科学者が≪自由意志は存在しない≫と主張する「リベット」実験の勘違い



心と存在


「心理学」「脳科学」の嘘を暴く!!



 



自由意志について

リベット実験の勘違い


なぜ「自由意志は存在しない」と

科学者は主張するのか?




決定論と運命論



1983年、アメリカの生理学者である

ベンジャミン・リベット(1916~ 2007)は

人間には、≪自由意志は存在しない≫ということを

科学(生理学)的に証明したとされています








アリストテレスさんの動画

https://www.youtube.com/watch?v=_NIgdJWx_Ns


【自由意志】人間に自由意志はあるのか?

驚愕の真実(脳科学) ~リベットの実験~


(ちなみに姪が有料会員となっています とても分かりやすい)




「決定論」は、全ての出来事は

その原因となる出来事にによって決定されている

という立場 (ラプラスの悪魔など)



「運命論」は、全ての出来事は

神のような超越的な存在によって決められている

人間の意志とは関係なく決められているという立場であり


人間の「自由意志」について論争するものです




キリスト教では

ルターやカルヴァンのように

全く人間の自由意志を否定する立場と


一部、自由意志をみとめて

あとは、神の恩寵であるとする立場(カトリック)が

ずっと論争してきました




キリスト教では、仏教でいうところの「善行」を

≪功績≫といいます


カトリックにおいては、功績は、神の救いを受ける助けになる

助因になるとされています


宗教改革当時は、免罪符を買うことも、功績とされていました



これ対して、ルター(1483~1546・ドイツの宗教改革者

プロテスタンティズムの確立者)は、人間の努力(功績)によって


神に義される(正しい人間と認められ救済される)ことはない

信仰によってのみ義されるとし

人間の自由意思を否定したのです



これが、プロテスタント3原則の1つ「信仰義認」です




カルヴァン(1509~64)は、ルターの考えをさらに進めて

有名な「カルヴァンの二重予定論」を唱えています


人間は努力(善行)によって救われることはない


いくら善行を重ねても救われることとは関係ない

人間の救いは神の無差別の選択によって決まっている


神の意志によって救われる者と救われない者とが

あらかじめ定められる というものです







リベット実験



ベンジャミン・リベットは

被験者に、筋電計を腕に、脳波計を頭に接続し

自分が好きなときに、手首を曲げてもらうと実験をします






アリストテレスさんの動画より



時計のような装置を設け

被験者に、自分が「手首を曲げよう」( = 意志の発生)

と思った正確な時間を報告してもらいました


その結果「手首を曲げよう」と思う前に

脳波が発生していることが分かったというものです



これが、≪人間に意志はない≫と解釈されたのです




リベットは

【 ある動作をしようとする「意識的な意思決定」よりも前に

「準備電位」という無意識的な電気信号が現れるのを

この実験で確認した 】と主張します



要は、脳内で「意識的な決定」を示す

シグナル(電気信号)が現れる前に


「準備電位」(運動準備電位)という無意識的な

パルス(急激な変化を示す単発、短時間の電気信号)が

立ち上がっている というわけです




≪リベット実験≫は、大論争を巻き起こし

数々の研究がなされてきましたが

現在まで否定できる根拠(実験結果)は見つかっておらず


科学の世界では

≪人間に「自由意志」は存在しない


脳内の無意識的な決定が、

「自分の意志」として意識に上るのである≫


という考えが、定説というか常識になっているようです




最近の研究によると

平均的に、我々が「動作」が始める0.2秒前には

「こうしよう」という「意識的な決定」を示す

シグナルが現れるそうですが



そのさらに0.35秒前には

それを促す無意識的な「準備電位」が立ち現れる =

脳により動作の決断がなされている そうです




つまり

無意識的なパルス(電気信号) →

意識的な決定のシグナル(電気信号) → 動作

ということなのですが


ネットで調べるとなかには

無意識的なパルス(電気信号) → 動作 →

意識的な決定のシグナル(電気信号)

と錯覚されるような書き方をしているものもあります




例えば 【 車で走っていて、子供が飛び出してきたとする

ブレーキを踏むまでを、0.15秒ほどで行うことができる


私たち「ブレーキを踏む」という意思決定があり

その意思決定に基づいて「ブレーキを踏む」という動作を行っている

と考えがちだが


実際には、あとから遅れて自分の動作に気づくのである 】



本来、意識の発生は

≪無意識的なパルスのあとから≫なのに


この話だと

≪動作のあとから≫と錯覚させられます




無意識的なパルス(電気信号) →

意識的な決定のシグナル(電気信号) → 動作


無意識的なパルス(電気信号) → 動作 →

意識的な決定のシグナル(電気信号)


