緋山酔恭の「物自体・事自体論」



 緋山酔恭の


物自体・事自体論



 




緋山酔恭の物自体・事自体論



以上を踏まえて

いよいよ

「物自体・事自体」という概念を語っていきますが



カントのいう「物自体」とは


経験の背後にあり、経験を成立させるために

必要な条件や存在ということです



知覚したり、認識したりすることができない存在ですが

認識されるモノやコトの背後にあり


物自体がないと

モノやコトを認識したり、経験したりできないのです





これに対して

私が論じる「物自体・事自体」は

そんないいかげんな

あるのか ないのか 分らない存在ではありません



私が、そんなあやふやなものを主張するわけがない(笑)





我々の世界というのは

≪人間という主観の認識において≫

のことと理解すべきです



例えば

天動説が正しかったのが

地動説が正しいとされるようになったり

冥王星が、惑星でなくなったりしましたが


これは

肉眼あるいは精度の低い望遠鏡で観察していた主観(=人間)が

精度の高い望遠鏡で観察する主観へと、進化したからと言えます



まして、人間とは別の主観が現れ

我々の世界を定義したとき

あらゆることが違ってきちゃうのかもしれません



例えば、火が燃えているという現象も

別の主観からは、全く別のことと認識されるかもしれない



それこそ「概念」なんて

人間の作り出したものなので

「物体」という概念も、別の主観に通用するかあやしいです




さらにいうと

人間の世界とは

主観(=人間)の言葉の上に

積み上げられたバーチャルな世界です



バーチャルな世界なわけですから

別の主観が現れ

我々の世界を定義したとき

そこには、全くなにも存在しなかった

ということになる可能性だってあります(笑)





≪真理の独立性を認めず

主観に関わらない客観的な真理は存在しない≫

とする立場を「主観主義」といいますが


「主観に関わらない真理は存在しない」のではなく

宇宙全ての法則が分からずに

一部だけで真実を語っても

それは主観になってしまうということなのです



その意味において

≪究極的に理解する≫ ≪全てが解る≫ということは

≪自分が何も解らないことが解る≫ということなのです





人間なら人間、猫なら猫

コウモリならコウモリ、カエルならカエル

バッタならバッタ、サクラならサクラ


それぞれに認識能力の違いがあります



人間世界は

人間の認識能力にあわせて形づくられ存在しています




つまり、根本的には、世界は一つであっても


人間は、人間の認識能力によってしか世界を把握できないし

バッタは、バッタの認識能力によってしか世界を把握できません



人間は、人間の認識能力によってしかモノやコトを把握できないし

バッタは、バッタの認識能力によってしかモノやコトを把握できません





すなわち、客体としてのモノやコトは

1つであっても


人間なら人間、猫なら猫

コウモリならコウモリ、カエルならカエル

バッタならバッタ、サクラならサクラ におていの客体があり



他の存在が、経験する「客体」を、経験ことは不可能です

他の存在が、経験する「モノやコト」を、経験ことは不可能なのです





しかし、客体は1つなのです


そこで、この根本的な客体を

「真実の客体」と呼ぶことにしましょう




仮に「全能の神」がいて

≪真実の客体≫を認識していたとしましょう



しかし「真実の客体」「神の客体」は

我々には、認識できないのです




とはいえ、仮に「全能の神」がいて

≪真実の客体≫を認識していたとしても


人間なら人間、猫なら猫

コウモリならコウモリ、カエルならカエル

バッタならバッタ、サクラならサクラ、神なら神


それぞれの認識能力にあわせて

世界が形づくられ存在している という事実に変わりないのです




そうなると、神を含めて、どの存在の「客体」が

正しい=真理 というものではありません


逆にいうと、それぞれの主観の認識を

「真理」とするしかないのです




それから、≪神の客体≫が、神一人の認識によるものであるとしたら

その認識に、普遍性とか、客観性とか「ない」ということになります


つまり、≪真実の客体≫というのは、主観的であって

真理ではないという話になるわけです(笑)





また、それぞれの主観は

神の認識する≪真実の客体≫ ≪神の客体≫を

それぞれの認識において、つねに、知覚でき、経験できているのです



すなわち、我々の知覚判断、認識判断というのは

つねに、「真実の客体」「神の客体」に対する

知覚であり、認識であることに、 他ならないのです



つねに、「真実の客体」「神の客体」を

知ろうとする努力なのです




私のいう

「物自体・事自体」というのは

この「真実の客体」「神の客体」です




決して、プラトンのいう「イデア」や

カントのいう「物自体」のような


≪モノやコトの背後にある超越的ななにか≫

などというものではありません




なぜなら、我々は

「真実の客体」「神の客体」を


我々の認識能力においては

つねに、知覚でき、経験できているからです





カントの「認識論」というのは


【 私たちが認識しているのは

対象そのものではなく

主体が、構成した表象(知覚したイメージ)にすぎない 】


ということですが



そうではなく、認識とは

主体(人間だのカエルだのバッタだの)が


≪対象そのもの≫を

主体の認識能力によって構成した結果です



だからこそ、どの主体の認識も正しいわけです



その意味においては

神の目による認識も、バッタやカエルによる認識も

差なんてないのかもしれません




なお「ラプラスの悪魔」「マクスウェルの悪魔」というように

物理学では、宗教(非科学)の世界で、「神」と呼ぶ全能者を

わざと「悪魔」と呼んだりするので

≪悪魔による認識≫と言い換えてもいいですよ(笑)







また、アリストテレスは、事物は

「これは何であるか」を規定する「形相」(エイドス)と

「これは何からできているか」を規定する「質料」(ヒュレ)で

成立していると考えました



例えば、木の机があったとします

すると木が質料で、机が形相ということです


石の机は、形相は同じ机でも、質料が異なります


木の机と木の椅子なら、質料は木で同じですが

形相が違うということになります




また、質料に

「可能態」と「現実態」という概念を持ち込み


材木は、机の可能態であると同時に

椅子や船の可能態でもある


職人がつくる現実の机が、この材木の現実態である

としたのです





私のいう

「物自体・事自体」は

アリストテレスがいう「形相」(エイドス)のような


客体に内在するなにか ではなく

客体そのものです




むしろ、アリストテレス的にいうなら

「物自体・事自体」は

認識における≪可能態≫であって


あらゆる存在が

様々に認識しうる客体が

≪現実態≫であると言えます







我々の認識とは

「物自体・事自体」という客体に、出会うことで始まり



我々の認識能力にあわせて形づくられた

客体を「真実」や「事実」とし



それに対する価値判断の結果として

感情、理性、意志などといった「心」が生じているのです




第一章 心の哲学の嘘を暴くの巻

【 心の哲学とは? 編 】

クオリア




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