心理学最大の理論 アルバート・エリスの「ABC理論」の間違え ②



心と存在


「心理学」「脳科学」の嘘を暴く!!



 



心理学最大の理論

「ABC理論」の間違え ②




 
アルバート・エリス (1913~2007)




ABCDE理論の正体



まず、緋山は

ABCDEモデルの手法、手段 = カウンセリング は間違え

とは、ひと言もいっていないということです


ABCモデル、ABCDEモデルについての

≪理論づけ≫が、間違えである と言っているのです


そこは理解できていますか?



今回の緋山の真の動機は

「感情」や「価値」についての本質を書くことあるのです


その動機のために、アルバート・エリスのABC理論が

世界的というか、歴史的に有名なので利用しているわけです



「酔恭と竜太の対話形式が途中に入るのは

全体の文の構成として違和感あるのでは?」


だったとしても、こっちが真の動機であり

アルバート・エリスやABC理論の方がじつはおまけなのです




ホームレスにも人権はあると思う(主張) →

お前、もっと稼いで、税金 納めてから言えよ


こうすると世の中もっとよくなるはず(主張) → 低学歴のお前が言うなよ



こういうのは「人身攻撃」といって、論点ずらしの常套手段です



主張そのものへの反論ではなく

相手の価値を下げることで

相手の主張の妥当性、信頼性、正当性を下げる というものです



一方、≪誰々(例えば、アインシュタイン)が

言っているのだから

自分の言っていることは正しい≫というような論法を

「権威に訴える論証」といいます


こちらは、権威をもちあげることで

自分の主張の妥当性、信頼性、正当性を高める方法です



「権威に訴える論証」は「人身攻撃」とは

一見、真逆に思えますが、本質は一緒です



私がこうした論法を使うことはほぼ皆無です




また、クリティカルシンキング(批判的思考)というのは

ふつうの人が、アタマを良くみせるのに最高の手法である

と言われるほど

ロジカルシンキングに比べると「楽」なのです



なぜなら完璧な理論というのは

そうそう確立できないのに対し


確立している理論のアラ、欠点を指摘するのは

ずっと簡単だからです



そこで重要な点は

緋山の場合、「時間論」にしても 「幸福論」にしても

「価値論」にしても 「感情論」にしても・・・


すべて対案というか

別の理論を打ち出しているということなのです




完璧であるはずのABC理論が

批判されたことへの反発から

感情的にしか読むことがではない心理学の専門家は


それこそ≪認知のゆがみ≫から

緋山が書いている話の「本質」にすら気づかないことになります




今回、緋山は

ABC理論なんかよりずっと大きなテーマ

人類がずっと問い続けてきた人類的なテーマ


≪感情とはなにか?≫ ≪価値とはなにか?≫


その「本質」について書いているわけです





話を戻します


【 生きている時の、カールロジャーズにあったことのある人と

エリスに会ったことのある人に、それぞれ講義を受けたことがあるよ 】

という知り合いのTさんからメッセージをいただきました


この方は、大手企業で重要な仕事をするかたわら

心理学(カウンセリング)における様々な資格を取得しています



【 論理療法は、ABCDEモデルで、カウンセリングを進めていきます


B(信念)の前には、Iが付いたり、Rが付くのです


IB(イラショナル・ビリーフ)は

≪不合理的な信念≫と訳されます

≪〇〇でなければならないという思い込み≫です


RB(ラショナル・ビリーフ)は

≪合理的な信念≫と訳されます

≪出来れば〇〇である方が良い≫という柔軟な考えです



要は、ある出来事Aがあって、怒り(感情)がおさまらなくて

つい、やけ食い(行動)をしてしまう(結果C) ということがあったとすると



IBすなわち

自分を怒らせた≪不合理的な信念≫は何か を探して行きます



≪不合理的な信念≫が現れたら、それに対して、反論をしていき(D)


RBすなわち、合理的な捉え方はないのか を探して行きます



合理的な捉え方の案がでてきたら


その案をもとに考えると、怒ってやけ食いしてしまうという結果は

「どのように変わると思いますか?」(効果E) を述べてもらうわけです



主観的な合理性なので、他の人から見てその信念がおかしくても

本人の悩みがそれで軽減されれて、問題行動が起こらなくなれば

それで良いという事なのです 】

ということでした





人前で話をしようとすると緊張してしまう

女性であることを意識しすぎて上手に話せない

上司で怒られることに恐怖を感じてしまう


こういった無意識的な傾向性は

そもそも「信念」に根ざしたものではない と前述しました



こういったことって、その人にとって


≪人生において絶対必要なコト≫

あるいは

≪これだけは絶対に譲れないコト≫


つまり『信念』に


根ざしたものなんかではないでしょ

という理由からです




でも、Tさんの話からすると


【 女性であることを意識しすぎてうまく話せない

上司に怒られることに恐怖を感じてしまう



これには

「女性と上手に会話しなければならない」

「上司に怒れないようにしなければならない」

という意識が強すぎて


かえって、女性とうまく話せない

上司に怒られることに恐怖を感じてしまう

といったことが起きる



これが

≪〇〇でなければならないという思い込み≫であり

≪不合理的な信念≫である



これに対し

「出来れば女性と上手に会話できれば良い」

「出来れば上司に怒れないようにできれば良い」



このように

≪出来れば〇〇である方が良い≫という柔軟な考えが

≪合理的な信念≫である 】


ということになります




しかし、≪〇〇でなけばならないという思い込み≫が

【信念】というなら、我々のすべてのコトが【信念】になりますよ!



