心理学最大の理論 「ABC理論」の間違え ①
ABC理論とは? 「ABC理論」については、アリストテレスさんの動画 https://www.youtube.com/watch?v=fS2WkcHk7As&t=134s 【心理学の勉強】ABC理論|これであなたの悩みは解決するかもしれません が、参考になります (ちなみに姪が有料会員となっています とても分かりやすい) アルバート・エリス(1913~2007・アメリカの心理学者)は アメリカで行われた調査で 影響力のある心理学者の第2位に、選ばれるほど重要な人だといいます 【 1位は、カール・ロジャース(アメリカの心理学者) 3位は、フロイト(オーストリアの心理学者、精神科医) 】
アルバート・エリスの残した功績が 無意識学および心理療法の祖 フロイトのそれをも しのぐほどの評価を受けているということです それは、これまでの定説であった 「SR理論」【 生物の行動は 刺激(Stimulation) → 反応(Reaction) によるという考え 】 をくつがえし「ABC理論」というのを打ち立たからだとされます A は「出来事」(Activating events) Bは 「信念」(Belief) Cは 「結果」(Ⅽonsequence) で 「出来事」を、どのように受け取るかは「信念」にあり 「信念」により「結果」(感情や行動)が違ってくるという話なのです https://www.softbankatwork.co.jp/column/counselor/ 2020/08/06/3046/ SBアットワーク株式会社 より アルバート・エリスの考えは ドイツの大哲学者 カント(1724~1804) の「認識諭」を、心理学に応用したものです カントの認識論を簡単に述べておきましょう それまでは 人が目にしているもの = 存在するもの と考えられていました これに対しカントは 【 私たちが認識しているのは 対象そのものではない 対象についての情報を感覚器官が受け取り それを主体が「なんであるか」知るために ある枠組・形式(カテゴリー)を用いて 構成した表象(知覚したイメージ)にすぎない 】 と考え、自らの考えを 「コペルニクス的転回」と述べています 話を戻します アルバート・エリスは、これまでの「SR理論」の 刺激(Stimulation) → 反応(Reaction) の基本は変えずに 間に「信念」を入れたということです さらに「信念・思考」が出した ≪自分はダメた≫ (認知) → 「反論」(Disput) → ≪自分は期待されている≫ → 「効果」(Effect) といったように、認知のゆがみを修正する 「認知療法」(エリスのそれは「論理療法」という)なので 「ABC理論」を「ABCDE理論」ともいうそうです 【 認知行動療法は、従来の「行動療法」に うつ病認知療法で知られる アーロン・ベックやアルバート・エリスの 「認知」に焦点をあてた「認知療法」が結ばれたもの 】 ABC理論の間違え アルバート・エリスの考えは 「出来事」(刺激・情報) → 「信念」(思考) → 「結果」(感情) ということですが、これはおかしいです 「信念」とは、自分にとって必要な モノやコトという「価値」の1つにすぎませんよ つまり、お金、仕事、家庭、趣味、宗教、思い出、夢 自分のルール、信念、理想、誇り、人生観、倫理観などの1つにすぎません 答えを言うと 「出来事」(刺激・情報) → 「信念」 → 「結果」(感情) ではなく 「出来事」(刺激・情報) → 「価値基準」 → 「結果」(感情) が正しいです 例えば、自分が、ミニカーを収集していたとするなら 「貴重なミニカー」(刺激) → 「価値基準」 → 「欲しい」(感情) 自分が、ミニカーに興味がなければ 「貴重なミニカー」(刺激) → 「価値基準」 → 「欲しくない」(感情) これが、感情=心 のシステムです あたりまえすぎなので 刺激(Stimulation) → 反応(Reaction) の間に わざわざ「価値基準」を書く必要もないのですが これから述べる「感情諭」において勘違いされると 面倒なので ちゃんと書いておくと 刺激(Stimulation) → 価値基準(Value standard) → 反応(Reaction) です アルバート・エリスの理論の 「信念」を「思考」に変えると 「出来事」(刺激・情報) → 「思考」 → 「結果」(感情) となります 「ABC理論」における「思考」とは 出来事に対する受け止め方、感じ方ということですが 「出来事」について どう考えるのか? どう受け止めるのか? どう感じるのか? あるいは、どのように思考するのか? にしても 自分に価値基準がなければ、出来事を評価できません ( 感情とは、価値判断の結果であり、価値とは評価の概念 ) 要するに、出来事について、環境や状況と一体の自己が 自己の≪価値基準≫のもと、評価する( 価値を判断する)ことで 感情というものが生み出されているのです これなら、あらゆるケースにおいて通用します 例えば、ご飯を食べるという出来事に対して お腹が減っている自分が 自分の価値基準(カレーよりもラーメン好きとか)をもとに 価値判断する それによって、美味しい(満足)とか まずい(不満足)とかいった感情が生み出されているのです 「あなたの思考はどうなっているのよ!」 と言ったときの「思考」は 「価値基準」のことなので 「出来事」(刺激・情報) → 「思考」 → 「結果」(感情) でもいいんじゃない? という反論があるかと思います そこで補足しておきます ≪上司に怒られたという出来事を どのように受け取るか = どう評価するのか≫は 事実についての価値判断(評価に関する判断)です 同様に、≪どっちが得で、どっちが損なのかを思考する≫ と言った場合の「思考」も、価値判断の思考になります しかし、≪数学の難題を思考する≫ と言った場合の「思考」は、真理(真偽)に関する判断になります つまり、「思考」には、価値判断に限らず 真偽(事実)の判断の場合もあるので 理論としてどうか を考えたとき 「出来事」(刺激・情報) → 「思考」 → 「結果」(感情) では、欠陥があると言わざるを得ません 花 (出来事) → 思考 (事実判断) → チューリップか 花 (出来事) → 思考 (価値判断) → うわ! 