この2つはめちゃくちゃ違いますから要注意です



≪あとから遅れて自分の動作に気づく≫

こうした言葉に、だまされないようにしなくてはいけません




それから今では、この≪リベット実験≫を根拠に

「意志の仮想世界仮説」とかいった

デタラメを言って、メシを食べている学者もいます







タイム-オン理論



話を戻します


リベットによると

【 無意識的な電気パルスが生じ

これが0.35秒 (0.5秒とする資料もある) 続くと

パルスの刺激に対して「意識」が生じる


このとき、パルスの刺激は

大脳皮質に電気反応があった時刻 (= 意識が生じた時刻) を


無意識的なパルスが生じた時刻に前戻している =

感覚経験の主観的な時間を遡及(そきゅう)している 】

というのです






https://yosuga.labore.jp/

泊まれる図書館 寄処(よすが)さんより転写





彼は、この理論を

これを「タイム-オン理論」(持続時間理論)と呼んでいます



無意識的な電気パルスが生じてから

意識の電気シグナルが生じるまで0.35秒ありますが


この0.35秒が

意識において、前戻しされているというわけです



そこからリベットの実験は

我々が「今を生きている」という信念を揺るがせる

とか言っている人もいます



ただ、こうした≪時間の遅れ≫はどうとでも言えますよ(笑)



例をあげると 【 視神経が、外界からの情報(形・色・動き)を

電気信号に変換して脳へと伝える


脳では、電気信号から得るバラバラな情報を組み立てる

これによって外界が構築される=認識


例えば、人間の眼の水晶体は凸レンズですから

網膜に映る像は、実際には倒立像(さかさまの像)なのです


脳がその情報を受けて、正立(せいりつ)像へ変換しているのです 】


という話を根拠に

無意識が情報を組み立た時刻と

それが「〇〇が見える」という意識になって現れる時刻には

時間差がある

なので「我々は今を生きていない」と言えます




また 【 目で見ているものは全て、光の反射です


だから今こうして見ている世界とは、厳密には一瞬過去の世界です


例えば、≪私が、今 あなたを見ている≫というのは

実際にはあなたに反射した蛍光灯の光を見ている

ということです


光の反射が自分に届くのに1秒なら、1秒前のあなたを

光の反射が自分に届くのに1年なら、1年前のあなたを

見ていることになります


だから、地球で〇億光年先にある星を見ている

と言っても、その星はすでに消滅している こともあるのです 】



これを根拠に ≪ 目の前にいるあなたと

100m先にあるビルとでは、ビルの方が過去に存在する

我々の「今」にはたくさんの過去が存在する ≫

ということが言えるわけです



とはいえ

「タイム-オン理論」自体は、間違えではありません


あたりまえすぎて≪バカバカしい≫というものなのです


こうした≪時間の遅れ≫は

そもそも「主観的な時間」でも「客観的な時間」でもありません


単に≪到着時間がある分、時間がかかる≫というだけです





タイム-オン理論についても様々に論じられてきましたが


どの論者も「時間」という存在自体の理解がないまま

自説を展開しているだけなので、根本的な指摘ができていません


みな、どこが正しく、どこが間違えであるかが

まったく分かっていないのです




無意識的な電気パルスが生じる場所を「大阪駅」に

意識的な電気シグナルが生じる場所を「東京駅」に譬えます


大阪 → 東京 まで

ひかり号は、0.35秒で到着します


「大阪駅」で組み立てられた≪動作への衝動≫が

ひかり号によって、0.35秒後の今、「東京駅」に到着し


今という時刻において

実際の(意識としての) ≪動作への衝動≫になっている

というのが「タイム-オン理論」です



ではなにがおかしいのでしょうか?


≪私は、今、過去のあなたを見ている≫だけなのに

≪私が、過去に前戻しされて、 あなたを見ている≫

という訳の分からない話にすり替えられているということです





陽天さんが、一般相対性理論の根本的な誤りを明らかにした

この言葉を載せておきましょう



≪ 過去とは「過去の星の光が、現在に届いた」の

「過去」とはちゃうで

これは到着時間の差を考慮した場合に語られる過去や



光をひかり号に譬えると

過去に大阪駅を出発したひかり号が、今、東京駅に到着したからといって


過去の大阪駅と現在の東京駅で交信できるなんてことやない


だから、未来の展望台の人とはラインできん


展望台やなくても、現在の1階の人と

未来の2階の人とでもラインできん


つまり【時刻の違う物体は同じ空間には存在できん】のや


でも、2階の人とラインができるし

富士山の頂上にいる人とでもラインできる


これは【同じ時刻を共有している】からや ≫




一般相対というのは、重力によって時空がゆがむ

時空がゆがんだ分、光の進路もゆがんだり、曲がられたりする


例えば、A地点→B地点の光の進路がゆがむと

光はその分、長い距離を進むことになり、その分、時間がかかる

= 時間の遅れ という理屈なのです



なぜ、光の到着時間が長くなると

我々の世界を成り立たせている「時間」が遅れるのでしょうか?