なぜなら、我々は

世間のしきたりや常識などでものを見てしまうパラダイム

自分の経験や知識でものを見てしまうパラダイム

という2つのパラダイム(色眼鏡)のもと


あらゆるコトに対し

≪〇〇でなければならないという思い込み≫

で、行動しているからです



例えば、つい最近まで、日本だって

女性は〇〇歳までに結婚しなければならないとされ

その年齢を過ぎると「売れ残り」とか「行き遅れ」なんて

まるで【ろくでなし】 みたいに言われていましたよね(笑)


こうした時代における女性の

≪〇〇歳までに結婚しなければならない≫って【信念】かな?



やはり【信念】ではなく、【価値基準】でしょ




だいたい

「〇〇でなければならない」という

≪信念≫また≪思い込み≫でやけ食いしますか?


「痩せていなければならない」また「太ってはいけない」

という意識が強すぎてやけ食いしますか?


論理が矛盾しています





【怒り(感情)がおさまらない】 というのは

① 出来事(仕事で怒られた) →

「価値基準」(仕事で怒られることへの反応) →

なんで怒られなきゃならないんだ (不合理の感情)



やけ食いをやめない・やめるというのは

② 「価値基準」(やけ食いに対する必要性) → やめない・やめる

という判断です


決断が「やめない」なら

感情に近い意志によってなされたと言え


決断が「やめる」なら

その決断は、より意志的になされたと言えます



このときの判断は

癒されるし(得)、でも太るよね(損) とか


たまにはやけ食いもいいよね(善)

でも一度タガがはずれると暴走するのがやけ食いだ(悪) とか

いった価値判断です



つまり、ストレスと一体の自分が

一時的にでも癒されたいとか

たまにはやけ食いもいいとかいった価値判断のもとに

やけ食いをするのです





それから、「そんなわけないじゃん」と思うのが

≪不合理的な信念≫で


「なるほど、そういう考えもあるのか」と思うのが

≪合理的な信念≫です というのもおかしいです



なぜなら、めちゃくちゃ色んな情報を集めて精査する人の

「そんなわけないじゃん」と


自分で考える経験をほとんどしていない人の

「なるほど、そういう考えもあるのか」とでは

どうなんだという話になります



前者は後者の意見など聞かないから

後者は「自分の方が柔軟思考の持ち主だ」と信じている

なんてことも多いはずです




いずれにせよ

≪合理的な信念≫・≪不合理的な信念≫と言っても

ある必要性(仕事・やけ食いなど)に対する判断が

≪合理≫(正しい)か ≪不合理≫(間違え)かにすぎない

ということなのです





「ABCDE理論とは、結局、なんなんだ」

これを明かします


ABCDE理論は、ABC理論よりも

さらに1つ多くの価値判断がなされているのです


ABC理論の場合

① ≪会社で怒られたという出来事≫

② ≪仕事という必要性≫

というように

価値判断の「対象」(刺激・情報)が、外界にあるのです


自己の価値基準により

外界の「対象」を価値判断する というものです



これに対してABCDE理論は

さらに、自己の価値基準そのものに対する

価値判断がプラスされているのです


要するに全部違った3つの価値判断からなるのです



これがABCDE理論の正体です




ABCDE理論の③の判断は


自分の「仕事で怒られることへの反応」が

≪合理≫か≪不合理≫かということですが


要は、自分の人生や

自分の命(生命全体)を物差しとしたときに


自分の反応が、≪損≫になるか、≪得≫になるか

あるいは≪利≫となるか、≪害≫となるか

といった価値判断なのです







「ABCDE理論」根本の誤り



【 ある出来事Aがあって、怒り(感情)がおさまらなくて

つい、やけ食い(行動)をしてしまう(結果C) ということがあったとすると


自分を怒らせた≪不合理的な信念≫は何か を探して行く


≪不合理的な信念≫が現れたら、反論をしていき(D)


合理的な捉え方はないのか を探して行く


合理的な捉え方の案がでてきたら


その案をもとに考えると、怒ってやけ食いしてしまうという結果は

「どのように変わると思いますか?」(効果E) を述べてもらう 】



カウンセリングとしては、正しいのでしょうけれど

論理としては「破綻」していますよ!!



分かりませんか?