綺麗 両方の場合があるということです それから、SR理論というのは あらゆる生物の行動は 刺激 → 反応 で決定されるというものですが アルバート・エリスは 「動物ならそうかもしれないが 人間の反応はそんな単純な関係ではない」 として、ABC理論を打ち立てたということです 要は、刺激 → 反応 の間に、≪信念≫を差し入れたわけです しかし、エリスが言うレベルの ものごとに対する「受け止め方」や「感じ方」を ≪信念≫と定義するなら 猫にだってちゃんとありますよね(笑) 猫の多くは、知らない人には近づきません これは、猫が「価値基準」「信念」(エリスの定義における信念) において価値判断をして、近づかないのです ここまでで重要な点を補足しておきます ① 下の【】の中は、価値判断ではありません 「出来事」(刺激・情報) → 【価値基準】 → 「結果」(感情) 「価値基準」です ここ大事です 価値基準とは 「俺はA子さんよりもB子さんの方がタイプだ」 といったもので 脳の中にある自分の価値基準と 対象との関係において 「価値」というものは生じているのです ② 信念を価値基準にするのは飛躍では? そもそも感情自体が 価値判断の結果ですので、飛躍でもなんでもないです ここはもっと大事です ③ 英語を日本語に変えた時点で 意味が十分咀嚼されてない可能性もあるのでは? これに関してはどんな単語でも起こる可能性のある 普遍的な問題ですが≪Belief≫という言葉に関しては 日本語の「信念」とほぼ一致していると言えます Wiktionary(ウィクショナリー)より 幸福論1巻を英訳していただいた 山下俊幸さん (関東学院大学 人間環境学部 人間発達学科 定年後嘱託) にも聞いてみたところ 【 文脈によっては「信念」がそぐわない場合もあります 「確信」「強い思い」「意見」など意訳した方がよい場面もあります 若い女性が「It's my belief」と言った場面では 「私の信念」より「私はそう思うの!」くらいでよいでしょう 】 ということでした 「ABC理論」を、解説する目的においては 「確信」でも「強い思い」でも「信念」とさほど変わりません 「確信」とはこういうものです 宗教の信者に、教義的な矛盾を指摘していくと 反論できなくなった彼らは、必ずといっていいくらい 最後に「理屈ではありません 私たちには体験があるのです」 と返してきます 体験による「確信」があるというわけです 信念とは? ① 信念によってなされる価値判断なんてそうそうないですよ 例えば、創価学会の人なら 「大事な集会に行く」のと「会社で残業をする」のと どちらかを選択しなければならないときに 前者を選ぶという場合とか・・・・・ 信念という概念は「尊厳」に近いです 「尊厳論」を載せておきます 酔恭 人間に尊厳があるなら サルにだって猿権(えんけん)という尊厳があるだろうし 犬にだって犬権(けんけん)という尊厳があるだろう という話になる(笑) だって、猿にだって、犬にだって、すずめにだって 地球を分割する権利はあるはずだからね 竜太 なるほど(笑) でも、サルには尊厳はないと思うよ 生命として生まれてきた以上 動物にだってこの世界で快楽や平穏を得る権利はあるとは思う だけど動物が生命維持や子孫を残すことだけのために 毎日の時間を費やしているのに対して 人間はそれだけではなく、自分の生き方を持っているでしょ たとえそれが他者からの洗脳による無知に根ざしたものだったとしても 「信念」を持って生きることができる 誇りを持って生きることができる 仲間を守って死ぬとか、戦争に行って身代わりになって死ぬとか さらには拾ったお金交番にとどけるとか こういった行為は生命維持だけを考えるとじつに非合理だよ でもそこにこそ“尊厳の根源”があるんじゃないかと感じる 酔恭 確かに、動物は「いかに生きるべきか」が 種(種の保存)に任されているのに対し 人間の場合、個人(自己保存)に任されているような気もするね 竜太 実際には人間も種の保存の原理で存在していたとしても 信念や誇りを感じて生きることができるでしょ 尊厳という概念が生み出された根源に “人間は生き方を持っている 信念を持って生きることができる 誇りを持って生きることができる” ということがあるはずだよ “生き方を持っている 信念を持って生きることができる” というのは、意志の尊重と実行、つまり「自由」のことだね それに「自分の秩序」でもあるよ だから、尊厳(自分の秩序)を棄ててしまった人って怖いよね 酔恭 個人にしろ、社会にしろ、何に「尊厳」が置かれているか どこに「自尊心」が置かれているかが違うわけで それを見定めることが大切なんじゃないかな 例えば、自分の判らないことを質問されたとき 「答えられないのは恥だ」と思っている人もいれば 「いいかげんなことを答えるのは不親切であり、それこそ恥である」 と思っている人もいる 前者は案外多く、そういう人は、いいかげんなことを答えたり 「そんな質問をするな」と怒ったりするよね(笑) 竜太 それから 人間は、動物と違い尊厳を持っている 自分の生き方をもっている だけどそれだけに人間は、生きる意味を考えてしまう それが一番の不幸なのかもしれないよね 好きか嫌いかの価値判断の根底には何がありますか? 