5つの≪公理≫をもとに 「三角形の内角の和は180度である」などといった 500あまりの≪定理≫を導き出しているといいます それに対し、18~19世紀最大の数学者の1人とされる ガウス〔1777~1855・ドイツの人〕が 1830年頃に、5番目の「平行線は交わらない」という公理を 「平行線も交わる」という公理に置き換えても 矛盾が発生せずに、新しい幾何学体系(非ユークリッド幾何学)が できてしまうことを発見しました 非ユークリッド幾何学とは 歪んだ紙の上に描いた図形を扱う幾何学で これなら三角形の内角の和は180度にはならないし また、相対性理論によると 空間は、重力によって歪んでいるのですから 非ユークリッド幾何学の公理の方が むしろ現実に近いということになったのです ただ、非ユークリッド幾何学以前に 平行線なんか絶対に引けないですよ 「直線」と言っても、肉眼では確認できなくても 必ずまがっちゃっていますからね(笑) つまり完全体というのは 頭の中ではあり得るけど、現実にはあり得ない これが我々の世界です これに対し、宗教の世界というのは これがあり得てしまうわけです ≪定義≫ ≪前提≫ によってあり得てしまうのです そして、神の啓示(おつげ)という 完全な言葉・教えを≪定義≫してしまうと 「完全な教え」「完全な言葉」のもとに あらゆることを定義しなければならなくなります ≪神による完全なる創造≫なんていうものもその一つで 結果「進化」が否定されたのです そればかりでなく 人間のやることなすこと全てが神の言葉に縛られた結果 ≪魔女狩り≫のような現象がおきたり イスラム国家のような人間性をはなはだしく 無視した社会が出現したのです イエスは、神の言葉である十戒 (ユダヤ教の実践の中心であるモーゼの十戒) を守ることのできない罪人(つみびと)であれ 神を信じさえすれば救済されるという ≪完全なる愛≫ ≪神の愛≫を定義しました ところがこの≪完全なる愛≫は 神の敵対者であるサタンには施されないようで(笑) サタンと契約を結んだとされた 魔女にも適応されず 中世のヨーロッパでは「魔女狩り」が猛威をふるい 1つの産業とさえ言われるほどになったのです (ふつうの庶民が密告により魔女にされ火刑にされた) 「汝(なんじ)の敵を愛しなさい」という イエス自身が汝の敵を愛していないのですよ(笑) 前提として、完全な平行線があることを信じていれば 神との契約において 天国という≪幸福≫の世界に行けるのです 「だけど神だって 気分でやってくんないときがあるんじゃないのかな?」 「俺のときは気分でやってくれないんじゃないかな?」 なんて完全な平行線を疑うと信仰になりませんよね そこで、宗教には≪完全≫の上に≪絶対≫という定義が 必要となってくるのです これにより、宗教においては、世界が≪絶対≫で配置されます これに対し、我々の世界においては 全てがいわば≪公約数的な決めごと≫として配置されています ホントは平行ではないものを 人間の決めごととして≪平行線≫と呼んでいるのです ホントは直角でない三角形を 人間の決めごととして≪直角三角形≫と呼んでいるのです つまり、我々の世界においては、あらゆることは ≪人間の認識において≫、人間がとりあえず決めたこと ≪仮定≫でしかないということなのです 仮定のことを言葉によって区別したのです これが人間の世界です 人間の世界とは、言葉の世界ですが そもそも、人間の言葉による区別は完全ではありません 物差しで測るように、全てのものごとをキレイに分けられません 宗教の信者というのは 土台が≪人間の認識において≫というあやふやなものだと気づかず 自分たちの「都合」を、≪完全≫ ≪絶対≫と決めつけます これがいざこざのもととなり、あらゆる対立を生んできたわけです 我々の世界が、全てが ≪人間の認識において≫を「前提」に成り立っているということは ≪完全な正解≫なんて出せないということです 】 「「平行線」も「直角」も「時間」も 「空間」も「神」も「りんご」も、人間の認識においての決めごとであり その決めごとを区別するときに 実体だとか、実在だとか 現象だとか、形而上だとか、形而下だとかいった カテゴリーでくくったかにすぎないということです 形而上学とは 人間の認識においての≪決めごと≫の さらに≪決めごと≫でしかないということです 緋山酔恭の物自体・事自体論 カントの趣味判断を破折する (ひとつ戻る) |
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