≪怒ってやけ食いしてしまうという≫

ここがすべてのトリックの根源です




暴力的な上司に怒られれば、ふつう「恐怖」を感じます


不正をしている上司から

不当な扱いを受けたら、誰だって「怒り」ます


至極、まともな感情です




「ABCDE理論」というのは

≪やけ食いする≫という結果(C)から


出来事(A)に対する反応=感情(B)が

あたかも≪間違えている≫ように錯覚させて


それを是正するという理論なのです




≪やけ食い≫をしない・するといった

「善・悪」とか「利・害」とかいった価値判断と


出来事Aに対して

「怒る」とか「恐怖」を感じるとかいう価値判断とは

全く別なのです








ということは、A → B はつながっているけど

B → C はつながっていない


なのに、「ABCDE理論」は

B(怒り) → C(やけ食い) につながりがあると錯覚し

Bを≪不合理な信念≫としている ということですか?



そうではありません!



① 不正をしている上司に

不当な扱いを受けた(A) → 怒り(B)


② 怒り(B) → やけ食い(C)


BとCはちゃんとつながっています

要するに「因果関係」が成立しています


( なお、Bは、正しくは「信念からくる怒り」です )




まず「因果関係」がどういうものか述べておくと


例えば

気温が上がる(原因) → アイスがよく売れる(結果)

は成立しますが


アイスがよく売れる(原因) → 気温が上がる(結果)

は成立しません



上司に怒られる(原因) → 恐怖(結果)

は成立しますが


恐怖(原因) → 上司に怒られる(結果)

は成立しません



これと同じで

やけ食い(原因) → 怒り(結果)

は成立しません



むろん「ABCDE理論」でもそのようになっています




では、なぜ、結果(C)の「やけ食い」から

出来事(A)に対する反応=感情(B)も

≪間違えている≫と判断してしまう(錯覚してしまう)ようなことが

起きるのでしょうか?



「わらしべ長者」という昔話があります


【 ある正直な若者が

「寺を出て最初に手にした物を持って行きなさい」

という観音菩薩のお告げを受ける


石につまづき転んだ際、手にしたのが1本の藁(わら・わらしべ)だった


あぶを結び付けて歩いていると、牛車に乗った子供が欲しがったので

子供の母親のみかん3つと交換する


次に、喉が乾いていた娘にみかんを与え、絹布(けんぷ)をもらう


次に、馬がたおれて困っていたサムライが

絹布と馬とを交換して欲しいというので、交換する


夜通し面倒を見てやると、馬は元気になった


さらに、歩いて行くと「東国へ行かねばならないが馬が足りない」

「代わりに、帰ってくるまで、家と田畑をあずけよう」

という立派な武士に出会い、馬を与える


武士は帰ってこなかったので、家と田畑が若者のものとなった 】



等価交換でいうと

藁 = みかん3つ  みかん3つ = 絹布

絹布 = 馬   馬 = 家と田畑(武士が戻るまで) ですが


因果関係でいうと

藁 ⇒ みかん ⇒ 絹布 ⇒ 馬 ⇒ 家と田畑 です



藁は、みかんに変わる原因です


みかんは、藁を手放した結果であるとともに

絹の布に変わる原因でもあります


かといって、藁やみかんが

直接、家と田畑の原因となっているわけではありません




それと一緒で、上司に怒られたという出来事(A)と

やけ食いしたという結果(C)の間には

直接的な因果関係はありません



「ABCDE理論」というのは

そこに、直接的な因果関係があるように錯覚させているのです


そして≪やけ食い≫(C)がよくない(害)

という価値判断から


上司に怒られたという出来事(A)に対する

≪怒り≫に対しても、よくない(不合理・不必要)

という価値判断をしているのです



しかし、それでは、不当な扱いを受けたことに対する

正当な≪怒り≫も、不合理ということになってしまいます



これが「ABCDE理論」の根本的な誤りです



≪怒り≫が『不合理』であるのは

あくまで【やけ食い】に対してでしかないのに


出来事に対する≪怒り≫にまで

『不合理』であるという価値判断がなされている ということなのです




① 不当な扱い(原因)の結果である「怒る」 → 合理


② やけ食い(結果) の原因となる「怒り」 → 不合理


①と②は、別の価値判断であり


②を根拠に

①の「怒り」も【不合理】は、成立しないということです





「わらしべ長者」の

藁 ⇒ みかん ⇒ 絹布 に譬えると


藁が、上司に怒られたという出来事(A)

みかんが、怒りと一体の自分(B)

絹布が、やけ食いするという結果(C) です



藁が、直接、絹布になることはない

= 藁と絹布に、直接的な因果関係はない

のですが


みかん = 怒りと一体の自分(B) が

Aの結果とCの原因になっているので

藁と絹布に、直接的な因果関係があるような錯覚を受けるわけです



また、みかん(怒り)が

絹布(やけ食い)の原因のときに【不合理】であるからといっても

藁(上司に怒られた)に対する結果のときも【不合理】であるとは限らない

ということです




なお、合理・不合理の判断は、価値判断です


価値 = 必要性 なので

やけ食いという行為が、必ずしも≪不合理≫というわけではありません


一時的に癒されることを目的にした場合

≪合理≫になることもあるのです




以上が、「ABC理論」および

「ABCDE理論」のカラクリの全容です





重要な点は

「ABC理論」にしろ、「ABCDE理論」にしろ

根本は、≪価値判断する自分≫です


上司に怒られたという出来事に対して

「怒り」という感情を生み出すのも、≪価値判断する自分≫ですし


その怒りと一体の状態から、やけ食いという行為に

必要性を与えるのも、≪価値判断する自分≫です



ならば、≪価値判断する自分≫の

その価値判断がどのように生じてくるのか?

