フランクルのロゴセラピーと態度価値 人生の意味とは?



心と存在


「心理学」「脳科学」の嘘を暴く!!



 



フランクルのロゴセラピー
と人生の意味










フランクルの価値



質問者: Tさんから、以下のメッセージをいただきました


【 「実存」の、話がでてきたから多分繋がると思うのだけど

ヴィクトール・フランクル

(1905~97・オーストリアの精神科医、心理学者)という人が

ロゴセラピー = 実存分析 というのを考案しています


ロゴセラピーは、意味中心療法とも訳されます


人が自らの「生の意味」を見出すことを援助することで

心の病を癒す心理療法のことです


彼は、ナチスドイツのユダヤ人迫害のときに

強制収容所に送られて、生き延びた心理学者なのですが

その時の体験が「夜と霧」という本になっています



よく、不幸な出来事があったりすると

「自分の人生なんだったんだ」とか

「なぜ自分がこのような目に遭わなきゃならないんだ」とか

自分の人生に価値を見出せるなくなるときってありますよね



ロゴセラピーでは

「どうせ死ぬのに何やっても、無駄なのでは?」と

人生の意味がわからなくなるな状態に陥った人に


≪人は人生に問うのではなく、人生から問われる存在なのだから

人生からの問いに死ぬまで答えるミッション(任務・使命)がある≫


死ぬのはその問いに答えてからでもいいのでは? と導いていきます



「人生は無意味」という人に

人生からの問いに答え続ける事が、あなたの人生の意味ですよ

と設定させていく感じです 】




緋山: フランクルについては

以前にもTさんから教えていただき「幸福論」で書きました



質問者: Tさんは、大手企業で重要な仕事をするかたわら

心理学(カウンセリング)における様々な資格を取得していますが


最終的には、フランクルの理論が患者にとって

一番、有効ではないかと思い至ったようですね




緋山: フランクルは

フロイトに師事し、精神科医としてだけでなく

脳外科医としても一流であったそうですが


ナチスによる迫害で、家族と共に強制収容所に送られ

父母、妻は、収容所で亡くなっています




彼は、「価値」は3つに分けられるとしました



1、創造価値

職業や趣味などを通して得られたり、実現できる価値



2、体験価値

人や自然、芸術などと触れ合う体験によって

得られたり、実現できる価値



3、態度価値

自分に与えられた運命に対してどういう態度をとるか

それによって実現されてゆく価値





価値の分類自体は、おそまつです


1の例として、お茶汲み、コピーとり、清掃などでも

助かる人、快適になる人がいる といったことがよくあげられますが


それが、自分にとっての価値なのか

他者にとっての価値のなのか  社会にとっての価値のなのか

ごっちゃになっていて実体がさっぱり分りません



価値は、評価の概念なので


Aさんがある絵を書き、「よくできた」

「会心の出来栄えだ」と評価すれば

Aさんにとって、この絵に価値が創造さたことになります


Aさんが、「ダメだ」「破り捨ててしまおう」と評価すれば

Aさんにとって、この絵に価値は創造されていません


ところが、Aさんが、ダメだとした絵に

Bさん、Cさん、Dさんが「素晴らしい」(心の満足)

また「手にしたい」(必要)と評価を与えれば

Bさん、Cさん、Dさんにとって、Aさんの絵に価値が創造されます


価値の創造の原理は、このようになっているのです



能力のあるA子さんにとって

お茶汲み係は価値(必要性)ではないが

男性社員にとって、美人のA子さんが、お茶汲み係であることは

価値である場合もあるし


B子さんにとって、お茶汲みは価値的な仕事であっても

男性社員の評価が、「B子さんの入れるお茶はまずい」

「A子さんのお茶は美味しかった」という場合もあります



1は、自分にとっての価値なのか

他者にとっての価値のなのかということもありますが


モノやコト(サービス)の創造と

価値の創造との違いもよく分っていないようです




2は、主として、五感を通して得られる心の満足

という価値のようですが、1との区別が明確でありません



3は、信条や信念、倫理観や人生観などといった

自分にとって必要なコトという価値の上に成り立つ「態度」です


態度そのものは価値というより「意志」に近いもので

意志とは「こうしたい」「こうありたい」というものであり

「欲求」に近いものです





ただ、フランクルにおいて重要なのは

「価値論」ではなく、彼の体験から生まれた「人生論」です



【 人生には「宿命」「運命」とも言えるものもあり

このような「与えられたもの」に対して

どういう態度をとり、生きていくかによって、人生の真価がわかる 】


【 態度価値だけは、他の二つの価値とは異なり

いかなる苦境に追い込まれ、可能性が奪われても、実現できる

この価値は、人は息を引き取るその瞬間まで

人生から意味をなくすことなく生き続けられる 】



≪いかなる苦境に追い込まれ、可能性が奪われても、実現できる≫

これは「尊厳」と言ってよいでしょう



カントも、フランクルも

「尊厳」を最大の価値としたわけですが


尊厳とは何かというと

結局、「自分の存在の根拠」であり

救済原理〔自分を成り立たせている根源的な論理〕である

ということです







不条理に対する態度



質問者: 「どうせ死ぬのに何やっても、無駄なのでは?」

確かに、死が存在するという意味においては

人間が、絶対的な幸福を得ることは不可能でしょう


ただ、死までの時間が十分にあれば

人は≪痛みをさけ、快楽を求める≫ための努力は続けると思います



緋山: 仏教では衆生 = 生命は

① 色心不二(物質的側面と、精神的側面とは切り離すことはできない)

② 依正不二(えしょうふに・自己と

自己がよりどころとする環境は切り離せない)