好き嫌いは、相手が自分にとって都合か不都合かとか 相手に対して自分が共感できるかできないかでおこりますよね とくに会社という組織では 相手が自分とって都合か不都合か また相手にとって自分が都合か不都合かが 人間関係の根幹をなしています 相手にとって自分が不都合なら いくら正しいことを言っても間違えとされてしまいます そこで生きていくため あるいは優位な立場を築くためには 正しいか正しくないかなど問題ではありません 相手に対して自分が都合か不都合かを 基準にしていくしかないのです 相手の考えに従うということは 自分の考えを押し殺すか 相手の考えに染まるかしかないということです ただ、相手の考えに染まることができるのは もともとたいした信念などない人です こういう人は相手の言うことをそのまま信じればいい つまり自分を押し殺す必要はありません こうした信念をもたない人が、上司になると なぜ自分の上司がそうしてきたのかとか そのルールにどのような意味があるのかとかを何も考えません ただマニュアルどおりにルールを守ること、守らせること それが、この人の正義となり、哲学となり、プライドとなり 尊厳となり、信念となり、いわば個性となるのです これに対してもともと信念がある人は 相手の考えに染まることはできません そこで自分を押し殺す必要が出てきます そこに、前者(信念のない人)と、後者(信念のある人)では 生きていくことの≪辛さ≫に大きな差が生じるのです もともとたいした信念なんかない人と ものごとの本質が見えている人では 同じように相手に従うにしても、≪生きていく辛さ≫が違うのです 自分の考えを押し殺すとは 意志や信念を捨てるのではないにしても それを他人にゆだねるのです ただ意志を捨てたわけではないので 自分に害が及んだときには意志を示せばよいのです 害がない限りは、むしろなめさせておけばいいのです 人は自分よりも頭のいい人間を警戒しますから 警戒させないためにもなめさせておけばよいのです そして社会で、自分が優位な立場に立ったとき 相手を都合不都合の好き嫌いで判断せず 相手の考えが、正しいか正しくないかを 基準に行動していけるかどうなのか? ということになります もし、人間に、質の高い人間と 質の低い人間というのがあるとするのならば また、個性に、質の高い個性と 質の低い個性というのがあるとするのならば そんなところにあるのではないでしょうか? 信念とは? ② そもそも、信念とはどのようなものなのでしょうか? 例えば、日本100名山なら趣味の範囲でできますが 200名山、300名山となると 一種の信念とか、使命感とか、陶酔感とか いったものがないとなかなか登れるものではありません 100が200に数が増えるというだけでなく 白山連峰の笈ヶ岳(おいずるがたけ)のような 登山道がない山とかも入っていたりします こうした山は、雪でヤブが埋まっている春先に登るしかありません 私は100名山の山頂ですべて展望を得ることと 日本200名山の完登を、楽しみの1つとしています 夏だと8時すぎにはガスが出て 展望が得られないなんてことはあたりまえにあります 完全な晴れでも、よほどのことがない限り 夏なら10時くらいにはガスは出です だから「100名山を登った」という人でも ふつう半分以上は展望を得ていないわけです そんなことから、私の山登りは、基本全てが「闇登山」です 夜中に登ります 夏なら5時半くらいには頂上に立てるように登山するのです 夏の富士山は、多くの人が夜に登りますよね 五合目まで車で行けるから そこから登って、頂上で御来光を見るのです 富士吉田の街から 懐中電灯の明かりがつらなるのが見えるくらいです また、日本アルプスでは 頂上から1時間くらい下の山小屋に泊まって 御来光を見に日の出前から山頂を目指す ということもよく行われています だけど、私のようにほとんど全部 下から闇登山している人っていないんじゃないですか? 少なくとも私自身はいまだ知らないですよ(笑) 300名山を登るだけなら 展望関係なく、ピークを落としていけばいいだけですが それでもやっている人って、いままで2人しか知りません 一人は、ある山小屋で泊まったき (たぶん北アルプスのどこか) 知らない人の会話、つれ同士の会話で聞きました 「〇〇さん、300名山登るって、 夜中まで、ラジオつけて(クマよけに) 山の中をかけずりまわっているよ」という話で聞いたのが一人です もう一人は、荒海山(南会津・300名山)の山頂に 無人小屋があって そこに置いてあった山小屋ノートの記述です ≪日本300名山の完登を目指す 会社経営者≫ といったような短い記述がありました 「確かこの記述、別の山小屋のノートでも みなかったっけ?」と思ったことを記憶しています おそらく50代後半か60代前半の人で 20年くらいも前の話なので 今、生きていたとしても、かなりお年を召されているかと思います このとき、雨の降り出しそうな天気なのに (下りは雨の中でした) よく展望がきいていて、とても感慨深いものを感じました 日本300名山 荒海山(あらかいさん・栃木と福島の県境。別名 太郎岳) から見る300名山 七ヶ岳(奥) 360度展望がききます 山頂までヤブ山で、展望が開けたところがなく 「こんな天気なので、なにも見れないかも・・・」と感じつつの登山だったこと 誰にも会うことのない静かな山だったこと からも、感慨はひとしおでした いずれにしても、信念や使命感というものは ≪自分の根拠の幸福≫の上に成り立つものです 信念とは? ③ 話を「ABC理論」に戻します 前述したミニカーの話なら ≪このミニカーは自分の人生において絶対必要である≫ といった価値基準におけるコトとも言えるので 【信念】と言えなくもないですが 心理学、また「ABC理論」で問題にしている 仕事で失敗して、上司に怒られた 同窓会で、友人が出世自慢をしてきた 彼女に、収入が低いことをなじられた ママ友に、子供のコトでマウントをとられた こういった「出来事」に対するとらえ方なんて 明らかに「信念」とは関係ないでしょ という話になりますよ(笑) 創価学会の人が 「大事な集会に行く」のと「会社で残業をする」のと どちらかを選択しなければならない出来事に対して 前者を選ぶ こうした価値判断における 価値基準には≪信念≫があります これに対し 