ということになります



さらに、≪価値判断≫について理解するには

まず「価値」がどいうものか? を知らなくてはなりません



これが分かっていなければ

まともな【理論】になるわけがないのです







「価値」とは?



そこで、価値とはなにか? ということになります


新カント派の「真・善・美」を価値とする考えが

それこそ真理であるかのように、いまだに世界に定着しています



新カント派というのは

ドイツの哲学者 カント(1724~1804)の思想の復興を

唱えたドイツ哲学の一派です


19世紀の終わりから20世紀初めの第一次大戦前にかけて

彼らの思想は、ヨーロッパ諸国から日本に至るまで

広く影響を与えたとされます




こうした新カント派の価値に対し

真理は価値ではないと論じた人がいます


創価学会初代会長 牧口常三郎(つねさぶろう)氏です


創価学会の「創価」とは、≪価値創造≫を意味しているのです



【 牧口常三郎… 1871(明治4)~1944(昭和19)


治安維持法および

不敬罪(戦争反対と、国家神道よりくだされた天照大神の神札を

拒否するなどしたことが、天皇への不敬とされた)で

昭和18年7月に逮捕、投獄。翌19年11月に老衰と栄養失調のために獄死 】




彼は「人間の目的は幸福になることである

≪価値は幸福の内容≫である」と定義し


「人間のいとなみはすべて価値をつくりだす以外にない」


≪価値が自己と外界との関係性から生じる

相対的概念であるのに対して

真理は認識の概念であるから幸福の内容にはならない

真理は価値ではない≫と論じました



よく、真理を求めることが人生の目的である

かのように言われますが

そうした幸福と真理を同じように考える立場を否定したのです




ここに、お茶があって、これがお茶(真理)だろうと

ジュース(虚偽)であろうと

幸福には関係ないですよね


飲んではじめて「美味しい」という価値を得られます



真理は、ものごとを明らかにしてゆくところにあり

価値は、幸福を求めるところにあるということです



牧口氏の考えは

「価値」という概念を理解する上で

めちゃくちゃすごいです


彼は、哲学者としてもっとリスペクトされるべき人です


但し、2つ根本的な間違えをしています



1つ目の間違えはこれです


牧口氏の「価値論」では

新カント派の「真・善・美」に対し

"美・利・善" こそが、価値であるとしています



①、美の価値は

五感を通して得る心の満足です


美味しいとか、楽しいとか

美しいとか、いやされるとか 心地よいとかいうものです




②、利の価値は

生命全体や人の一生を基準とした価値だとしています

お金や仕事などが「利」にあたります



子供の価値生活が主に「美」なのに対し

大人のそれは主に「利」であるとしています




③、善は、善悪の「善」ですが

究極的には、日蓮仏法と結ばれています



なお、牧口さんは、美よりも利

利よりも善を上位の価値としています




彼の価値論の最大の矛盾は

≪真理は価値ではない≫と論じつつ


宇宙の根本原理、究極の法則

つまり「宇宙の究極の真理」である


「南無妙法蓮華経」を

≪最高の「善」≫ ≪最高の価値≫にすえているということです



ただこれについては

牧口さんは宗教家なので、仕方ないと言えば

仕方ないのでしょう・・・・



ついでにいうと

②と③は、自分(あるいは集団や社会)において

≪必要なモノやコト≫でまとめることができます




もう1つが重要です


牧口氏の価値論には

【 真理は価値でない 利が価値である 】

とともに、もう一つの柱があります


それが【 価値は関係性より生じる 】です



山で遭難した者(主体)にとっては

水(客体)には価値があっても

ダイヤモンド(客体)には価値がありません


遭難した者と水との関係性から価値が生じる ということです



これによって牧口さんは

モノ自体に価値があるとする唯物論と

心が価値を創造するという唯物論的な価値の考え方を

否定しています




しかし、これは間違えです


なぜなら価値は

価値判断する自分から生まれるものであって


対象(外界なり、客体なり)との

≪関係性≫から生じるものではないからです







価値判断する自分



≪ 「価値」は、脳の中にある自分の価値基準と

対象(刺激・情報)との関係において生じている ≫

ことは、説明しましたが


価値は、関係性において生じるわけではありません



はぁ?