の側面をもつと考えます



②の「依正不二」は


A、美人か・ブスか  健康か・病弱か  頭がよいか・悪いか

こういった自己に具わっている性質、また自己そのもの


B、裕福・貧乏  平和な国・戦乱の国  彼女がいる・いない

こういった自己がよりどころとする状況や環境



AとBが一体不離で、自己 = 生命

というものを成立させているということです



まとめると、生命 = 自己 は、①と②において成立する

つまり、色心、依正が一体となった存在を「生命」ととらえます





色心不二は、例えば、病気で熱があれば、心も不安となり

心に不安があれば表情も暗くる といったことです



また最近では、心理学的な研究から

「美人は性格が悪い」「ブスは性格が良い」と言われてきたが


間違えで、ホントは、ブスの方が性格が悪い人が多い

と言われるようになってきました



ブスは、劣等感が強い  人を信用しない

過去の扱いから世の中に恨みをもっている

悲観的で、人生をあきらめている

笑顔が苦手である などといった理由からだそうです



いずれにせよ

自分の容姿と、自分の性格とは切り離せません


これも「色心不二」と言えます



そう考えると、容姿 = 形 が、潜在意識、深層心理を形成し

運命に大きく関わっているという面もあるはずです




「依正不二」で言えば

美人か・ブスか  健康か・病弱か  頭がよいか・悪いか

また、裕福・貧乏の家に生まれる  平和な国・戦乱の国に生まれる

これらは「宿命」と言えます




こうした不条理に対し、神仏をもちだして解決する

生きる意味を与え、平等観を確保する 尊厳を確保する


これが宗教ですが

宗教の場合、利用されてしまいますよね


言葉の世界に引きずり込まれ、お布施とかとられてしまいます




これに対しロゴセラピーは

「自分の人生なんだったんだ」といった人生に問う思考から


≪人生からの問いに答え続ける事が、自分の人生の意味である≫

という思考に変えていく心理療法ということになりますが



≪人生からの問いに答える≫とは


人生: 「あなたにとって、私(人生)は、なんでしょうか?」

私: 「私にとって、あなた(人生)は、〇〇です」 ということです


要するに、結局、自分の人生に意味づけをしていく

自分の人生に、自分なりの価値をもたせていく

ということしかないと思います



でもそれがどこまで 可能なのでしょうか?



ブスが決定している事実

40代半ば、低所得で先が見えている人生

ガス室行きが決まってしまった状況


逆に言うと、どこまで可能性が奪われたとき

人は、生きていく意味を見い出せなくなるのでしょうか?



フランクルは、人生に意味をもたせることは

いかなる苦境に追い込まれても、実現できる

息を引き取るその瞬間まで、実現できる と言いますが


彼のセラピーが現実として

どこまで(どこの不条理まで)有効なのかの疑問は残ります


ただめちゃくちゃ興味はあります







ロゴセラピーの有効性



質問者: Тさんから返信をいただきました


【 現実的にどこまでの状況に有効なのかを

実験することは不可能なのですが


支援者(カウンセラー)としては

信じるよりどころとして有効なのは確かです



どのような、カウンセリング手法であれ

すべてが有効であったりするわけがありません

限界はありますが


このように考えると

意味が無いとは言えないとの実感があり

患者を安心して支援することができます




人生に意味を持たせるにはどうしたらよいかを考えがちですが

「態度価値」が有る限り、人生から意味を奪うことはできないと考えます



「ジョニーは戦場へいった」という映画を見たことがあるでしょうか


戦争の怪我で、皮膚感覚以外の感覚を奪われ

しゃべる事もできず、動く事もできず、ただ生き長らえた兵士の物語なのです


絶望的な状況としては、これ以上無いと思えます


このような状況でも、彼は自らの存在を使い

見世物として公開されることで、収入を得る道を希望したりします


この映画は生きているというそれだけで

人生の意味を感じられる可能性が示されているのです



ただ問題はその次です

その望みさえもかなえられなかった時にどうするか

ということになります



私はそれでも、ロゴセラピー的な関わりによって

患者が、自分の人生に意味づけができる余地は残っていると考えます


生半可なことではありませんが・・・・



なんとか、人生に意味付けができないか

と取り組みつづける患者の態度


それ自体が

詭弁に聞こえるかも知れませんが


気がついたら人生の意味だったと

本人が腑に落ちる瞬間が訪れる


そういった可能性は、最後まで捨て切れません 】



それから

【 人はよく、苦境な境遇(健康や経済問題、命の危険、ect)と

人生の意味/無意味を結びつけたがりますが、 実は無関係なんですよね


解消の困難さや不自由が続くことがあるにせよ

はっきりと対象がある苦境や不条理は

取り除く対象が分かっているという意味において、まだマシなのです


厄介なのは、生きることの虚しさなのです



これは、どんなに成功している人でも

不条理な扱いを受けていない人でも

ふとした瞬間に陥ってしまう事があります 】




緋山: いつもながらに深いね


とくに ≪支援者(カウンセラー)としては

信じるよりどころとして有効


このように考えると

患者を安心して支援することができる≫


という話は、真をうがっていて、勉強になります







人生の意味



人生の意味とはなにか? これについては

どのような観点においての話か明確にする必要があります



例えば、宇宙的な観点において

人間が生きている(存在している)意味とはなにか?

ということになると、考えてもよく分かりません




また、イワシのような魚はたくさん生まれて

多くが食べられることで「種」として存続しています



全ての生物が≪種の保存≫の原理に従って活動している

と仮定して語ると


【 ≪負け組≫とか≪低スペック男子≫などと

無価値のように言われる人も


強い個体を残すため、色々と生まれてきた一人であり

全ての人の人生に意味がある 】


なんて論理も成り立つかもしれません



これは、ホモサピエンスという「種」を観点に語ると

そういった話になる ということです




また、 例えば、アフリカという日差しの強い場所では

紫外線から身を守るため、肌の黒い個体が優位になり

生き残って子孫を残してきたわけですが



このように、生物が存在として存在するの第一義が

「種の保存」であるとしたら


日本人が滅んだとしたって

ホモサピエンスという「種」にとっては

どうってことないということになります





宇宙的な観点においての人生の意味・人間の意味


これについては、かつて考えたことがありましたが

結局、答えは出せませんでした



以前、考えたのが


人間は、他の存在に比べて

高い知能と、言葉と文字を手に入れたので


宇宙を考察し、その法則をあきらかにして

宇宙の歴史や、法則を、文字として記録していくことなのかな?

ということです


しかし

「それにしちゃ

人間が知ることのできることなど微々たることだし」

という思いに至ったわけです




ヘーゲル(ドイツの哲学者・1770~1831)的にいうと

人間を含めた世界の全ては

宇宙の根源的な原理である

絶対精神(宇宙精神)の自己表現の1つにすぎない

わけですが


この宇宙に人間が存在せず

セミとかカエルとか猫とかカラスなんかしかいなかったとすると

宇宙のことを考える存在はないということになります



もし、宇宙が「精神」であるとしたら

そんな孤独には絶えられないはずです(笑)



そこで宇宙は、誰かに自分のことを知って欲しい

理解してほしいと願って

人間という存在を創造したのではないか? なんて想像もできます



すると、宇宙のしくみについて考えることこそが

人としてもっともかなった道であり

人間が存在する意味、人生を生きる意味ということになるわけです



しかし、それだと機械(コンピューター)が感情を持ち

宇宙の歴史を記録する役目を担うようになったとしたら

そのとき人間の歴史は終焉しちゃうって話になります





宇宙的な観点を

地球的な観点に狭めて考えてみましょう



例えば、植物は「独立栄養」

〔光合成によって、太陽の光エネルギーを用い

空気中の二酸化炭素と、根から吸収した水を使って

自ら養分(デンプンなどの炭水化物)

を作って生きること〕できます



もし、動物も独立栄養ができるように進化していたら

他の生物を「捕食」しなくても生きられるということになります


また、働かなくても生きられるということになります



するとこの世界はもっと平和になっていただろうし

少なくとも貧困という悲惨は激減し

多くの人が幸福に暮らせているはずです



でも、他を捕食する存在がいないと

循環がうまくいかないのかもしれません



例えば、野菜や果物のセルロース(繊維素。細胞壁の主成分)

をいくら食べてもカロリーはゼロです


これは人間がセルロースを分解する酵素を持たないからです



セルロースは、シロアリ、カタツムリ、きのこ、カビ

細菌などが分解してくれる(捕食してくれる)から循環できる


もし、地球上にセルロースを分解できる存在がいなかったら

光や地熱の分解だけでは追いつかず

地球は落ち葉だらけになっちゃうのではないですか?