まず、 人類は、なぜ、太陽や月の動きから

年、月、日、時刻といった「時間」「時計」を

つくることができるのでしょうか?


太陽や月の運動に、規則性があるからですよね



光は、誰がどのような状態で観測しても一定である

光は、なにものにも左右されない

ということですから


アインシュタインに言わせると

時間を考えるのに、最もふさわしい存在ということなのです




一般相対というのは、前述したように

重力が大きいほど、時間が遅れるわけですから


宇宙空間に対して、地球の方が≪時間が遅れる≫とされています



2020年には、東大と理化学研究所のチームが

スカイツリーの地上階と展望階に

光格子時計(ひかりこうしどけい)という

めちゃくちゃ精度の高い原子時計置いて実験し


≪一般相対の「時間の遅れ」を検証できた≫と嘘八百を並べています



アインシュタインの≪時間の遅れ≫とは

【時刻を刻む速度が遅れる】ということです


そうなると

地上階よりも、展望階の方が「未来」にあることになりますよ!!



あなたは、未来の人と交信できますか? という話になる

ということです



アインシュタインは、ホントに馬と鹿なのです (笑)





話を戻します


なお、無意識的な電気パルスが生じてから

意識の電気シグナルが生じるまで0..35秒

(資料によっては0.5秒)あるわけですが



リベット自身は

≪無意識で決定されてから意識が生じるまでに

無意識の決定を拒否できる 

行為を直前で中止することはできる≫として


そこに「自由意志」の余地を見い出すことで

自由意志の存在を擁護したとされます



つまり、≪意識は、自由意志プロセスを起動しないものの

自由意志によって

無意識で決定された行為を直前で中止することはできる≫

ということです







随伴現象説と性質二元論



さて、ここから、リベットのトリックを明かして行きます



現在、主流の哲学である

≪心の哲学≫においては


「随伴現象説」(心的なものは

物質的なものに完全に付随して生まれている)


「性質二元論」(物理的実体と精神的実体は根本的には一緒)

というのが代表的な考えです




≪心の哲学≫というのは

心(意識・意思)を、脳という物質原理と切り離したい

という動機があります



ぶっちゃけた言い方をすると

心と脳が一緒だと困るのです



【 ちなみに、逆にこの主流派の考えに対し

今の物理学では、心を脳に還元できないだけだ

という考えもあり、この代表がダニエル・デネット

(1942~・アメリカの哲学者。心の哲学が専門)です 】




心と脳が一緒だとなぜ困るかと言うと

「唯物論」と同じになってしまうからです



学者というのは、新しい学問をこしらえ

インパクトのあるようなことを言って

目立つことで、身を立てて生きているわけですから


「唯物論」と同じになってしまうと困るのです





話を戻します



「随伴現象説」は

工場(脳)の煙突から出る煙(心)に譬えられます


煙(心)の状態は、工場(脳)の状態によって決まる

一方、煙(心)が、工場(脳)に影響を与えることはない

という立場です



「随伴現象説」は

現代の物理学で基本的な前提となっている

「物理的領域の因果的閉包性」」〔物理的な存在は

物理的に存在しないものから影響を受けない〕

に反していないことから


つまり「脳」は「心」の影響を受けない

としていることから


科学的な素養を持っている人々からは

受け入れやすく

脳科学者の茂木健一郎氏なんかがこの立場をとっています




但し、「随伴現象説」は

「現象判断のパラドックス」が生じると批判されているのです


物理的領域の因果的閉包性を仮定し


かつ心(意識や意思)が

物理的に存在しないものであるというなら

心は、脳が行う判断の原因となることが出来ない



なので、脳が行う心についての

判断(セーター着よう)には

心(寒い)が、因果的に一切関わっていないことになる

といった矛盾です





「性質二元論」とは

随伴現象説が、2つの実体を考えるのに対して


≪意識の世界には、2つの実体があるのではなく

実体は1つで、物理的実体と精神的実体は根本的には一緒


但し、この実体に、物理的側面と

精神的側面という2つの性質をもっている≫

というものです



こちらは、随伴現象説よりもさらに唯物論に近い(笑)