≪山で遭難した人にとっては、ダイヤモンドよりも水に価値がある≫

というのは、自分と水との【関係性】から価値は生じていますよね


という疑問が、当然、起きますよね




結論からいうと、これは

水に対して欲望があるケースのみに

≪自分と水との関係性から、価値が生じている≫ と言えるよ

ということなのです



さらに言うとこの場合、欲望があるということは

水に対して、すでに価値判断がなされた状態にある

ということなのです




では、価値とはどのように生じているのでしょうか?


ある人がダイヤモンドより硬い鉱物を発見し

ブログに写真をのせて説明を書いたとします


たまたまその写真をみた鉱物収集家の太郎は

「この石はなんだろう」と知覚判断に入ります


このときまだ太郎くんには

この新鉱物に対して「価値」も

「反価値」(不必要性)も生じていません



しかしブログの説明を読んでいくと

「これは大変な石だ 石をコレクションしていく上で

ぜひとも手にいれたい 自分の人生に絶対必要である」

と感じます



このように太郎くんが

≪一方的に≫ (関係性において価値が生じるのではなく)

価値を与えることによって


この新鉱物ははじめてAさんにとって

価値(自分にとって必要なモノやコト)となり


ここにはじめて「関係性」が生じるということなのです


つまり、価値判断とは、対象との関係性を創造することなのです




では、価値に関係性は関係ないのでしょうか?


これがあるのです



これも結論からいうと


≪環境と一体の自分が

対象に一方的に評価を与えるのが価値判断です≫


つまり、価値というのは前提に「欲」があることで

一方的な判断がなされるということなのですが



その「欲」は、自分と自分の置かれた環境(状況・状態)の

「関係性」によって生じているのです



つまり、ラーメンを目にして

必ずしも食欲が湧く=価値が生じる というのではなくて

前提に食欲があって、ラーメンが食べたい対象になるのです





では、価値とは、環境(状況・状態)と一体の自己が

一方的かつ独立的に対象を評価することによって生じている

でいいのでしょうか?


そうではないのです



環境(状況・状態)と一体の自己が

一方的に評価を与えるのが価値判断ではありますが


多くの場合、「独立的」に評価を与えるわけではないのです



環境と一体の自分とは

つねに、世間のパラダイム(常識や人気、しがらみやしきたりなど)

とも一体であるということです



なので、人間という存在は、世間のパラダイムにひきずられて

価値判断していることが多いのです



つまり他者との関係性において

価値判断しているということなのです




例えば「ラーメン食べたい」というのは

一方的かつ独立的な価値判断と言えますが



女の子「この服、流行ってるよね 買ったら」 →

お友達「でもみんな似たようなの着てるからなぁ」といった場合


女の子とお友達の評価は決して独立的ではないです




このように「価値」というのは

とてもやっかいな概念であり


心理学において最高峰の理論を打ち立てた

エリスといえど、全くお話にならなかった ということなのです







カウンセリングが成立するのは



質問者: なぜ、アルバート・エリスの

カウンセリングが、正しく機能しているのでしょうか?


もし、理論に間違えがあれば

カウンセリングも、正しく行われることはないと思いますが?



緋山: 現実に機能しているコトに対し

あと付けした理論が、科学的に間違っていたからといっても

それだけのことです


例えば、天動説です


あと付けした理論が間違えたからといったって

惑星の運動ができなくなるなんてことはありません




質問者:  物理学の「真理」と、心理学の「真理」とは

同じですか? 違いますか?



緋山: 陽天さんの言葉を借ります


【 数学屋は数にしか興味がない

それはそれでええ。数学は数を扱う学問やからな



電車に乗っている自分にとって

駅や景色が動いている?


そのようなことは決してない



動いているのは電車や


これが物理的な事実で他に考えようがない



船の甲板の人からウミネコが止まっているように見えても

ウミネコは船と同じ速さで飛んどる


それでないと海に落ちる


月も地球を回ってないと地球に落ちて来る


結局、特殊相対性理論の根本的な誤りは

慣性座標系を静止座標系と同じ扱いにしたことや



わしら工学屋だけはごまかされん

ごまかしたら、モノが動かんし、モノが壊れる 】



これが、物理の「真理」です





緋山: 一方、デンマークの哲学者

キルケゴール(1813~1855・宗教思想家)は

真理は、主観的、個人的なものと主張しました



彼は「実存」(自己の主体性)こそが

哲学における最大のテーマであり、真理であり

これに関係しない普遍的真理などを知ってもなんの意味もないと

考えたとされます


このため、実存主義の祖とされています



実存主義とは、個人の主体性=実存 を重視し

それによって、人間の本来的なあり方を回復するといった立場で


サルトルやニーチェなんかがこれに属します


本人は否定していますが

20世紀最大の哲学者と称する人も多い ハイデガーも実存主義です



彼らの立場は、大乗仏教の、【 自己に内在する≪仏性≫ =

本来的自己 を顕現することで、仏になる 】というのと一緒です




要するにキルケゴールの言う「真理」は

ホントは「価値」なのです



キルケゴールは

真のキリスト教精神の復興を目指し言論運動を開始して

デンマーク国教会の腐敗を糾弾する小冊子を9号まで刊行し

10号の発刊目前に路上で倒れ、病院で死去したくらいの人ですから


彼のいう「真理」 は 真のキリスト者になるコトです


「私がそのために生き、死にたいと思うような理念」

が彼の真理です




日蓮仏法ならば

宇宙の根本原理、究極の真理、幸福のリズムであり

宇宙の仏界である「南無妙法蓮華経」が


自己の仏界(仏性)として内在している


なんて話になっています



こういうのはみんな「価値」なのです




「悟り」とはなんでしょう?