〔 ヤギやウシなどの草食動物も、セルロースを消化する酵素は持たない

彼らは、胃や腸にセルロースを分解できる微生物をすまわせている 〕




あらゆる存在が循環することで

地球のシステムが維持されている

地球自体が1つの生命体である と仮定してみます



すると「捕食する存在がいないと、循環がうまくいかない」

だから「捕食者が誕生する」ということになり


海に植物プランクトンが誕生したとき

それを捕食する動物プランクトンが誕生することは

運命づけられていたということになります




また、動物が光合成により独立栄養ができたとしても

光合成では、大きなエネルギーを作り出せない

だから、動けたとしても動きはとてもゆっくりになってしまうでしょう



それでは、循環がうまくいかない

そこで外部から食べ物を摂取する動物が誕生した

のかもしれません



そうした動物の中でも

人間ほど資源の循環に貢献する生物はいませんよね

モノを生産して消費するわけですから



ところが文明の発達とともに

循環されない化学製品を生み出したり

余剰分がゴミとなって

地球を逆に汚染しはじめたってところなのかもしれません




キリスト教が説くように

人間が他のあらゆる存在より優れているのであれば


「人間だけがどんどん増えていけばいいだろ」

「そうしたら素晴らしい世界になるはずだろ」ってことになります



だけど人間だけ増えちゃうと回転が止まってしまうから

資源(食糧やエネルギー)に見合った分しか

増えられないのかも知れません




とはいえ、人間という存在が

存在として存在する意味が、≪資源を循環させることである≫

という結論もしっくりきませんよね



人間がいなくても

なんの問題もなく

地球の資源というか物質は循環していくでしょうし・・・





つぎに「時間」という観点から

人生というものを考察してみましょう



よく ≪我々、みんな死刑囚である≫ と言われます

いずれ死ぬという意味で時間的に拘束されています



その意味から究極的にみれば

我々はみな、生まれながらに≪不自由≫な存在であり

絶対的に楽しい人生を送る なんてことは不可能と言えます



だからこそ

生きているうちは、充実した人生を送りたい

せめて「花のある人生」を送りたい

と願うのかもしれません




しかし、本来、時間的に拘束されているのでしょうか?


我々が自己保存ではなく

ホントは、種の保存のために生きているとしたらどうなんだ

ということです




我々1人1人の10世代前からの祖先は

1024人存在するといいます


となると、我々の持つ遺伝子は

46本(ヒトの染色体の数)×1024人=4万7千104本のうちの46本

ということになります



なので10代後の子孫の46本のうち

1つでも自分のものである確率は、とんでもなく少ないのです


子孫に男子が続いた場合に限り、Y遺伝子だけは残りますが・・・・




さらに戦国末期、江戸時代初期までさかのぼると

だいたい血脈的な先祖は16代前になるそうですが

その数なんと3万2千768人になり


平安時代とか奈良時代までいくと数千万人になるそうです



つまり自己を永遠に保存していく

などということは夢物語なのです




前述したように

イワシのような小さな魚は、たくさん生まれて

多くがもっと大きな魚や海鳥の餌となることで

数匹だけが生き残り「種」として保存されるという戦略をとります



我々人間も、本来

「種」の保存という原理で生きていると考えると


少なくとも≪人の一生≫という時間には

拘束されていないのかもしれません




そこで考えてもらいたいのが

我々が種の保存の原理で生きているとしたら

我々に「自己保存で生きている」と信じ込ませている

何者かがいるはずである ということです


その何者かが

我々の世界に競争原理を生み出させているのかもしれません




脳科学においては、≪種の保存≫は

大脳辺縁系(とくに古皮質)が司っている


古皮質が、種の保存ための

本能行動、情動行動の中枢になっているなんて話になっています



古皮質とは、両生類以上でみられる脳ですが

ヘビやトカゲやカメより

誰がみたって、魚の方が自己犠牲的というか

種の保存的に生きているはずですよね(笑)




それはさておき ≪種の保存≫は

大脳辺縁系(とくに古皮質)が司っている


となると

我々に「自己保存的な欲求で生きている」と思わせている存在は

大脳新皮質(哺乳類の脳また人間の脳と呼ばれている部分)

ではないのか? とも考えられます



しかし、魚の世界に「縄張り争い」があったり

クワガタやカブトムシが樹液をめぐって喧嘩したり

することから考えても


自己保存的な欲求は、哺乳類固有のものでなく

生物の基本としてあるようです



いずれにしても

そのように我々を進化させてきた存在がいるはずです



その何者かは、我々に

遺伝子レベルでは「種」の保存を思考させつつ


意識レベルでは、自己保存で生きているように思わせている



また、我々をそのように進化させてきたということです





話を「時間」に戻します

時間の価値って高いのでしょうか?



「そんなの高いに決まっているだろ!!」


「死にたいという人はともかく

みんながみんな≪自分の命 = 自分の時間≫が

なによりも大切なのだから!」



当然の話です



しかし、種の保存の自分は

カレンダー的、時計的を時間を受容しています


新たな遺伝子を生み出していく

それ以外、種の保存の自分にとっては、重要なことではありません



鮭のオスは、メスの卵に射精し

自分の役割を終えると死んでいきます

メスも産卵後に死にます


病気に死ぬわけではありません


みんながみんなそうして死んでいきます

つまり天寿を全うするわけです


カブト虫も、越冬せず、秋には必ず死にます




人間の場合、こうした種の保存の自分に対し

自己保存の自分は「老いたくない」「死にたくない」と対立します


虫だって殺そうとしたら、逃げます



虫が逃げるのは

ほとんど種の保存の法則の上でのことでしょうが


生物は、思考が発達するにしたがって

≪自分≫という自我意識がつよくあらわれてきます



そうした自我としての自分が、種の保存の自分を厭い

「死にたくない」「永遠に自分を保存したい」と願うわけです



自己保存の自分には「老」も「死」も現実であり

人間は、空間的にも時間的にも有限な存在です



結論すると、要するに

種の保存の自分とは切り離された

自己保存の自分(仮の自分?)に


≪自分≫も、≪人生≫も、≪生きる意味≫も、≪使命≫もあり


さらには≪霊魂≫などといった固定的・不変的な自己も

≪死後の世界≫や≪輪廻転生≫などというものもあるのです







人生の意味と不幸な境遇



以上は、哲学のレベルの話ではありますが

【真理】(これは〇〇である)の形式においての考察です


( 人生の意味とは、なんであるのか? → 〇〇である )




