現在主流の「心の哲学」の嘘を暴く!! クオリアについて



 心と存在


「心の哲学」の嘘を暴く!!


 




【 まえおき 】



現在、主流な哲学というのが

脳と心の関係を論じる「心の哲学」というものです


しかし、これがあまり面白くありません


実験した結果が

「こ-だ」から「あ-だ」みたいな感じで…


物理学の問題点を指摘するのはよいですが

脳と心の解明という科学の分野のことに


哲学者がいつまでも居残って

理屈をいってたって意味ないと思います


時間・幸福・価値・世界・・・

もっとダイナミックにせまれる

セクシーなテーマがあるはずです






クオリア



1990年頃、 デイヴィッド・チャーマーズ

(1966~・オーストラリアの人)という「心の哲学」の哲学者 によって

『クオリア問題』というのが提起されたました



クオリアというのは「主観的体験が伴う質感」のことらしく

「色」「形」「音」「香り」「味」「痛み」「恐怖」「喜怒哀楽」

などといった、我々の知覚や感情の全てが、それにあたるといいます




「クオリア問題」とは以下のような話です


「赤」がAさんには「青」に見えていて

Bさんには「黄色」に見えていたとします



そこで、AさんとBさんに

青・赤・黄色の3つの色を示して

「さて、このうち赤はどれですか?」と問います



Aさんは、青に見えている色を、赤だと信じていて

Bさんは、黄色に見えている色を、赤だと信じているので


Aさんは、青に見えている色(=赤)を指し

Bさんは、黄色に見えている色(=赤)を指す


結局、2人とも赤を指す



だから我々が、別の色を「赤」だと信じていたとしても

会話がちゃんと成立してしまう といった話です




信号は「青が進め・赤が止れ」と教わります

Aさんには青が赤、赤が青に見えていたとします


Aさんは「赤が止れ」と教わったとき

赤を青と思い込んでいるわけだから、青のときに止まる

でもその青は本当は赤だから、なんの支障もない

ということです




以上の話から

≪他人のクオリアは、どうやったって知ることができない≫

というのが「クオリア問題」です





この問題は

心の哲学においては


意識と電気的・化学的反応の相関関係を扱う

「意識のイージープロブレム」に対して

「意識のハードプロブレム」(意識の難しい問題)と呼ばれています



脳の仕組みを解明すれば

精神の働きも明らかできると安易に考えていた

脳科学者や物理学者たちに、衝撃を与えたそうです





チャーマーズは


「自分は赤を知覚している」と言っても

自分の見ている「赤」そのものを他人に伝えることはできないし


また、既存の科学では、「私」が感じている「この赤」が

どこから来ているのかを説明することも


自分が感じている「赤色のクオリア」が

他人と同じ赤であるかどうかを確かめることもできない


脳を解剖しても「赤」という「質感(クオリア)」を

取り出すことができない



「クオリア問題」は

現在の方式の科学がいくら進歩しても解明できない


既存の物理学の範囲内では

意識のハードプロブレムは解決不可能である


として、物理学の拡張を訴えているようです







昔から


「意識」というものは

第三者からも観測できない「主観的な意識」の側面と

第三者からも観測できる「客観的な意識」の側面とを合わせもつ

= 意識の二面性



「意識」という言葉が

さまざまな意味で使われている

= 意識の多義性  ということが指摘されていたようです





デイヴィッド・チャーマーズは

こうした混乱は

心(意識)の解明には障害になるとして


『機能的意識』

〔入力信号に対して出力信号を返しうる意識

外面的に観測することができる意識。心理学的意識とも呼ばれる〕


『現象的意識』

〔他者からは観測できない個人の主観的な意識。クオリア〕とに分け



機能的意識については

既存の物理学の範疇(はんちゅう)にある

神経科学の方法論で解明できる

「意識のイージープロブレム」


現象的意識については、既存の物理学の範疇にはない

「意識のハードプロブレム」と定義したそうです





しかし、この分け方はよく判りませんよね(笑)


「喜怒哀楽」の感情が、クオリアであるというのなら

それこそ、外面的に観測できます


「喜怒哀楽」が機械的意識でないなら

機能的意識って具体的になんなの?

という話になります



また、よくわからない機能的意識だけが

脳の物理的・化学的・電気的な反応を調べれば解明される

なんていうの話もおかしいです(笑)





この機能意識と現象的意識については

のちに詳しく説明していくとして


心の哲学というやつは

意識とクオリアの違いについてすら、統一的な定義がないのです




クオリアは意識の一部であるが

意識そのものではないという考え方が

一般的だそうですが


アメリカの心の哲学者 ジョン・サール(1932~・言語哲学者)や

脳科学者の 茂木健一郎氏(1962~)は


意識とクオリアを同一視しており

すべての思考の対象

例えば、数字などでも

必ず質感(クオリア)を持っている という考えにあります




サールは

2+2=4を、ドイツ語で考えるのと

英語で考えるのとでは、全く違う感じがする

「心というのは、徹頭徹尾クオリアからなっている」

と語っています




茂木氏によると

クオリアには階層構造があり

クオリアが階層的に集合して表象(イメージ)が構成される

ガラスの透明な質感や、ガラスの表面の色はクオリアであり

このようなクオリアが集合して

「コップ」という表象が構成されると言っています



そして

意識とはクオリアのかたまりであり

〈あるもの〉が〈あるもの〉として成り立つということは

それが、ある特定のクオリアとして感じられるということである


数字や記号、言葉といった

一見質感そのものとは独立した抽象的な形で

私たちの意識の中に存在するかのように見える〈あるもの〉もまた

それが意識の中で

〈あるもの〉として感じられる以上、一つのクオリアである

と語っています




しかし、サールや茂木氏のこうした話だけでは

全ての知覚=クオリア という考えを説明したにすぎません



食べたいとか 寝たいとか(欲求)

勉強しなくちゃとか(理性)

なんていうコトに

質感があるのか? という話になると


あるといえばある ないといえばない という感じですよね(笑)




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