『真理』を悟ったということであり

『真理』を悟ったとは、『正解』を悟ったということです


「悟り」 = 「真理」 = 「正解」です



これまで先達や先哲

人生の達人により語られてきた「悟り」「真理」とは


どういう生きざまで生きて、死んでいくのか・・・

という意味においての「真理」です



要するに、自分自身の生き方の正解を見出した

自分の人生の価値を見出し、意味づけをした ということであり



これは≪自分にとっての正解≫ であり

本来は、≪自分にとっての必要性≫ = 「価値」 なのです




質問者: ということは、Tさんが

【 主観的な合理性なので、他の人から見てその信念がおかしくても

本人の悩みがそれで軽減されれて、問題行動が起こらなくなれば

それで良いという事なのです 】と言っていたとおり


心理学およびカウンセリングの目的は

患者が、自分にとっての「正解」を見つけ出すのを、手助けする

ということですね





緋山: 宗教は、教理に論理的な矛盾があったとしても

信仰においてはなんの矛盾もおきません



聖書で言えば


神より授かった「十戒」には、殺人の禁止があるのに

モーセは、黄金の雄の仔牛像を作って崇拝していた

仲間をみな殺しにしています


また、パレスチナにたどり着いた後継者のヨシュアは

「ここは私たちと神との約束の地である」とし

原住民であるエリコの民を

女性や子供・乳幼児も含めて全員虐殺したとあります



十戒の「殺人の禁止」はどうなっているの?

こういうのを

≪自語相違≫というのではないのか(笑) という話になりますが



ユダヤ教徒ばかりでなく

人類の1/3をも占めるらしいキリスト教徒までもが

この旧約聖書なるものを信じているのです





また、初期キリスト教団では

終末はすぐにもやってくると言われていて

千年王国説(至福千年期説)などが唱えられました



後に年代を定める考えはなくなり

むしろ終末はイエスの死と復活によってすでに始まっている

現在は終末の始まりと決定的な終末の中間にある

という考え方が主流になっています



現在も、ものみの塔(エホバの証人)や

モルモン教なんかは、千年王国説を唱えています



千年王国説とは

ヨハネ黙示録20章の字句をそのまま解釈したものです



【 世界最終戦争のハルマゲドンに先立ち、キリストが再臨する



ハルマゲドンがおこるとキリストは地上に降りて

悪魔(サタン)を鎖につなぎ、地上に王国を建設する


罪人(つみびと)は地獄に落ち


義(ただ)しいキリスト教徒や殉教者は

復活(第1の復活)し、不死の身体を与えられ、幸福の生活を送る


この地上の王国が千年続く



王国の終わりにあたり悪魔は自由となり

神と戦い、悪魔は闘争の末に決定的に滅びる



そこで全ての人間が復活(第2の復活)し

キリストによる最後の審判が行われ

罪人(つみびと)は火の池に投じられ

義しい人間は神の国(天国)で永遠の幸福を得る 】


というものです




結局、≪自分の根拠の幸福≫になるのなら

なんだっていいのです


(ひとたび当人の根拠となったら

当人にとってなんだってよくなくなりますが)



≪自分の根拠の幸福≫は「主観」 なので

正しいも、間違えも、へったくれもありません


合理(正しい)・不合理(間違い)と言っても

ある必要性 (痩せるためとか、社会の秩序を維持するためとか)

においての正しい、間違えでしかないのです



あるのは、必要性 = 価値

すなわち、当人にとっての「正解」です



質問者: ということは

カウンセリングの目的は、患者が、≪自分の正解≫

すなわち≪自分の根拠の幸福≫を見つけ出すこと

また築いていくことを

心理の面からサポートするところにあるということですね



そして、その方法を、統計学的に導き出し

そこに、科学的な理論づけしたのが心理学ということですね




緋山: 「SR理論」においての反応を考えてみましょう


刺激(Stimulation) → 価値基準(Value standard)

→ 反応(Reaction)  です



S(原因)とR(結果)は

外に「刺激」と「行動」として現れるので、他人にも分かります



しかし、SとRの間で、本人が

「刺激」(原因)に対して、どのような【価値基準】のもと

≪価値判断≫をし、「行動」(結果)するにに至ったか


心の満足・不満足を価値判断の基準としたのか

倫理観を基準としたのか   信念を基準としたのか

生きるために損得を価値基準としたのか

世間のパラダイムを基準として、それに引きずられて価値判断したのか


どのような価値基準において

価値判断したのかは、他人には解からないのです


つまり、現在、物理化学において、それを知ることはできません

(物理化学とは、物理学と化学との境界領域をあつかうう科学)