これに対し、「自分の人生ってなんだったのだろうか?」

「これまで生きてきて意味があったのだろうか?」

というのは、自分の人生に対する評価です


評価の概念 = 【価値】の形式においての考察です


自分の人生を通して

人間の存在意義を考えるという部分があったとしても

基本はそうです



【価値】の形式においての考察ならば

≪人生の意味≫と≪苦境(不幸)な境遇≫とが

無関係ということはないはずです



人間の生命が環境(状況や状態)と一体であること

環境と切り離せないこと

からも無関係ということはないですし


人間の生活そのものが

「価値生活」(痛みを嫌い、快楽を求める)である

ということからもそうです



要は、価値としての考察である

「自分の人生ってなんだったのだろうか?」

「これまで生きてきて意味があったのだろうか?」

というのは、環境(状況や状態)の上にのっかっての考察なのです



なにより

「ジョニーは戦場へいった」という映画の主人公にしろ

アウシュヴィッツを経験したフランクル自身にしろ


≪苦境な境遇≫に、人生の意味をみいだしています





ヘーゲル〔1770~1831・ドイツの哲学者〕は


【 人間的な欲望は、他者から承認が必要な欲望で

他者に自分が認められることを

自分が認めることで充たされるといった二重構造をもつ欲望である 】


【 人は、他者が欲望することを欲望する

(=他者が望むような自分になりたいと欲望する) 】


と、述べています



≪自分の存在価値を否定されたくはない≫という延長に


「他者の欲望」を手にする自分を

他者に認めさせたいという「自分の欲望」があると考えられます



そうした象徴、また頂点に

人気者となって、他人からちやほやされたい(タレント)

お金をいっぱい稼いで、他人からうらやましがられたい(実業家)

言葉の世界にひきずり込んで、他者から崇拝されたい(宗教家)


といった「他者の欲望」(他者が望み欲する存在)があると言えます




また、際限のない欲望で以下のように書きました


【 酔恭  社会契約論を最初に唱えた

イギリスの哲学者 ホッブス(1588~1679)は

≪ 動物は、理性を持たないため自己保存の予見ができない

このため生命の危険を感じたときだけ自己保存を考える

これに対して人間は、理性によって未来の自己保存を予見して

つねに他者より優位に立とうと行動する

それゆえ「際限のない欲望」が生まれる ≫ と考えたというよ


これはスゴイね

ふつう人は「本能」と「理性」は対立し

本能の暴走を抑制するのが理性であるという思考しかおきない


ところがホップスは、「理性」と「自己保存=本能」は対立しない

それどころか「理性」によって本能が暴走すると考えたわけだから




竜太  「際限のない欲望」かぁ-。こんなのはどう?

まず、人の欲に「際限がない」ということは「段階がある」んじゃないかな


人が求める欲には順序があると思うよ


まずは、安心や安全に対しての欲求

それが充たされると、快楽や物質に対しての欲求が生まれる

そして最後に、名誉欲に到達する


ホッブスによると、生命の根元は

「自己保存の本能」だそうだけど

名誉欲とは、他人に対しての自己保存と言えるよね


なぜなら、他人の中に自分の存在を植えつけることを求めているからだ

他人に生きていることを証明してもらおうとするわけさ



それら全ての段階の欲求が充たされたとしても

さらに人間は"永遠に人の記憶に自分を残したい"と願う存在なはずだよ


その根底には「人間の完全なる死とは

人の記憶から自分の存在がなくなることである」

といった思考が潜んでいるよね



ビルゲイツのようなお金持ちが慈善事業をするのは

こうした気持ちもおおいにあると思う



生存している時点での

証を求めるのではなく、死後の証まで求めるわけさ


つまりそれほどにまでに、欲望に際限がないと言えるんじゃないかな 】





結局、「何に価値を感じるかは、人それぞれである」とか

「人によって価値と思うことは違う」とか言っても


人の価値基準がパラダイム

(しきたりやしがらみ・常識や人気)のもとにつくられている以上


そこ(他者の人生)から脱するには

パラダイムという色のついた眼鏡を

はずしていく工夫をしていくしかないと思うのです




なので≪苦境な境遇≫において

人生の意味をみいだすには

1つには、パラダイムのレンズを薄くしていくことだと思います







ロゴセラピーと宗教観



もう1つは、宗教観をもつことです



キリストは「貧しき者は幸いなり」とか

「神のもとに平等」とか「信じる者は救われる」などと

≪信仰による平等論≫を教えました



釈迦は、苦の原因は「執著」であるとし

全てが「空」と説き、執著から離れることを教え


これを達成した境地が

「涅槃」(ねはん・ニルバーナの音写。静寂な悟り)

であると教えました



また"生まれによってバラモンとなるのではない

生まれによってバラモンならざる者となるのでもない

行為によってバラモンなのである

行為によってバラモンならざる者なるのである"

(NHKブックス中村元・田辺祥二著「ブッダの人と思想」)


