現在主流の「心の哲学」の嘘を暴く!! ダニエル・デネット ②



 心と存在


「心の哲学」の嘘を暴く!!


 




ダニエル・デネット ②



ニコニコ動画で

ダニエル・デネットの「危険なミーム」という講演を聞きました



ミームという言葉は

イギリスの動物行動学者、進化生物学者である

リチャード・ドーキンス(1941~)が、1976年に作った造語で

mim(模倣)と、genome(遺伝子)の意味をもつようです



現在では、一部のコミュニティで流行っていたものが

SNSや動画サイトなどインターネットを通じて

模倣され、爆発的に拡散いく一種のネタみたいなものを

インターネットミームといいますが


もともとは、心から心へとコピー・改変されていく

社会や文化を形成する様々な情報を意味するそうです





ニコニコ動画で

ダニエル・デネットは

だいたいこんなことを言っています


【 アリが、草原の草の葉の上に這い上がり

落ちることを繰り返している


葉に登る事でどのようなな目的を果たそうとしているのだろうか?

アリの為になる何があるのだろうか?


答えは、アリの為になる事など何もない


アリの脳が、脳に感染する寄生虫にのっとられ

自殺的なふるまいをしているのである



我々の脳をハイジャックするのは、虫ではなくアイデアである


イスラム教徒は、アラーの意志に自己利益をささげる


世界人口のほとんどの人が、アイデアに脳をのっとられている


死に値するアイデアは山ほどある

多くの人が共産主義、資本主義に命をかけ

カトリックの教義、イスラム教のために死ぬ


これらは伝染病である 】




とんちんかんな話ですよ(笑)


≪アリの為になる事など何もありません≫

これは正しいでしょう

脳が寄生虫に侵されているのですから



でも、人間の場合には、ちゃんと意味を持ちます


救済原理〔自己を成り立たせている根源的論理〕

存在の根拠 という意味をもつのです



宗教とは、自分の根拠を自分で築けない人たちに

根拠を与えるわけです



つまり、彼のいう「死のアイデア」は

救済原理であり、生のアイデアです


バカも休み休み言えって話です(笑)





それから、デネットは

「我々の脳はしばしば積極的に我々を騙している」

と言っています


彼はこんなことを語っています


≪ 建設者のいない建物を知っていますか?

画家のいない絵画を知っていますか?

製造者のいない車を知っていますか?


創造論者はこのように言うでしょう


しかしダーウィンは違うと言います ≫



〔 デネットの言いたいことは

始めに創造者あり という思考は間違えで

我々の脳が、我々が生きていくために

我々の世界に、創造者を創造したということ 〕




≪ チョコレートケーキが

甘いから、好きというのはもっともですが

これは反対です


なぜなのかダーウィンが示してくれます


私たちが甘味が好きなのは

糖分探知機として進化したからです


大雑把に言えば糖分は高エネルギーなので

それを好むように脳の配線が組まれたのです



「私たちが好きだからハチミツは甘い」のです

「甘いから私たちはハチミツを好む」ではない


本質的にハチミツに甘さがあるわけではありません

ブドウ糖分子を凝縮してもそれがなぜ甘いかは分からないでしょう



ですから始めに甘さがあり

私たちが甘さを好むように進化したと考えるのは

順番が違っています


本当はその反対です



同様に

男性が、こういう(水着姿の女性)を好むのはセクシーだから

赤ちゃんを溺愛するのは可愛いから

ジョークが楽しいのは可笑しいから


というのも反対で


女性たちが本質的にセクシーなのではありません


おかしさは、忌まわしい事務作業をこなす

脳への報酬として配線された神経システムです ≫





彼の話は

モノやコトに本質はない


人間の脳は

もともと本質のない本質を

我々に、あたかもあるよう認識させている


脳は、人間が生きていくために、人間をだまし

モノに本質を与えている

ということです




確かに、ハチミツのもつ本質には

人間が与えた「甘い」という本質もありますが


当時に、ハチミツ自体が

我々に「甘い」と感じさせる本質をもっています



そして、我々はそれを

「ハチミツは甘い」と表現しているのにすぎません






被子植物の誕生は1億3000万年前頃だといいます


〔人類がサルと分かれ

直立二足歩行をはじめたのが600万年前~700万年前

現生人類=ホモ・サピエンスの誕生となると20万年前〕



被子植物は、それまで風任せだった授粉を

花と蜜によっておびき寄せた昆虫にさせたり


おいしそう果実を作り、果実を食べた動物に種子を運ばせたりと

捕食者だった昆虫や動物を繁殖のパートナーとして利用しました


これにより、効率よく生息域を広げ

裸子植物に代わり、植物の主役となっていったとされます



植物に「心」がない限り

「赤い実をつければ、動物にとって美味しそうに見えるはずだ」とか

「甘い匂いは、動物にとって価値的なはすだ」

といった思考をもつなんて不可能ですよ(笑)