要するに「心」「主観」について

現在の科学で完全解明するのは、不可能なのです




いずれにしても重要なコトは


物理学の第一義は

事象の原理や法則を解き明かすところにあり


哲学のそれは、ものごとの本質や概念を

考察するところにあります



これに対し

心理学の第一義は、幸福や価値を得る手段・方法を

心の法則性から研究するところにあります


〔 前述したとおり、幸福とは、価値の内容や対象をいう 〕




質問者: 心理学は、方法論なので

その方法に、物理学的な解明がなされていようといまいと


また「概念」(例えば、信念)のとらえ方に

多少の間違いがあったとしても そこは第一の目的ではない


だから、重大な欠陥ではない 問題はない ということですか?




緋山: 逆にいうと、ABC理論、ABCDE理論で

カウンセリング(方法)としてちゃんと機能しているのだから

ABC理論、ABCDE理論は「正しい」とも言えるということです



ここが相対性理論の間違えとは全く違います


そこは、アルバート・エリスの名誉のために言っておきます




質問者: 方法論ゆえ、スピリチュアリル的で

怪しげなカウンセリングに陥るものも当然、出てきますよね



緋山: 心理カウンセリングとスピリチュアリル的なそれの違いは

科学的な統計にもとづいてなされているか、いないかだと思います


アドラー心理学なんていうのは両者のぎりぎりのとこだよね

「嫌われる勇気をもて」とか(笑)





ちなみに「客観的な真理」と言っても

≪人間という主観≫においての「真理」でしかないのです



例えば「これはコップである」と言っても

恐竜という主観には、ゴミにしか見えなかったり

アリンコという主観には、壁に見えたりしているかもしれません


また、コウモリのような人間の持たない感覚器官で

モノをとらえている主観が、どのように世界を見ているか

など分からないのです


もっと言うと、人間以上に優れた

どこかの星の知的生命体が、地球にきたとして

この主観が、世界をどうとらえるかも分らないのです



なので客観的な真理と言ったところで

≪人間という主観≫においての客観的な真理でしかないのです







評価的認知



質問者: Tさんから資料をいただきました










緋山: 世界に対する評価的認知というと

「価値基準」のことであるかのように思えますが


評価的認知の内容が

固定化した評価的認知であるか、柔軟な評価的認知であるか

に分れるというのがおかしいです



「価値基準」とは

世間のパラダイム(しきたりやしがらみ、常識や人気)

の上にできあがったものであったり


自分の知識と経験によってものごとをみてしまうパラダイムそのものです



これ自体は、そもそも固定的です (柔軟もへったくりもありません)




出来事に対し

この「価値基準」をもとに価値判断をした結果が≪感情≫です



この感情をもとに、さらにエリスのいう「評価的認知」がなされます




例えば「バカ」と言われたとします

誰だって「非」の感情が生じます



ただ、ホントにバカな人は、情報(認知の情報)を1つしか持っていないから

言葉そのままに理解し、頭にきて反発したりします



でも、頭のいい人は、そのバカを定義しようとする


相手がどんな意味で言ったのか考えようとします

持っている情報を引き出してきて理解しようとします



自分を嫌って言ったバカなのか

それとも親近感を増すために言ったバカなのか

それとも単なる相手の口癖なのか

それともイヤミで言ったバカなのか


忙しい状況下で

イライラしてつい口に出してしまったバカなのか

また周囲に力を誇示したいがために言ったバカなのかと



そして定義した上で

じゃ、どのように反応(行動)すべきかを決定します




要するに、「価値基準」と、エリスの言う「評価的認知」とは別モノです



エリスの言う「評価的認知」(柔軟・頑迷)は

心の満足(快楽)、不満足(痛み)という価値判断よりもずっとあとのものです




それから、感情と行動は、別次元の反応であるのに

この参考書でも ここが一緒になっています  デタラメです





質問者: これはどうですか?






緋山: エリスの著書を翻訳したようだけど

信念 = 摂取された言葉による条件付け とありますね


これはついては、わかりません



ただ言えることは、≪摂取された≫というのは

受動的であることを示しているので


≪摂取された言葉に対する条件づけ≫ならば

摂取された言葉 = 上司に言われた言葉 に対する条件付け

ということになるかと思います



≪条件付けする≫というのは、能動的であることを示していて

評価する = 価値判断する ということになります




しかし、これだと


「SR理論」の場合

刺激(Stimulation) → 反応(Reaction)

というように、原因と結果しか書いていません



刺激(Stimulation) → 知覚作用 → 反応(Reaction)

の「知覚作用」を省略しているのです




信念が、評価する = 価値判断する だとすると

「出来事」(刺激・情報) → 価値判断(作用) → 「結果」(感情)