と、因果応報を根拠とする

≪行為による平等論≫を説いたのです



宗教の最強の強みはなんといっても

≪死後にも、自分の根拠≫があるということです


死んだら、天国に生まれ、永遠の幸福が得られるとか

大宇宙の仏界の生命に、溶け込むとか・・・・




但し、宗教の本質とは以下のとおりです


もとオウム真理教の大幹部で

現在はオウムの後継団体の1つ「ひかりの輪」の代表


上祐史浩(じょうゆうふみひろ)氏が

オウムに出家する際、母親にこう↓語ったそうです


「第三次世界大戦で核戦争がおきて、人々が焼かれるのを防ぐためにも

母さんのためにも 出家しなければいけない

僕たちが一生懸命修行したら、特別な変化がおこって

世の中が真理にもとづく平和になるんだ」



≪第三次世界大戦≫  ≪特別な変化≫

≪真理≫  ≪真理にもとづく平和≫  ≪救済≫  ≪使命≫

≪人類愛≫  ≪世界の終末≫  ≪解脱≫

≪宇宙の根本原理≫  ≪宇宙根源の法則≫


こういう言葉の世界に、人間をひきずり込むというのが

宗教の本質なのです



結局、世間のパラダイムから

別のパラダイムにひきずり込むというものなのです




重要な点は【宗教と詐欺は紙一重】と言われているように

詐欺的な側面をもつ一方


【人を幸福にする】という側面をも持つということです



いいとか、悪いとか別にして

宗教の教祖というのは、言葉の世界にひきずり込むことによって

≪自分で、自分の根拠を築くことのできない人たちに

根拠を与えることで、人間を幸福にしている≫のです




また、我々が社会生活を営むこの世界ににおいて

自分の根拠を築くことができた人でも


死後にも、≪自分の根拠≫を築くことのできる人

要するに、自分独自の宗教観に到達できるって

そうはいません


そこに宗教の強みというかニーズが存在しているわけです




Tさんは、こう述べられました


【 私はそれでも、ロゴセラピー的な関わりによって

患者が、自分の人生に意味づけができる余地は残っていると考えます


生半可なことではありませんが・・・・ 】


これは独自の宗教観に到達することは

「生半可なことではない」ということだと思います


まして生きる望みさえもかなえられなくなった人が・・・・


いや、むしろ、生きる望みがかなえられなくなった時こそ

可能なのかもしせませんが

それでも簡単なことではないでしょう




【 なんとか、人生に意味付けができないか

と取り組みつづける患者の態度


それ自体が

詭弁に聞こえるかも知れませんが


気がついたら人生の意味だったと

本人が腑に落ちる瞬間が訪れる


そういった可能性は、最後まで捨て切れません 】



最後まで、人生とはなにか?

生きるとはなにか?  死ぬとはなにか?


そういったことを見つめていく態度に

独自の宗教観も、死後の根拠も見いだせるのかもしれませんね



そう考えると

「態度価値」って、真理の考察なのかもしれません


結果的に、独自の宗教観とか信条とかいった

自分にとって必要なモノやコトという価値に到達するというだけで・・・・







ロゴセラピーの正体



≪フランクルの理論が

現実としてどこまで有効なのかは分からないが

支援者(心理カウンセラー)としては、信じるよりどころになる


そして、よりどころがあるということが

安心して患者を支援することを可能とする≫


これは、心理カウンセラーにとって

フランクルの理論は、価値がある ということを意味しています



価値とは、必要性なので

カウンセリングを実践するにあたり、必要となる ということです



≪ロゴセラピー的な関わりによって

人生に意味づけができる余地は残っている≫


これは、患者にとって、価値がある ということを意味しています




≪詭弁に聞こえるかもしれませんが≫

全然、詭弁ではありません


それ(人生に意味づけができる余地)は、絶対にあると思います



ヘーゲルが言うように

人は、≪他者に自分が認められることを

自分が認めることで充たされる≫としたら


人生に絶望した人、また虚しさを感じている人にとって

ロゴセラピーのカウンセラーは

めちゃくちゃ価値のある存在ですし


そこ(カウンセラーとの関わり)に

生きる意味を感じることができるでしょう


さらにそこから人生についての意味づけをしていく

その熱と力が生まれてくるはずです





例えば、月という女の子がフリーターをしつつ

舞台女優としての成功を夢見ていたとします


彼女は、バイトで稼いだお金も

全てそのためにつぎこんでがんばりました


しかし、いつまでたっても売れず

結婚適齢期もとうにすぎてしまいました



それでも月は、舞台(演劇)に≪生きている証≫とか

≪自分の存在の根拠≫を感じて、生きています





そんなとき、旧友の水と出会います


水は「月ちゃん、あなたそれでホントに≪幸せ≫なの?」

と聞いてきます



自分が≪幸福≫であることをにおわせ

また月にそういう言葉を語ることによって

自分が≪幸福の種族≫であることを確認しつつです



水は、自分は、結婚してて、旦那がいて

子供もいて、ローンだけどマイホームもあって

≪幸せだ≫と確認しているわけです



そういう彼女の≪幸せ≫は

社会のパラダイム(常識、しきたり、しがらみ)や

今いる自分の階層における価値基準からくる≪幸せ≫

つまり≪定量化された幸福≫に他なりません





結論をいうと≪幸福≫という1つ言葉に

全く異なる2つの概念が隠されていているということなのです



そこに≪幸福≫という言葉のトリックがあるのです



全く異なる2つの概念とは、≪社会で定量化された幸福≫と

≪自分の根拠としての幸福≫です



この2つをごちゃごちゃにしているから

自分が幸せなのか、そうでないのか訳わからなくなってしまうのです



また、2つをごちゃごちゃにしているから話が噛み合わないのです





月が≪演劇に生きている証とか、存在の根拠を求めている≫

というのは

【自分の根拠としての幸福】です



これに対して、友人の水が

「月ちゃん、あなたそれでホントに≪幸せ≫なの?」

と聞いてくる

この月の友人 水が言っている≪幸せ≫というのは

【社会で定量化された幸福】なのです




月と水のような話が噛み合わない会話は

日常的になされていますが


これは≪幸福≫というものが相対的なものであって

人によって何を≪幸福≫と思うかが違うから


話が噛み合わないのではなく


つまり≪価値観が互いに違う≫から

話が噛み合わないのではなく


お互い、別々の≪幸福の概念を語っている≫から

話が噛み合わないのです




異なる2つの概念には

ホントは2つの解答が必要なのです




人間の世界とは、言葉の世界なので

言葉のシールをひっぱがしたとき


ごちゃごちゃになっていた本質がみごとに明らかになるのです



月が語る≪幸福≫という言葉のもつ世界と

友人の水が語る≪幸福≫という言葉がもつ世界が

ごちゃごちゃになり≪幸福≫とはなにか

訳がわからなくなっていたのです



( ちなみに、水の場合

社会で定量化された幸福を満たしているということが

自分の根拠の幸福になっているわけです )






旧約聖書によると、イスラエルの民(ユダヤ民族)は

飢饉によりパレスチナを離れ

エジプトで400年にわたる奴隷生活を送っていたとされます


前13世紀頃?、モーゼという預言者が現れます


彼は神のおつげに従い、イスラエルの民を率いて

神との約束の地 カナン(パレスチナの古名)を目指しました



このあと有名な≪紅海割れ≫の話が出てきます


モーゼは、エジプトの王に神の奇跡を示し、自由を約束される


こうしてイスラエルの民60万人は、モーゼに率いられて

カナンを目指すことになる (カナンに着くまでに40年かかる)