仕事で失敗して、上司に怒られた こうした出来事に対する感情って「痛み」でしょ なんで痛みを感じるかは 人間の思考がそう (優越を求めるように)なっているからと言えます 優越を求めるのは ≪劣等を感じたくない≫ ≪存在価値を否定されたくない≫ の裏返しであって それ自体には「善」も「悪」ありません この痛みに対し、今の仕事を続けるか、続けないか そこにあるのは、今の仕事に対する価値=必要性の大きさです 今の仕事を ≪自分の人生にとって絶対必要なコト≫と考えているならば それは「信念」における必要性と言え 今の仕事を続けるか、続けないかの価値基準に信念がある と言えますが 必要性の大きさが小さいならば、そこに信念なんてありません なお、必要性をなんでもかんでも≪信念≫と言い張るなら 「目玉焼きにはソースが必要だ」というレベルでも≪信念≫と言い張れます それと、心理学的な話をすれば 人は「自分の意志で行動している」と思い込んでいますが そのほとんどが、潜在意識に支配されているといいます なので、人前で話をしようとすると緊張してしまう タバコやギャンブルをやめたいと思っていてもやめられない 痩せようと思っていても本気でダイエットに取り組めない 眠りたいのに眠れない といったことがおきているそうです 認知行動療法というのは 人前で話をしようとすると緊張してしまうというような 潜在意識にある心理的な傾向性を 「慣れ」によって克服させることを目的としています 潜在意識を、唯一コントロールしうる方法が ≪慣れること≫とされています 例えば、自動車の運転でも最初は緊張してしまい 運転するだけでやっとですが 慣れれば、運転しながら会話を楽しめるようになります さて、ここでよく考えてくださいね 人前で話をしようとすると緊張してしまう 女性であることを意識しすぎて上手に話せない こういったことって、その人にとって ≪人生において絶対必要なコト≫ あるいは ≪これだけは絶対に譲れないコト≫ つまり『信念』に 根ざしたものなんかではないでしょ という話になりますよ まとめると ① ≪痛み≫に対して 今の仕事をやめる・やめないが ≪信念≫によるものかどうかは 「今の仕事」に対する価値=必要性の大きさに依存する ② ≪上司におこられた≫という出来事に対する 個人の「痛み」の大きさの違いは、そもそも信念とは関係ない ということなのです 痛みに対する受け取り方、感じ方なんて そもそも信念じゃないでしょ ということなのです 結局、前述したとおり 出来事について、環境や状況と一体の自己が 自己の≪価値基準≫のもと、評価する( 価値を判断する)ことで 感情というものが生み出されているのです これなら、あらゆるケースにおいて通用します アルバート・エリスに対して言いたいのは 「もっと言葉を吟味して使ってくださいよ!」 (宗教じゃないのですから) ということなのです 「信念」なんてカッコいい言葉をむやみに使って 人間を言葉の世界にひきずり込む行為は 人間の思考のゆがみを取り除く行為とは、真逆じゃないですか と言っているわけです 心理学は、新しい学問ですが 「実学」 (社会生活に実際に役立つ学問 医学、経済学、法律学、工学など)の1つと言えるでしょう その意味において 哲学よりもずっと 「役に立つ」「ためになる」と言えるのかもしれませんが 基本、成功術、処世術、生活術・・・・ です つまり、手段の学問 です なので、より本質的、かつ理念的である 哲学の方が、ホントは何万倍も面白いのです!! なにが面白いかというと ≪思考が面白い≫ということであり ≪思考が面白い≫とはなにかというと 【思考の冒険ができる】ということなのです それに 「データは嘘をつかないが、嘘をつく人はデータを使う」 という名言がありますが 心理学というのは 基本、データを根拠に「あーだからこう」みたいな話が多いでしょ 最近では、有名な心理学の論文の多くに 再現性がないことが問題となり 学界全体をあげての対策が行われていると言います https://note.com/s1000s/n/na0dbd2e8632d 心理学・行動経済学等の著名な研究論文が次々に追試失敗【心理学】 かの有名な「スタンフォード監獄実験」は、やらせ疑惑さえ出ています ( スタンフォード大学で行われた心理学実験 ふつうの人も看守役・囚人役に選ばれると 看守・囚人らしく振る舞うようになる ) 逆に「ABC理論」の場合 心理学としてはめずらしく人為の入り込む余地のない 完全な理論なので、セクシーであり ダイナミックに考察できるわけです 感情論 アルバート・エリスは 心の専門家であるばかりではありません 最高峰の心理学者です にもかかわらず、分かっていませんね・・・・ なにが分かっていないのか? 「知覚」と「感情」の違いが全く分かっていないのです 動物の場合は 刺激(Stimulation) → 反応(Reaction) だけど 人間の場合は違う こんな単純な刺激と反応ではない (・_・?) 刺激(Stimulation) → 価値基準(Value standard) → 反応(Reaction) これは「感情」の判断です ( 価値の判断には、理性や知性、また意志による場合もあるが 多くは感情による判断です ) 刺激(Stimulation) → 反応(Reaction) こっちは「知覚」の判断じゃないですか!! そもそも 「出来事」(刺激・情報) → 「信念」 → 「結果」(感情) ではなく 「出来事」(刺激・情報) → 「価値基準」 → 「結果」(感情) が正しい のですから わざわざ、「価値基準」 なんて書く必要もないでしょ(笑) なぜなら、感情の判断というのは 知覚した事実(出来事)に対する 評価の判断(価値判断)に他ならず 価値判断するのに、価値基準があるのはあたりまえだからです つまり、知覚についての過程ばかりでなく 感情の過程においても「SR理論」で十分です 動物、人間 云々 関係ありませんよ 正直、アタマ悪すぎだな・・・・ 