現在主流の「心の哲学」の嘘を暴く!! ジョン・サールと唯物論



 心と存在


「心の哲学」の嘘を暴く!!


 




ジョン・サールと唯物論



ダニエル・デネットと対立している

アメリカの心の哲学者 ジョン・サール(1932~・言語哲学者)

の話は、ダニエル・デネットよりさらにおそまつです


なぜなら、当たり前の話を

もっともらしく語っているだけで

なに1つ眼目も、アイデアもないからです



≪ 物質は分子に還元できる。色は反射率に還元できる…

しかし意識みたいな質的、主観的な存在を

いったいどうやって還元すればよいのか?


唯物論によれば基本的に意識は実在しない

意識は幻想である

すべては物質から成り立っている


しかしそれは明らかに間違い

皆、自分の例、自分の経験で知っている



1つ目としては、意識は実在している

そして還元できない


2つ目には、全ての意識状態は

脳内の神経細胞の活動で引き起こされる


3つ目には、意識は、脳内で進行する特性

または状態、もしくはプロセスである


4つ目としては、意識状態は因果的に機能するということ



以上4つをまとめると

意識とは、因果的に機能する

脳内プロセスによって引き起こされる還元できない実在である



私の主張の中で最も重要な点は

意識は生物学的な現象だと言うこと


消化・光合成・胆汁分泌・細胞分裂などと同じく

意識は、人間や動物の生物学の一部であるということである


現段階で言える基本的な違いは

我々は消化についてはよく分かっているが

意識についてはまだそこまで分かっていない

というだけである ≫




当たり前の話を

もっともらしく語っているだけならまだしも

唯物論が、意識の存在を否定しているがごとく嘘を語っています



唯物論とは、心を脳という高度に発達した物質より

派生的に存在するものと考える立場ですよ


嘘もいいかげんにしろよ!!

というレベルです(笑)