ところがモーゼたちがエジプトを出ると

エジプトの王は心変わりをして兵を差し向けてきた



モーセの一行は、紅海(葦の海)に追い詰められ

中には「奴隷のままでもエジプトにいた方がよかった」

と不平をもらす者も出ます



そのとき、モーゼが神の杖を振り上げると

葦の海の水が割れて、彼らは海を渡ることができた


彼らを追っきたエジプトの兵士や戦車が渡ろうとすると

海はもとに戻り、王の軍隊は海に沈んでしまった


という神話です



ふつうにみたらオカルトそのものですが

よい見方をすれば歴史的な奴隷解放の話です


精神の海を渡り、神との約束の地へと向かう

じつに感動的なシーンです




しかしこれは、社会的な幸福にみたない人たち

「定量化された幸福」にみたない人たち(例えば、奴隷)の不幸を

神仏で中和し、精神の幸福=「自分の根拠としての幸福」でみたそうとした


そんな象徴的な出来事が神話化されたものと言えます




ですが、本来、「定量化された幸福」と

精神の幸福=「自分の根拠としての幸福」とは、次元が違うのです


だからホントは2つの解答が必要なのです




話を戻して、結論すると


要するに、どのような苦境にあろうと

また、どんなに虚しさを感じている心境にあろうと


人間には「自分の根拠としての幸福」

また「人生の意味」を創造しうる力が内在することを信じ


その手助けをしていくことを教えている


これが、フランクルの理論ということになるかと思います







おまけ (ロゴスとは?①)



質問者: Tさんに、ロゴセラピーの「ロゴ」とはなんですか?

ロゴとは、ロゴマークのロゴの意味ですか?

と聞いたところ、このような解答をいただきました


【 ロゴセラピーのロゴは、ロゴスのことです

ロゴスって何だ?というのが難しいのだけど・・・


『ロゴスは、≪ここに常にある≫のに

人々は、それを聞く前にも、聞いた後にも理解することがない』

だって、何じゃこれはだね 】



緋山さん、ロゴスってなんですか?




緋山: 哲学史において

はじめて「ロゴス」という概念を用いたのは

「万物のアルケー(根源)は火である」と説いた

ヘラクレイトス(前540頃~前480頃)だとされます




彼は、プラトン以前の古代ギリシア哲学者の中では

パルメニデスとともに重要な人物と言えます



ロゴスとは本来「言葉」を意味するとされていますが

今では、根拠、概念、定義、説明、理由、論証、論理

思想、意味、言語、理性、真理など

様々な概念を意味する言葉として使われています



「ロゴス」(論理)と「パトス」(感情)のように

パトスの対比的な言葉としても使われています




≪イエスは、唯一神のロゴスである≫と語られた場合

ユダヤ教の唯一神 ヤーウェ(エホバ)の

「属性」といったような意味ととらえられます


とくに「属性」のなかでも「受肉」ということになるはずです




ヘラクレイトスのいう「ロゴス」とは

≪根源的な法則・摂理≫といったところでいいと思います




世界で最初の哲学者とされる

タレス(前624~前546頃)は

「万物のアルケー(根源)は水である」


「全ての存在が水から生成され、そこへと消滅してゆく

世界は水からなり、水に帰る」と唱えましたが



ヘラクレイトスのいう

「万物のアルケーは火である」というのは

タレスとは異なり

あくまでロゴス(法則・原理)の象徴しての「火」ということになります




彼は、≪万物は流転している 自然界は絶えず変化している

しかしその背後に変化しないもの「ロゴス」がある≫としています



また、ヘラクレイトスは、流転(変化)とともに


「闘争」を万物の根源と見なし

「闘争は万物の父である」と述べています



「昼と夜」「生と死」「神と悪魔」

「愛と憎しみ」「善と悪」これらが争い


火のように左に振れたり右に振れたりしながら変化し

自然の秩序を保っていると考えたようです




さらに、彼は「上り坂も下り坂も、1つの同じ坂である」

という言葉を残しているように


「光と闇」「昼と夜」「生と死」「神と悪魔」「愛と憎しみ」「善と悪」

そういったものは同じものが変化したと考えたといいます




つまり、表層的には左右にゆれて変化するが

もともと「一」である という世界の根源的な法則・原理こそが


ヘラクレイトスのいう

「ロゴス」であり「火」なのわけです




タレスは、どのような形にも姿を変えられる

「水」を万物の根源と考えたのに対して


ヘラクレイトスは

火というものは、燃えるということと、消えるということとが

同時におきていることから


闘争を象徴するものとして

「火」という言葉を用いたともいいます







おまけ (ロゴスとは?②)



質問者: 唯一神 ヤーウェの「ロゴス」という話も気になります



緋山: この話は長いよ(笑)


三位一体説とともに

正統派の根幹中の根幹をなす教義が

キリストの神性と人性についての考えです


"イエスは神性と人性の両方を持つ。両性は混合せず分離せず"

というのが正統派、すなわちカトリック、東方正教会

プロテスタントの解釈です



なお、神性のみを説くのが、単性論派教会で

エジプトのコプト教会(信徒はエジプト人口の10%にすぎないが

アラブ世界最大のキリスト教会)

エチオピア教会(単性派最大。エチオピア人口の55%)

シリアのヤコブ派教会、アルメニア教会などがあります




「三位一体説」と

"イエスは神性と人性の両方を持つ。両性は混合せず分離せず"

という「両性論」が正統とされるまでの経過を述べておきます



この2つの教義が【正統】とされるまでには

父なる神とイエスの関係、およびキリストの神性と人性をめぐって

神学者たちによるさまざまな説が唱えられ

論争が繰り広げられています



そして敗れた神学者たちは、公会議で追放処分をうけています


中世だったら、異端者として火刑に処されていたところですから

この時代は、追放なのでよかったと言えます(笑)




まず2世紀以後

グノーシス主義的ドケティズム

〔 キリストを霊的な存在とみなし

キリストは真に肉体の姿をとったのではなく

死の苦しみを受けたのでもない

キリストの受肉(誕生)と十字架による死は

見かけの現象(仮象)であるという立場〕に対して


イエスは、唯一神のロゴスであるという説が登場しました



ロゴスとは本来「言葉」を意味するとされていますが

今では、根拠、概念、定義、説明、理由、論証、論理

思想、意味、言語、理性、真理など

様々な概念を意味する言葉として使われています



つまり、唯一神のロゴスとは、唯一神の属性ということでしょう


とくに属性のうちの「受肉」と考えられたようです



3世紀後半には

「イエスは神の子ではない。神に従属し、神の主権のもとにある」

というモナルキアニズムという考えが

シリアのアンティオキア教団より登場し

ロゴスによる受肉を否定しました



後にこれが

「イエスは神の子ではなく人間であった

神の働きである聖霊によって養子になった」という養子説


「ヤーウェが自らイエスとして現れた

イエスの受肉は、ヤーウェの受難である」

という天父受苦説に分かれたとされます




その後、イエスが神へ従属する立場にある

ことを強調する アリウスと


父と子は同質であると主張する

アタナシオスの間に大論争がまきおこり


その結果、アリウスの説は、325年の公会議

最終的には381年の公会議で排除され

ここに「三位一体説」が確立しました



アタナシオスは、こうして

「教父」(カトリック教会の称号の1つ

2~8世紀の神学者のうち、正統教義を唱えた精神的指導者)