「感情論」を載せておきます 竜太 感情を辞書で引くと ≪「快い」「美しい」「感じが悪い」などというような 主体が状況や対象に対する態度あるいは価値づけをする心的過程≫ (広辞苑) ≪ある状態や対象に対する主観的な価値づけ 「美しい」「感じが悪い」など対象に関するものと 「快い」「不満だ」など、主体自身に関するものがある≫ (三省堂 大辞林) とあるよ 酔恭 感情って喜怒哀楽ばかりでなく、苛立ち、狼狽、困惑、動揺、驚き 苦悶、苦悩、不安、心配、落胆、不幸、絶望、失望、嫌悪、憎悪、敗北感 屈辱感、敵意、悪意 、拒絶 、反感、驕慢、憤慨、葛藤 孤独感、疎外感、寂しさ、罪悪感、羞恥、優越、劣等、軽蔑、侮蔑、恐怖 不機嫌、可哀想、感傷、嫉妬、不愉快、辛い、ホームシック、衝撃、悲痛、悲哀 面白い、つまらない、気が休まる、気が滅入る、癒される、安心、幸福、優しさ 思いやり、満足、希望、好き、憧れ、 愛、同情、共感、哀れみ… たくさんあるよね ≪嬉しい≫と≪楽しい≫では 似ているような心の状態を表すけど、少し違いがある 竜太 そのように心の状態にちょっとずつでも違いがあるからこそ 色々な言葉があるのだろうけど、でも基本的には3つしかないと思うよ 酔恭 3つ? 竜太 感情とは、1種の防衛手段で 自分にとって「是」か、「非」か 「どっちでもない」か の3つしかないってことだよ つまり、刺激に対して、自分が「是」のとき、安心なときに 楽しいとか、嬉しいとか、おもしろいなどといった感情が起こる 「非」のとき、危険があるときに、苦しい、怖い ムカつくなどといった感情が生まれる また、どっちでもないとき・なにもないときには 無感情であったり、平常心であったりするのではないかと思う 無感情は、どちらかといえば「是」の感情に入る だから、さらに言うと "感情とは、刺激(情報)に対する「是」か「非」の反応でしかない" ということになる 酔恭 なるほど・・・・ 脳が、自分の生命に危険があると感じると ムカつくなどの感情を発動させたりしているわけだね 竜太 感情が"基本的には3つしかない" "刺激(情報)に対する「是」と「非」の反応でしかない" となると 我々が思っているような感情とは全く違うよね 我々が思っているような感情は 感覚(知覚)を前提として考えているものだと思うよ 酔恭 どういうこと? 熱いとか、冷たいとか、美しいとか、硬いとか うるさいとか そういったものが「知覚」だな 竜太 そういった「知覚」と 「感情」とをごちゃまぜに考えているから 誰1人その誤りに気づかない 心理学という分野ができても 結局、感情について解き切れないでいる と思う 「寒い」(知覚)と、「やだなぁ」(感情) 「うるさい」(知覚)と、「頭くる」(感情) が同時に起きていることから ごちゃまぜに考えてしまうのかもしれない 酔恭 なるほど・・・・ 「寒い」とか「暑い」なんかは はっきり知覚だと分るからまだいいけど 可愛いとか、美しいとか、美味しいとかなんて 知覚か感情かよく分らない 竜太 「可愛い」「美しい」「美味しい」は 基本的には、知覚なんだけど これを感情だと勘違いしてしまうわけだよ 「知覚」とは、五感を通じて得た情報をもとに脳が行う 「このものは何であるか」「これはどのようなものであるか」 という真理の判断 (但し、知覚されたものは あくまで個人の事実であって、真理とは限らない) これに対して感情は「可愛い」「美しい」「美味しい」 という知覚に対する「是」「非」という価値判断ということになるよ 酔恭 知覚が「認識」の手段なのに対し 感情は「価値判断」の結果ってことだな 竜太 そうだね 「可愛い」「美味しい」が いつも「是」となるとは限らないよね 「あの子、私よりも可愛いなぁ くやしい(T_T)」とか 「このラーメン、うちの店よりうまい やばい」とか 「非」の場合もある 酔恭 広辞苑と大辞林は「美しい」や「感じが悪い」を 感情の例としてあげてるけど「感じが悪い」も知覚と言えるね 「感じが悪い」がいつも「非」であるわけではない 「あの人感じ悪いわ (よしよし) この面接、私の方がだんぜん有利 (やった!!)」 となることもある 竜太 人はなにごとにも反応を起こすよね 影で悪口を言われたら不安になったりと この「反応」こそがネックで、この「反応」こそが「感情」だと思うよ しかも人間には「知能」がある だから、たくさんの反応(感情)が起きるんじゃないかな それから、子供のときからの経験や遺伝的な要素によって その人個人の刺激から反応(感情)へと移る過程ができているんだと思うよ 弱者(刺激)→ 哀れむ(反応)を 「愛」という言葉で表現している場合、その「愛」は、感情としての「愛」だね ただ「愛する」とか「信じる」は、じつは感情ではなく「意志」だと思う 意志とは、欲求に近いものだよ なぜなら、相手を愛するのも こっちを好きになってほしいという欲求があったり 信じるって「そうであってほしい」とか 「そうなってほしい」とかいうものだからだよ なので、≪相手の未来を信じる≫という「愛」は 意志的な愛と言えるよね それから単に人が「愛」と言った場合 「愛」という抽象的なもの(空間に位置を持たないもの)を イメージすることによって「是」の感情が生じているときで その「愛」自体は、感情ではなく「想像」(刺激の1種)だと思うね 以上のように 知覚・認識とは、情報に対する「真理」(事実)の判断 感情とは、認識に対する「価値」(評価)の判断 であるということです 「美しい」や「可愛い」や「美味しい」などは どちらの場合もあるので、注意が必要です アリストテレスさんの動画 【人間が笑う理由】ボケつつ進化論を元に面白く解説(心理学) より https://www.youtube.com/watch?v=6APuVedNVQI&t=624s 要するに、心理学では 感情は「生存」に関するものと「繁殖」に関するものに 大別できると考えるようです 確かに、我々の生命活動の基礎に 生存や繁殖の「原欲求」があるのですから