と≪作用≫を書いていることになり


「SR理論」との整合性を欠きます




なお、私(緋山)が、わざわざ「価値判断」でなく

「価値基準」としたのは


「SR理論」が、原因と結果しか書いていない

作用を省略して書いている ことを考慮したからなのです



「価値基準」は、出来事に対する結果ではないので

めちゃくちゃ悩みましたが


≪信念≫の間違えを示すために

信念を「価値基準」に置き換えて


刺激・情報 → 価値基準 → 「結果」(感情) としたわけです



もともと間違っている理論を説明するのって

間違えていることに対して、整合性のある説明をしなくてはならないので

とても難しいのです



本来は、価値基準というのは

価値判断する自分に含まれているわけですから


刺激・情報 → 価値判断 → 「結果」(感情) と書きたいのです



しかし、「SR理論」との整合性を考慮して

価値判断(作用)を省略し


「ABC理論」の≪信念≫に対して「価値基準」を置いたのです





では、価値基準とは本来なにか?

ということになりますが、これも「原因」です



例えば、≪上司に言い返した≫という結果があったとします


その原因は、≪上司に怒られたコト≫というのが

「ABC理論」の理屈ですが


原因を、≪自分のカッとなりやすい性格≫ということも言えます




花が咲くのは、種のもつ性質が原因で

太陽の光、水、肥料、世話をする人は、助因(間接的な要因)

と言えますが


〔 主体に内在するコトを原因

外在的なコトを要因とするのがふつうだと思います 〕



ただ≪地震でコップが落ちて割れた≫なんて現象になると

どれが原因で、どれが助因なのか?よくわかりません


原因は、地震なのか、コップがガラスだったからか

はたまた地球の重力だかよくわかりません



話を戻すと

要は、≪信念≫も価値基準の1つなので「原因」なのです





それから、さらに言うと

「ABC理論」自体、自己矛盾をはらむ理論ということになります



作用も書きたいのなら

「出来事」(原因) → 認識また知覚(作用) → 事実の把握(結果) →

→ 価値判断①(作用) → 感情(結果) → 価値判断②(作用)

→ 意志や行動(結果)

と書かなければなりません


なお、結果がつぎの判断の原因となります



要するに「ABC理論」は


→ 信念( = 価値判断) →


この部分だけ作用を書いていて、他の作用は書いていない

つまり、自己矛盾をはらんでいるということです


他は「矢印」が、作用を示しているのです




価値判断①は、知覚また認識されたモノやコトに対する

心の満足、不満足です  快楽か痛みです



価値判断②は、総合的な価値判断です

基準となるのが必要性です



上司に怒られたコトを例にすると

結果となる≪首にされてもいいや、上司に言い返してやろう≫(意志)

≪会社をやめる≫(行動)などについての


直接的な判断は

今の職場(仕事)に対する≪自分にとっての必要性≫に関する判断です



②は、価値判断①の結果(感情)の他

自分の「状態」(このまま続けると病気になるかも)や

「状況」(給料が少ないし

貯金はあるので、当面、家族を養うのに問題ない)

を含めた判断です



それと柔軟か頑迷かは

この総合的な価値判断に関する思考の

幅というか、厚みについての話です



簡単にいうと「頑迷」とは

≪ご自分の常識≫で価値を判断するということです







誰に対するマストか?



質問者: さらにTさんからです




緋山: このモデルは、 固定化した評価的認知と

柔軟な評価的認知を分けていないということだね






緋山: つぎに、上は間違えで、下が正しいということだね






緋山: 「適切」「不適切」の部分についていうと

誰に(何に)対して「適切」「不適切」なのか? ということになります



もっと言うと「適切」「不適切」には

≪〇〇しなければならない≫というコトが前提としてあって

それに対して「適切」か「不適切」かということになります



要は

義務=マスト〔must・しなければならない〕の根拠が

明らかにされていないのです



神に対してのマスト(義務)なのか

人間の社会が人間に課しているマストなのか


宗教的あるいは倫理的な原理として

人間に内在しているマストなのか


自然界の法則として人間に課せられたマストなのか


ということです




1つ例をあげておきましょう


ブッダ(仏)とは、本来「覚者」という意味です

釈迦は、悟りを得て、ブッダになったわけです


また、覚者の智慧によって

涅槃(静寂な悟りの境涯)という幸福にも至れることができた

ということです



しかし、現実には

ものこどをあきらかにみることができる人が

必ずしも、≪なにがあっても、なにがなくても楽しい≫

という絶対的?な幸福の人とは言えませんよね



ものこどをあきらかにみることができる人の方が

正しい判断ができ、正しい行動がとれるということはあっても

必ずしも幸福の境涯に至れるとは限らない



なにも知らない人の方が

人生を、悲観せずに生きていけたりするものです



わたしのような理屈屋よりも

創価学会のおばちゃんのほうが

往々にして幸福だったりするものです



そこに、適切も、不適切も、へちまもないでしょ

ということです



その意味から、≪人生の意味をもたせる≫という

フランクルの論理の方が、エリスより一枚上をいっているのではないか

と思います




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