デネットの話だと

我々の祖先が、生きていくために

美味しくも、甘くもない果実を

美味しい、甘いと思い込むように味覚を進化させていった

ということになりますが


あべこべです



植物が、赤い実や甘い匂いのする実をつけ

我々の祖先を、繁殖のパートナーにした

という事実は


植物が、我々の祖先の感覚器官の傾向性を

理解していた上で

赤い実や甘い匂いのする実をつけるようなった

ということに他ならず


我々の先祖からすれば

最初に、美味しく、甘い実があった


≪始めに甘さあり≫

のなにものでもないのです



すなわち「甘いから私たちはハチミツを好む」のです






心の哲学が面白くないのは

デネットの思考も、そうですが

人間中心主義でしかないからです



科学においては

脳を含めた神経系は、動物にしか存在しません


そして、意識(心)は、脳により生み出しているとされているので

植物や単細胞生物には「意識」「心」はない

とされます



そんなバカな(*´-`*)



≪植物に心がない≫といか言ったって


植物というのは、赤い実をつけて

それを鳥に食べさせて運ばせ、生息域を広げたり


昆虫の身体に花粉を付着させて運ばせることで

受粉したりと「頭よすぎ」です(笑)





神経系どころか、器官さえもたない

単細胞の細菌が

ある種の化学物質〔化学物質は細菌の種類により異なるが

まとめて オートインデューサーと呼ぶ〕によって


仲間同士、コミュニケーションをしている

〔クォーラム・センシングという〕

ことも判ってきています



例えば病原菌は、周囲に仲間がいないときはおとなしくしていて

仲間が集まったことを知ると

毒素を出して一斉に生体を攻撃するようになっているそうです


単細胞生物にも心がありそうですよね





人類は、ジェット機やロケット

スーパーコンピューターやスマホなんかは作れても

大腸菌は作ることができないのです



なぜ、作ることができないのでしょうか?



それは、人工知能より、大腸菌のほうが

はるかに構造が複雑だからです


それでも植物に心がないのかな?(笑)






それから

ダーウィンの「自然選択」「適者生存」による進化は

あるとは思います


でもそれだけでは、ふつうの虫が

葉っぱそっくりのコノハムシへと進化するとは考えにくいですよね



ハエトリソウなんていうのも

自分の意志で、虫を捕食するようになったように感じます


自然選択の結果というのは疑問です



また、コバンザメなんて

「あきらかに自然選択・適者生存じゃなんでしょ(笑)

俺だってお金持ちにくっつていて、おこぼれ欲しいわ」って感じです




アンキロサウルスという恐竜のしっぽは

先端が硬い塊になっていて

これでティラノサウルスの膝を砕くこともできたのではないか

と考えられています



 転 写



ダーウィンの考えからいくと

これは偶然の積み重さねの結果である

ということになりますが


そんな都合よくしっぽが棍棒みたいになるのかな(笑)


「あまりにも都合よすぎないか」ということです




だから昔の人は

生物は「神」が創造したとしか思えなかったのでしょうけど・・・・



おそらく進化とは、生物が、種の生き残りを

戦略的に考えた思考の結果であって

生物は思考して進化したのだと思いますよ


思考して意志によって進化していくのだと思います


また1代では進化しないのだから

我々の想像する意志、単なる意志ではないはずですが・・・






いずれにせよ

「植物に意識はない、心がない」

ということになると

機械と全く同じ原理で動いている

ということになります




オジギソウは、葉に触ったりすると

その刺激が電気信号となって運動器官である

主葉枕(しゅようちん・折れ曲がるところ)

に伝わり、葉を閉じておじきするをそうです







さらにこれが他の葉にも伝わり

全体の葉が垂れるといいます



オジギソウにふれるとその刺激が電気信号として伝わり

葉が閉じられるということは、人間の神経系と全く同じです


だったら心というか感情もあると考えた方がまともです(笑)



逆に、植物のそれが「心」でないと定義するなら

我々に「心」があるというのは、怪しくなります




ハエトリソウも

オジギソウと同じ原理で動くそうですが


ハエトリソウに「心」がないとしたら

なにが指令を出してハエをつかまえさせているのか?

ということです




夏の暑いときに、花に水をやると

なんだか花が喜んでいるみたいな感じがしますよね


夏になると人間だってうかれて海に行きますけど

夏には虫もぶんぶん飛びます 楽しそうです



我々人間の感情とは別なのかもしれないけど

植物や虫の持つパルス(一過性の心。情動)も

"気持ち"というくくり方をすると


植物や虫にも感情、心、精神といったものがあるのは明らかでしょう




人間のことが知りたい

人間がどのように世界を見ているのかを知りたい

だから、心を哲学するのである

というなら


植物の心、単細胞生物の心も考察しなければなりません


なぜなら、我々は先祖をたどれば、彼らと一緒なのですから・・・




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