こじつけようと思えば、知覚も、認識も、感情も、思考も 行動も、生活も、社会も、文化も、文明も ・・・・ なんでもかんでも そこにもっていけますが しかしそれでは、身もフタもないじゃないですか(笑) 感情とは、おおざっぱに言うと ≪五感を通して得る心の満足(不満足)≫という「価値」(反価値)です 遊んで → 楽しい 食べて → 美味しい 聴いて → 心地よい などといったものです 究極的には「生存」と「繁殖」に関するものに分けられる と言ったって 人間にとって 暇というのは、お腹が減っているのと同じくらい辛いのですよ そこで私たちは暇をうめるために 多種多様な文化(暇つぶし)を楽しむのです 「恐怖」は、本来、動物としての本能では避けます ところが、暇つぶしに ジェットコースターやホラー映画 バンジージャンプなんかを楽しむ文化までが生まれたわけです
心理学のゆがみを正す 西洋哲学が「幼稚」なのは いまだに、価値と真理をごっちゃに語るからです キリスト教なら 唯一絶対神が6日間で宇宙の全てを創造したとか マリアが処女のままイエスを産んだとか 悪魔はもともと天上界にいた天使で イエスの試練に耐えきれず地上に落とされた堕天使である などといった真理があります しかしこのような真理は ある時代における 個人や特定の集団・社会に存在する必要性であり ホントは「価値」なのです では、真理とはなにか? ここに水の入っているコップがあったとします このコップの中身を「水である」と言えば真理だし 「火である」といえば虚偽です ただそれだけのことなのです キリスト教の「神」も パルメニデスの「ある」も、プラトンの「イデア」も 日蓮の「南無妙法蓮華経」も 事物を成り立たせている根源的な原理 宇宙の根本原理ですが こうしたものは、ホントは真理ではなく、価値なのです アルバート・エリスの 【 動物の場合は 刺激(Stimulation) → 反応(Reaction) だけど 人間の場合は違う こんな単純な刺激と反応の関係ではない 】という思考にしても 知覚も感情もごっちゃで 【 感情は「生存」と「繁殖」に大別できる 】という考えにしても 根本的には一緒です 要するに、 知覚・認識とは、情報に対する「真理」(事実)の判断 感情とは、認識に対する「価値」(評価)の判断 であるということが分かっていないのです 「真理」と「価値」の違いが分かっていないのです アルバート・エリスの ≪思考のゆがみを取り除く認知療法≫を 「論理療法」というそうですが いまこうして、緋山が彼の≪思考のゆがみ≫を正したということは すべての心理学者の≪思考のゆがみ≫を正したということですよ これは「真理」においてのゆがみです これに対して、エリスは「論理」と言いましたが 彼が問題にしたのは 人生や生命全体を物差しとして考えたときの 『必要性』においてのゆがみです つまり「価値」レベルにおいての 思考のゆがみにすぎないということです どういうことかというと 価値を、大別すると ≪五感を通して得る心の満足≫と ≪自分(また社会)にとって必要なモノやコト≫になります 価値に2種類あるというよりは 価値という言葉が、おおむね2つの違った「概念」において 使われているということです ≪五感を通して得る心の満足≫は 「感情」そのものと言えます 美味しいとか、楽しいとか 美しいとか、いやされるとか 心地よいとか いうものです 簡単にいうと【好き嫌い】です ≪自分にとって必要なモノやコト≫の場合 「目玉焼きはケチャップに限る」 (=ケチャップが必要) のように 一時的または限定的に発生するものもありますが 多くの場合、問題とするのは 仕事や結婚など 人生あるいは生命全体に関わるものです 人生あるいは生命全体を物差しとして考えたときに発生する 【損得】また【利害】という価値です この価値は感情よりも 理性や知性において判断がなされることが多いです また、拾ったお金を交番に届ける お年寄りに席を譲る などといった 【善】を行うときの価値判断は、意志によることが多いです 生命全体の例を1つあげておきます 山で遭難した人にとっては ダイヤモンドよりも水に価値がある(必要である) アイスが美味しい(好)から、食べすぎてしまい お腹を壊した(害) ぐらいなら、たいした問題ではありませんが 仕事や結婚などといった人生にかかわる重大事に 好き嫌いだけにとらわれて 利害や損得を忘れるわけにはいきません 仕事であるなら むろん、やりがいがあり(好)、高収入で(利) 社会のためになる(善)というのが理想なわけですが なかなかそうはいかないない そんな状況において、様々な心の問題がおきてくる そうした価値に関する心の問題に応えるのが、心理学なのです ちなみに、価値とは、幸福の内容や対象です ≪五感を通して得る心の満足≫ → 幸福の内容 ≪自分(また社会)にとって必要なモノやコト≫ → 幸福の対象 真理と価値との違いは ① 価値には、絶対性がない 例えば、ある絵を「美しい」と感じても、もっと美しい絵を見たら 前の絵ぱそんなにたいしたことないと感じる ② 真理は創造できないが、価値は創造できる ということです 悟りとはなに? https://kachitetu.sakura.ne.jp/satori.html 「認知のゆがみ」を調べると 単純に、≪物事のとらえ方にゆがみが生じている状態≫ をいうようです 例えば、人からアドバイスをうけたとき 人はそれぞれ自分のフィルターを通して 「そんなわけないじゃん」と思ったり 「なるほど、そういう考えもあるのか」と思ったりします 「認知のゆがみ」とは このフィルターのゆがみのことです 但し、これは、損を嫌い、得を好むという我々の生活 = 価値生活 のレベルにおいての「認知のゆがみ」です これに関してはなんども言っていますが 間違ってもらうと困るのでここでも書いておくと 私(緋山)は、他人の生き方や価値観(好みや必要性)に関して とやかく言えるほど立派な人間ではないですから (笑) 他人の人生に説教たれたりできるほど えらい人間でも、優れた人間ではないということです 緋山の価値観・倫理観のゆがみならば ブラックホール状態(時空がぐしゃぐしゃ = ゆがみきった状態)なので 「ほっといてくれ」という話なのです (笑) このサイトにおいて、緋山が問題にしているのは すべて「学術的な認知のゆがみ」「真理における認知のゆがみ」です なお、価値生活を送る上でのフィルターが「価値基準」です ABC理論まとめ ≪出来事を正しく捉えて 正しい感情に導くのがABC理論である≫ この主張の【出来事を正しく捉えて】が 価値判断にあたります ≪上司に怒られたという出来事を どのように受け取るか = どう評価するのか≫は 事実についての価値判断(評価に関する判断)です その価値判断の結果が「感情」です 例えば、自分はダメだ (非の感情) 自分は期待されているんだなぁ (是の感情) https://www.softbankatwork.co.jp/column/counselor/ 2020/08/06/3046/ SBアットワーク株式会社 より これに対し 「仕事をやめたい」は、感情ではなく、≪欲求≫です 「仕事をがんばろう」は、≪意志≫です 意志というのは欲求に近いです 「仕事をがんばろう」というのは 「仕事がんばって給料を増やしたい」とか 「仕事がんばって周囲から認められたい」とか いうのと同じだからです 価値観は「人それぞれ」なのに その≪ゆがみを正す≫というのはどういうことなのでしょうか? 価値においての「正しい」は 好みや必要性においての「正しい」ということです なので、仕事でいうなら ≪仕事≫という必要性(価値)において 「間違った価値基準」によって生じているゆがみを正す ということなのです 患者のゆがみ正すときの「正しい価値基準」となるのが 統計によって与えられた『答え』(事実・法則性)です この価値基準(およそ万人に通じる答え)をもとに 仕事という必要性において、正しい感情というか思考に導く これが、ABC理論であり、認知行動療法ということです 最後に、もっとも重要なコトを明かします ① 出来事(仕事で怒られた) → 「価値基準」(仕事で怒られることへの反応) → 自分はダメだ (大きな痛み・非の感情) これは、 遊んで → 楽しい 食べて → 美味しい 聴いて → 心地よい などといったものと一緒です ≪五感を通して得る心の満足(不満足)≫という「価値」(反価値)で 価値判断がそのまま【感情】(感情判断)となるものです この場合、聴覚や視覚を通して受け取る 情報・刺激(仕事で怒られた) → 恐怖、不安、反感、憎しみ などといった感情 です ② 事実(大きな痛み) → 「価値基準」 (今の仕事に対する必要性) → やめる・やめない こちらは、【理性】による「必要性」の判断で ≪損得≫ ≪利害≫の価値判断です 以上のように じつは「ABC理論」というのは 1つの価値判断でなく ①と②の2つの違った価値判断からなっているのです ①は、仕事で怒られることにショックを受けやすい自分が 仕事で怒られたという出来事に対して 価値判断 = 感情判断 をした ということであり 判断の結果が、「自分はダメだ」という非の感情(痛み)です ②は、痛みと一体の自分が「今の仕事」に対し 「それでも必要なのか?」という理性的な価値判断をした ということであり 判断の結果が、「やめる」また「やめないでがんばる」 という意志であり行動です 「SR理論」が1つの判断であるのに対して 「ABC理論」というのは2つの判断なのです しかも2つの判断における「価値基準」は違うのです これが、アルバート・エリスの最大の勘違いであり 「ABC理論」最大のトリックでもあるのです しかし、さらに「ABC理論」および 「ABCDE理論」には根本的な誤りがあります これについては、のちに明らかにします なお、前述したように 「ABC理論」は「ABCDE理論」ともいいます 「信念・思考」が出した ≪自分はダメだ≫ (認知) → 「反論」(Disput) → ≪自分は期待されている≫ → 「効果」(Effect) ということです これを正しく述べると ①の価値判断の結果である ≪自分はダメだ≫(大きな痛み) に「反論」(Disput)」し 「小さな痛み」 さらには ≪自分は期待されている≫(是の感情) に変える = 「効果」(Effect) これによって ②の価値判断の結果である ≪仕事を続けられない・やめたい≫をも変えていく これが、認知行動療法の正しい図式です 心理療法 (おまけ) 心理療法には、流派が色々あって 流派によって様々なようですが 認知行動療法以外、基本は 抑圧された現実を受け入れれば、葛藤がなくなり 不安がなくなるということから 「精神分析」により 抑圧された記憶を意識化することが、中心だといいます とくに、フロイト派は 無意識層へ抑圧されている感情や記憶が 神経症などを引き起こすと考える立場から 抑圧された記憶を意識化し 真実の歴史を紡ぎ上げるという作業が重視されるそうです 具体的には、患者の心の奥にある抑圧された記憶は 夢や自由連想のなかに象徴的に表れるので それを心理療法家が解釈することで 次第にその内容を明らかにしていくとされます 【 自由連想・・・・ フロイトが考案したもので 患者をソファなどに寝かせ 余計な言葉をはさまず ひたすら患者のつぶやき(連想)に耳を傾けることで 無意識にある抑圧された記憶や感情を吐き出させる治療法 患者に抵抗が生じ、連想が難しくなるので 分析医はその抵抗を足がかりに解釈を行うという 】 ユングは、心の深層に、神話的な創造力があると考え フロイトと決別した人なので ユング派は、神話的な創造力がうまく作動しないことから 様々な問題が起こると考えるようです そこで、無意識層に具わる創造性を発現させ 人生を創造的に生きていけるようにさせていく ことが中心だといいます フロイト派が「解釈」を重視するのに対し