となったのです



なお、アリウス追放後も

彼の説の信奉者たちが政治勢力と結びつき

論争をくりひろげたとされます


また、近代キリスト教諸派の1つ ものみの塔(エホバの証人)は

アリウスに近い立場をとります





それから、この公会議のとき

イエスの人性を否定した アポリナリウスも排除されています


アポリナリウスの説は

「イエスは人間として肉体と魂をもつが

イエスには人間の霊でなく、神のロゴス(霊)が宿る

イエスの理性にあたるのが神のロゴスで

イエスの人性には固有の意志はない

それゆえ肉体と魂から起こる迷いや誤りはない」

というものです


これはイエスの人性を不完全なものとする説だとして

362年の主教会議、最終的に381年の公会議で排除されました



しかし「イエスの人性は普通の人間のそれとは違う」

という考えは根強く。その後もしばしば同様の異端が登場し

のちに単性論派教会が誕生していったといいます





次ぎに、キリストの人性を強調した ネストリウスが登場します


彼は、神性と人性の一致を否定します

また、マリアを神の母と呼ぶことも否定しています


ネストリウスの説は、431年の公会議で異端とされ

彼は追放処分をうけています


なお、この公会議で、マリアが単にイエスの母ではなく

神の母であることが決定しています




彼の信奉者は、ローマで迫害をうけましたが

シリアでネストリウス派キリスト教団を設立します

〔この教団は、ネストリウス自身の創設ではない〕



ネストリウス派は、ネストリウスの説を発展させた宗派で

キリストの人性と神性の結びつきを

道徳的なものとみなしたといいます


ペルシアを中心に6世紀初頭から活発な宣教活動を行い

7世紀には中国、アラビア、南インド

さらにシベリアまで教勢を拡大したとされます



中国では、景教(景は光り輝く意)

また 大秦(たいしん・ローマ帝国の意)景教

と呼ばれ

唐王朝の保護をうけ

各地に教会にあたる大秦寺〔はじめ波斯寺(はしじ)といった〕

が建てられ栄えたといいます





451年の公会議で追放処分となったのが

単性論派教会の祖 エウテュケスです


彼はネストリウスに対する反論から

イエスの神性を強調する説を唱えます


彼の説は

「イエスは受肉以前には

神性と人性の両方をもっていたが

受肉後は、人性が神性に吸収された」

というものです



エウテュケスの説は異端とされるも

エジプト、シリア、パレスチナなどの諸教会が支持します


東ローマ帝国の度重なる弾圧と懐柔にも応じませんでした



しかし、単性論派の諸教会の方も統一に動かなかったため

アラブのイスラム化が進むなかで衰退していったとされます



エウテュケスが追放をうけた451年の公会議において

"イエスは神性と人性の両方を持つ。両性は混合せず分離せず"

という「両性論」が正統派の根幹と決定しています





ちなみに、歴史的に諸教会は

単性派とされてきましたが


これら教会は

「自派は、単性論(エウテュケス主義)ではなく

合性論である」と主張しています



合性論(一性論)とは

イエスの神性と人性は合一して一つ(一性)にはなってはいるものの

二つの本性は分割されることなく、混ぜ合わされることもなく

変化することなく合一していると説くものだといいます


これなら、正統派の「両性論」の範疇(はんちゅう)で

なんとか解釈できると言えます



単性派諸教会は

キリストに神性と人性の両方があることが確認された

カルケドン公会議(451年)を否定して生じた派であることから

非カルケドン派ともいいます





質問者: そもそも「三位一体」とはなんですか?



緋山: キリスト教には、イエスが全人類の罪をあがなって

十字架の刑で死んでいったという

≪贖罪(しょくざい)の愛≫という考えがあります


イエスが、救世主(メシア)として、全人類の罪を背負い

自ら十字架の刑に身を捧げたというもので


この教義こそ、キリスト教の根幹中の根幹で

この教義を根拠とし


キリスト教はユダヤ教のような民族宗教を超えて

世界宗教へと成長、発展していったわけです




ちなみに、世界宗教へとなった外的要因としては

当初、キリスト教はローマ帝国の弾圧を受けますが

それでも教勢を拡げてゆく


そこでローマ帝国は、帝国の立て直しに利用しようと考え

キリスト教を公認、さらに国教としました


これにより帝国各地に普及したことが

世界宗教へのきっかけとなったとされています




イエスは、あくまでユダヤ人でありユダヤ教徒です


キリスト教はイエスの死後

「復活したイエスと出会った」と主張する

弟子たちによってはじめられた宗教です



そこで問題になるのが

イエスとヤーウェ(ユダヤ教の唯一絶対神)との関係です



それを説明するものが「三位一体説」です



カトリック、東方正教会(ギリシア正教やロシア正教)

プロテスタントが、正統教義として認めている

キリストについての解釈が「三位一体説」です



なお、ものみの塔(エホバの証人)が『異端』とされるのは

神はあくまでエホバだけで、イエスはエホバの使い、天使である

天使の一人、ミカエルと同一である と主張するところにあります




「三位一体説」とは

「ヤーウェ」と「イエス」と「聖霊」は、唯一神の位格(ペルソナ)で

この3者に優劣はないというもので

"3つのペルソナ、1つの本質"と言われます



このうちヤーウェ(ヤハウェ)とは

ユダヤ教の唯一絶対神で

宇宙の創造主であり、全知全能の神です


キリスト教ではエホバとも呼ばれ、父なる神と呼ばれる存在です




なお、旧約聖書のモーセの十戒には

「神の名をみだりに唱えてはならない」とあり

今日でもユダヤ教徒はこれをかたく守っています


このため、ユダヤ教徒は

神の名を YHWH(四聖文字)つまり子音のみで

また無関係な母音符合を付して記してきたといいます


また、口に出すときは、多くの場合、神の名の代わりに

アドナイ(ヘブライ語でわが主の意)を用いられてきたといいます


このため、YHWHの発音が

なんと忘れ去られることになったそうです



YHWHが、Yahweh(ヤハウェ・ヤーウェ)であると判明したのは

19世紀以降だそうです


そしてこのユダヤ教の習慣をキリスト教会が忘れたことから

16世紀以降、ヤーウェは、エホバ(Jehovah)

と誤読されてしまったそうなのです



これにより、エホバが

ヤーウェの文語訳(文章だけに用いる言葉遣い)となり

口語訳(日常的な生活の中での会話で用いられる言葉遣い)

の聖書では、ヤーウェを「主」と訳しています




話をもどすと

重要なのは、イエスがヤーウェより出ていて

ヤーウェが上、イエスが下というのではなく

ともに1つの神から現れたものであり

ヤーウェとイエスには優劣がないというところです





質問者: 「ヤーウェ」と「イエス」と

「聖霊」は、唯一神の位格(ペルソナ)ということですが


聖霊とはなんですか?