唯物論も、サールの説も

脳の働き、作用に付随して

心が生まれているという立場であって

全く一緒ですよ





そもそも私から言わせれば

唯物論が、意味をもつのは「価値論」においてです


「価値は心が決定する。物質自体には価値はない」

という唯心論的な価値の考えと、対峙したときです



これについては


例えば、ハサミは「紙を切る」という機能=価値をもつから

ハサミ(モノ)自体に、価値はある (唯物論) とみなす立場


そうした機能も、主体(人間)の心が

モノに与えているわけで

モノとの関係性をつくり出しているのは

個人や人間の社会である (唯心論) とみなす立場 がはっきりします






それから

存在を存在させる存在なるものについて語る「存在論」

存在を成り立たせる実在について語る「実在論」

あるいは「認識論」において


「物質は心の影であり、本来は心しか存在しない」

という極端な唯心論があります



仏教においては

インド大乗仏教の2教派の1つ唯識派がこうした思想を唱えました


日本の法相宗は、この流れを汲みます



この唯心論は、外界は、我々が認識することによって

はじめて存在しうるという考えです


我々の精神的存在=心だけを、世界の本源的な存在とし


外界は、自己の心で認めた仮象の世界にすぎないと考えます



こうした考えに対しても

唯物論は、対峙できます



また、唯物論は

こうした「実在論」においては

考える私(精神)と、考える対象(肉体を含めた外界の物体)は

それぞれ実在するという

「主客二元論」「心身二元論」とも対峙できます





「生命論」でいうと

ほとんど全ての宗教、とくに西洋の宗教が


精神の他に、さらに根源的な精神=霊魂があって

それを生命の本質と見なします


そして、霊魂が善・清浄で、肉体は悪・不浄とする

「霊肉(れいじく)二元論」を説きます



これに対して仏教は「空」

(全ては変化してやまない。一瞬一瞬変化している)という立場から

「霊魂」のような固定的・不変的な自己の本質を認めません


そこで「業」(行為)の集積体、いわば業エネルギーのようなものが

輪廻する自己の本質と考えます




そんな仏教においては、生命は2つの側面をもつとされます


1つは「依正不二」(えしょうふに)です


これは、自己(正報)と、自己がよりどころとする環境(依報)は

2つにして2つになく、切り離せない。一体であるということです



正報というのは、生を営む主体です

我々の心と身体です


つまり、美人に生まれたり、醜く生まれたり

健康に生まれたり、病弱に生まれたり

頭がよく生まれたり、バカに生まれたりというのが正報です


生まれながらに具わっている素質です



依報(えほう)は、正報がよりどころとする環境です


裕福の家に生まれたり、貧乏の家に生まれたり

両親そろった家に生まれたり、片親しかいない家に生まれたり

両親が仲のよい家に生まれたり、喧嘩ばかりしている家に生まれたり

平和な国に生まれたり、戦乱の国に生まれたり

というのが依報です





もう1つは「色心不二」です


これは、生命の物質的側面と、精神的側面は

2つにして2つになく、切り離せない。一体であるということです


例えば、病気で熱があれば、心も不安となり

心に不安があれば表情も暗くなる


気が張っていると、免疫機能が活発となり

身体が疲労していても、風邪をひかない などといったことです





釈迦は、衆生(生きとし生ける存在)=生命 を

「五陰仮和合」(ごおんけわごう)と定義しています


五陰とは、生命を構成する五つの要素で

仮に和合したものとは


仏教では全てを「空」(変化してやまない

一瞬一瞬変化している)とみることから、生命は

五陰が仮に和合したものということになるわけです




● 五陰

生命を構成する五つの要素で

色は生命の物質的側面。他は精神作用で

受〔眼、耳、鼻、舌、身、意(心のこと)の六根を通し

外界を受け入れる作用〕

想〔受で受け入れたものを知覚し、想いうかべる作用〕

行〔想にもとづき何かを行おうとする衝動的欲求〕

識〔受から行までを統括する精神の根本〕




「依正不二」「色心不二」という概念は

妙楽大師 湛然(たんねん・711~784。中国天台宗中興の祖)

が打ち立てたものですが


「色心不二」の「心」は

釈迦の考えからいうと、五陰のうちの「受」~「識」といえます





仏教の「色心不二」は

「霊肉(れんじく)二元論」「唯物論」と明確に対立します



すなわち「唯物論」からいうと

生命論においては

「霊肉二元論」「色心不二」に対する

1つの立場、考え方として成り立つわけです






では「心の問題」を論じたとき

果たして、唯物論という考えが

対立軸として成り立つのでしょうか?


唯物論とは、心(意識)は

脳という高度に発達した物質より

派生的に存在するもの ということですから


むしろ至極、あたりまえの考えですよね




【 心的なものは物質的なものに完全に付随して

生まれているという「随伴現象説」と

「唯物論」の違いは

「随伴現象説」の場合

心的なものと物質的なものがあるという二元論をとる 】


なんて話はこじつけですよ(笑)


言葉のマジックにさえなっていません




心の哲学でも

心は、物質的なものに完全に付随して生まれている

としているのですから


「心の哲学」というのは

「唯物論」との対立の根拠が、ほぼないに等しいのです



つまり「性質二元論」とか「随伴現象説」なんて言ったって

「唯物論」の1種のようなものです





それに「随伴現象説」でいうと


【 この説の原因と結果の関係は

工場(脳)から煙(心)への一方向だけであり


煙から工場に対しては何の因果的作用もない=

意識の状態は脳の物理的な状態によって決まる


意識の変化には、それに対応する

脳の物理的・化学的・電気的な変化が必ず存在する


一方、意識(心)は脳の物理的な状態に対して

何の影響も及ぼさない 】


ということですから


そうなると

「寒い」という知覚、クオリアが

脳の活動に影響を及ぼさないので


「寒い」→「セーター着よう」ということにならない

ということです(笑)


はなっから、破綻しているのです





「記憶」というのは、事実の記憶ばかりでなく

知覚や感情の記憶の場合もあります


トラウマのような強力な痕跡は

事実判断の上に

価値判断=感情判断 がのっかって生まれているとされます



脳が損傷すれば、記憶が失われる

という事実から

記憶が、脳にとどめ置かれている

ということは周知のことですが


知覚や感情の判断が

仮に、脳になにも影響を与えないというなら

どうして、記憶というモノが存在しているのか?

という話になります(笑)






心の哲学というのは

脳を解剖しても「クオリア」(感情や知覚)も

「記憶」も

取り出すことができない


だから、心を解明するにあたって

既存の方式の科学は間違えだし

機能主義も間違えである

なんていういう話ですが


なにもこれは「心」に関することだけではありません




道に落ちている「木の葉」が

いつどのようにして、ここに至ったか?


どの木にあった葉っぱが、いつどのような風に吹かれて

木から離れ、ここに飛んできたのか?


なんていう記憶を

葉っぱを切り刻んで調べても出て来ませんよね(笑)







話を戻すと

≪心の問題においては

唯物論は、明確な対立軸になりえない≫のです



しかし、学者先生となると

なにかで、ご飯を食べていかなければならない



そこで「心の問題」に

本来、心の解明にはどうでもいい

「実在論」をもちみ

「心の哲学」なんてのをつくり



さらには

「唯物論によれば基本的に意識は実在しない

意識は幻想である

すべては物質から成り立っている」

なんて

唯物論をねじまげて解釈し

自説を展開しているということでしょう





ちなみに「唯物論」にもいくつかあるらしく


人間を精密な機械とみなし

精神現象は物質的な力によっておこるとして

精神の存在を認めない機械論



神の存在を否定し

万物の根源を原子や素粒子などといった

物質的なものにもとめる無神論



霊魂も死後も輪廻もなく、死ねば無だとし

現世での快楽の追求を主張する快楽主義


なんかに分けられるようです




それから、 物理主義とは、物理学が進歩していけば

心についても、物理学の言葉で説明できると考える立場です


機能主義は、物理主義の1つです




心の哲学においては

唯物論と物理主義とは

歴史的脈絡が違うだけで内容的には一緒だとし

唯物論=物理主義 と考えます




スワンプマン




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