ほとんど解釈せず、来談者自身が夢や自由連想について 自己洞察していくようにするといいます 信頼関係から恋愛感情に発展する現象を 「感情転移」というそうです また、好きになる転移を「陽性の感情転移」 嫌いになる転移を「陰性の感情転移」というそうです この転移は非常に強力で、いったん情が移ると 意識レベルではどうにもならなくなるといいます 確かに拾ってきた犬や猫に 情が移ってしまうとどうしようもなくなりますよね ≪転移≫という現象を、臨床の現場で 最初に発見し発表したのはフロイトだとされ フロイトは患者とコミュニケーションを重ねてゆくうちに 患者の不安定な心が自分に乗り移ってくるかのような感覚に陥り 転移を発見したそうです これは心理学の歴史上偉大な発見だとされています 患者の女性が、信頼していた医者に対し恋をする(転移) その医者は「医師とは最も神聖な職業である」なんて言っていても 無意識の力にはあがらえず、彼女を好きになってしまう(逆転移) なので、フロイトは「医者はその転移から逃れるという方法を 採用しなくてはいけない」と言ったそうです これに対し、ユングは「転移」をむしろ肯定的にとらえ 「患者は医者を信用して心を開くのであり、転移なしには 患者から情報を得られず、操作もでない」と主張したといいます アドラー派の心理学では あらゆる悩みや苦しみは、すべて対人関係上の問題であるとし 共同体感覚(共同体=社会に貢献することで得られる満足感) を重視するといいます カール・ロジャース〔1902~87・アメリカの心理学者。心理療法家〕は 「来談者中心カウンセリング」というのを創始した人で 今日のカウンセリングや心理療法に もっとも強い影響を与えた人物とされています 彼は、来談者との会話から 「来談者は、自分自身、どこに問題があるのか知っている」→ 「人間にはもともと自分で問題を解決する力がある」→ 「心理療法家はその力が発現できるようにしむけていけばいい」 と確信したといいます なので、ロジャース派では 来談者に対し「受容」「共感」「尊重」という態度で接し たとえ幻覚や幻聴であっても 来談者の体験を、全て現実として受け入れるといいます これによって、来談者には「自分を理解してもらえた」 「わかってもらえた」という感情が生まれ それが心の支えなって、自分で問題を解決していくというものです なお、心理学とは、心を研究する学問である と思われがちですが むしろ行動を研究する学問という方が近いといいます 例えば、「Aさんは、優しい人である」といっても その心を直接観察できるわけでなく Aさんの行動を観察して判断するしかないからです 「認知行動療法」というのは もともと反目しあっていた「行動心理学」 〔人間の内面的部分は、不確実で客観性に乏しいとし 外に表れる行動だけを研究する心理学〕と 「認知心理学」〔人間の内面的な部分を研究する心理学〕が 歩みよって生まれた心理療法で 現在では、行動療法と言えば、ふつう認知行動療法をさすそうです コンビニでは、客はどのような動きをするのか → どのような法則で商品を選べるとよいのか といったことから、商品の配置を決めます これは「行動心理学」にもとづきます 認知行動療法は 「恐れ」や「不安」の原因となっている 無意識にある抑圧された記憶については全く触れません 脳のコントロールだけを目的とするといいます 例えば、スピーチ恐怖症を 人前で話しをさせること=慣れること によって つまり、スピーチに対する意識を 潜在意識に落とし込んでしまうこと によって 克服させていくというものです 認知行動療法の場合 日常生活が不自由なく送れるようにすることが目的なので 人前である程度話せるようになれば 多少、恐怖感が残っていたとしても、治療は終了するといいます もちろん、いきなり慣れさせるというのではなく まず、どんな場面で恐怖を感じるかを分析し 恐怖度の低いレベルでの イメージ・トレーニングから入り 徐々にレベルを上げて行き それから実際の場面での会話に移るそうです おもしろいのが 思考を「うまくしゃべれなかったらどうしよう」から 「会話することに、恐怖感を持つのは、無意味で不合理だ」 といったところにまで作り変えてしまうそうです 「帰納法のパラドックス」というのがあります 帰納法とは、A社製のテレビが壊れた デジカメが壊れた パソコンが壊れた だから「A社製は全て壊れやすい」 というような結論のみちびき方をいいます これに対し演繹(えんえき)法は、前提を認めるなら 結論もまた必然的に認めざるを得ないという推理方式です A社の製品は全て壊れやすい だから「A社製のプリンタは壊れやすい」というのが演繹法です Aという豚は、Bという人から毎日餌をもらって、餌を食べるたびに 「Bさんは人間たちの中で最も親切な人だ」と信じるようになる 経験に基づく帰納法的な思考とは、こういうもので 餌を食べる回数が増えるほど、つまり経験値が増していくほど 確信が深まっていき、安心の最大値が 悲劇の最大値を示すというパラドックス(逆説)です 経験したからと 胸を張っている人の間違えを指摘したパラドックスでもあり 未来の予測は不可能であることを示すパラドックスでもあります 心そのものは見えないけど、心は行為にあらわれます ジュースを飲みたいという心理があってジュースを飲むというように・・・ そこで人の全ての行為には意味があると考え そこから心というものを知ろうとしたのが心理学です ただ、人の心って すべて行為や行動にあらわれるのでしょうか? 結婚する前は、優しかった人が 結婚したらとたんに、いちいち束縛してきて 暴力までふるうようになったなんてことはよくあります これも帰納法的な思考からの失敗です 心理学最大の理論「ABC理論」の間違え ② 自由意志について リベット実験の勘違い なぜ「自由意志は存在しない」と 科学者は主張するのか? 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