緋山: イエスは、神の霊=聖霊にみたされた者とされ

イエスの中に悪霊に憑りつかれた者を

ただちに癒す力があるとされたわけですが


カトリックでは

この聖霊は、イエスが亡くなったあと

教会に与えられ、助け主・慰め主(パラクレトス)として

教会を導くとされています




プロテスタント3原則の1つに

≪万人祭司≫というのがあります


カトリックは、ローマ法王を頂点するピラミッドを形成し

底辺に教会の神父がいます


一般の信徒は、さらに下におかれ

教会を通してでなければ

神の救いは受けられないとされているのです



これに対し、プロテスタントでは


教会のみちびきなどいらない

万人が直接「神」とつながった祭司であり

信仰によって、神の救いを直接受けられる という考えにあるのです




美術では、十字架に架けられているキリスト

これを両手で支えるヤーウェ

その上を飛ぶ 聖霊の鳩で

「三位一体」を象徴することが多いといいます




聖霊とは、一言でいうと、神の働き

あるいは神のエネルギーといってよいでしょう



本来、「父なる神ヤーウェからのみ出る」とされていた聖霊を

後にローマ教会が「子のイエスからも出る」としました



1054年に、古代キリスト教会が

東西両教会すなわち

東方正教会(ギリシア正教やロシア正教)と

ローマカトリック教会へ分裂した

教義上の最大の対立点は


「父なる神ヤーウェからのみ出る」とされていた聖霊を

ローマ教会が「子のイエスからも出る」としたことにあります



381年のコンスタンティノープル公会議で採択された

ニカエア・コンスタンティノープル信条では

聖霊の発生は父からとされていました


ところがローマ教会が、9世紀になって勝手に

「フィリオクエ」(ラテン語で子からも)を付け加えたわけです



なお、古代教会は、全教区が

エルサレム(イスラエル)

アレクサンドリア(エジプト)

アンティオキア(シリア。現在はトルコの南東端の都市)

コンスタンティノープル(東ローマ帝国首都

のちにオスマントルコの首都にもなった)

ローマの五大教区に分けられていましたが


1054年の大シスマ(シスマは分裂)は

そこからローマだけが分離されたのです


互いに破門しています





質問者: グノーシス主義というのも教えてください



緋山: 仏教は、自己の外(そと)の阿弥陀仏の存在を信じ

死後、阿弥陀の恩寵により極楽浄土へ往生することを願う

念仏宗(浄土宗や浄土真宗)に対して


天台、華厳、禅などの各宗派では

「己心 (唯心)の弥陀」「己心 (唯心)の浄土」といって

阿弥陀も浄土も自己の心にあるとしています




日本人の中には「神は心の中に存在する」

なんて考えている人も多いですが

そうした考えは一神教の世界では受け入れられません




ところがキリスト教にもかつて

神が自己に内在するといった思想がありました




釈迦当時のバラモン教では

自己の本質であるアートマン(我・霊魂)が

宇宙の最高原理であるブラフマン(梵)と

本来 同一であると悟り


これにより梵と我が合一 (梵我一如)すれば

輪廻転生を超越できる 解脱できるという考えが

主流となっていたようですが


〔 梵我一如は、バラモン教が変貌したヒンズー教において

今日でも、神への信愛(バクティ)とともに解脱への道として

根本的教義の座を占めています 〕



このような考えが、キリスト教にも混入したことがあったのです

それが「グノーシス主義」です




人間の本来的自己は、肉体、国家、さらには

宇宙、とくに人間の運命を支配すると考えられてきた「星辰」

(せいしん・太陽、月を含めた星々)によって害されているとし


本来的自己が、宇宙を超越する神と本質的に同一であると

認識することにより、神の内に入るという思想です



人間は本来、神の内にあるとし

それが何らかの原因で地上に堕ちて肉体の中に閉じ込められた

これは人間本来の姿ではない


本来的自己が「神と同一である」という叡智(グノーシス)

を獲得すれば、肉体を脱して神のもとへ帰れるという思想です



この思想は、キリスト教誕生と同時期の紀元前後に

ローマ帝国の圧政下にあった属州のパレスチナ、シリア

エジプト、ペルシア、小アジア (トルコ)において登場し


世界最古の一神教であるゾロアスター教、ユダヤ教

キリスト教などに寄生し

2~4世紀には、ローマ帝国ほぼ全域に普及したといいます


その後、キリスト教の攻撃により次第に消滅していったとされています




グノーシス主義のおもしろいのは

古代ローマでは、星辰を神格化し

星辰をその運動の規則性から秩序や倫理の象徴と考えてきたのに対し

星辰、宇宙をも悪魔的存在とみなしているところです


霊魂を善、肉体および物質的存在を悪とする霊肉(れいじく)二元論は

多くの宗教にみられますが


本来的自己と、星辰を含めた宇宙の全てとが対立する

反宇宙的二元論というのは珍しいです




キリスト教との対立点は


星辰を含めた宇宙の全てを悪とする立場は

唯一絶対神の創造した世界の否定となる点


人間の魂が神の創造物ではなく神と同質とする点


人間が神と同質ならば、人間は本来的には救済されていることになり

キリストによる救いは無用のものになりかねない点


人間の肉体を悪とし、キリストの肉体的要素は仮象であるという

「ドケティズ」 〔キリストを霊的な存在とみなし

キリストは真に肉体の姿をとったのではなく

死の苦しみを受けたのでもない

キリストの受肉(誕生)と十字架による死は見かけの現象であるという考え〕

の立場をとる点。すなわちキリストの人性を否定する点


であるとされています





質問者: では、フランクルの「ロゴス」とはなんですか?



緋山: フランクルのいう「ロゴス」は

おそらく、【 人生に意味付けができないか

と取り組みつづける態度

それ自体が、人生の意味である 】という「真理」ということだと思います



≪ロゴスは、ここに常にあるのに

人々は、それを聞く前にも、聞いた後にも理解することがない≫


つまり彼のロゴスとは、アウシュヴィッツのような

極限を体験していない我々には理解しがたい


しかし【 人生の意味とはなにか? と取り組みつづける態度

それ自体が、気がついたら人生の意味だったと

腑に落ちる瞬間が訪れる 】という「真実」だと思います




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