唯物論とほとんど差がない(笑)



この時点で、「心の哲学」が

学者がご飯を食べていくために

こしらえたものであることが明白です



しかもこの立場の代表的な人物が

アメリカの心の哲学者 ジョン・サール(1932~・言語哲学者)は


唯物論をねじまげて

「心の存在を否定するのが唯物論である」なんて嘘こいています




唯物論も、本来は、心が存在しないというのではなく

心(意識)は脳という高度に発達した物質より

派生的に存在するものである と考える立場です




いずれにしても

≪心の哲学≫といえど、まったく脳と関係しない

心(意識)を考える人はごくわずかで


心は、脳そのものではないが、完全に一緒ではない

と主張しています







養老教授のトリック



リベット実験に戻りますが


意識・意思(心)が、脳より派生的に起こるわけですから

脳波が、先にくるのはあたりまえでしょ

という話になりますよ(笑)



つまり、人類の価値観を変えたビック3

なんてものでないということなのです(笑)









この動画をみてください


https://www.youtube.com/watch?v=dp9FrhAz-2o&t=117s

【講演】「意識」の壁。意識は信用ならない。

【養老孟司】【自由意志・リベット実験】


2014年1月20日 大建工業での講演のようです



≪意識が(コップの水を)飲もうというふうに決めたとき

じつはすでに、脳の方は動いちゃってます。飲む方に向かって≫


≪後知恵ですよ、意識は。 意識はあとからついてくる≫




でた だましの言葉

≪あとから遅れて自分の動作に気づく≫ の同義語

≪意識はあとからついてくる≫ (笑)



教授の話のトリックを見抜けますか?


無意識も意識も、脳を根拠として生じているのにも関わらず


無意識の方だけを「脳」と言い換えているのですよ!!




「脳」と「無意識」は区別がいいかげんなのに

「意識」という言葉だけめちゃくちゃ限定的に使っているのです


意識 = 主体とか自己 みたいに(笑)  ずるいよね・・・・





それと以下のように前述しました


【 リベット自身は

≪無意識で決定されてから意識が生じるまでに

無意識の決定を拒否できる

行為を直前で中止することはできる≫として


そこに「自由意志」の余地を見い出すことで

自由意志の存在を擁護したとされます 】



養老さんの動画の

モーセの十戒や道徳律の話はこれを説明しています


≪人間が行動についてできることは止めることだけらしい≫


≪脳が動き出してもどうも止めることができるらしい≫




養老教授に質問してみましょう


人間には自由意志はないという結論は

≪動作を行おう(意志)とするとき

意識の前に、無意識の始動があるから≫という論理からきています



しかし、動作を止めよう(意志)とするときにも

当然、意識の前に

無意識の始動があり、運動準備電位が発生しているはずです



なのになぜ、動作を止めるときにだけ

≪自由意志≫の存在を認めるのですか?



要は、歩いているあなたが

「つぎの一歩で止まろう」と決断したとき


その意志においても

無意識において運動準備電位が発生しているはずです





さらに、動画において


≪でもそれを (意識が脳を止めることができることを)

素直に認めることになると、ものすごい変なことになる≫


≪なぜなら意識って物質じゃないでしょ 考えているだけでしょ

考えているだけでどうして脳が動くんですかね

禁止ができるのですかね≫


≪これって超能力っていうしかないじゃないですか

考えたらモノが動かせるのをテレキネシスというのですけど≫


≪それ(テレキネシス)に似ているでしょ 脳の中で起こっている

物理化学的な現象を、意識が禁止するって≫

(物理化学とは、物理学と化学との境界領域をあつかうう科学)


≪そんなことあるわけないんで、たぶん。あるかもしれませんけど≫


と語っています



「物理的領域の因果的閉包性」」〔物理的な存在は

物理的に存在しないものから影響を受けない〕

からいくと「そんなことあるわけない」ということなわけですが


動画の話は【意識は物質ではない】が

【無意識は物理化学的な現象である】(物質的な現象である)

というインチキ極まりない理屈において成立させているのです



≪我々はまだ意識については、極端な話なんにも知らないんですよ≫

というけど、無意識の方はどうなんだということです


≪意識は方程式に示すことは不可能だ≫

では、無意識なら方程式で示すことができるのですか?

ということです





なお、教授の【 ≪そんなことあるわけない≫こと

つまり、物理学の基礎となっている

「物理的領域の因果的閉包性」に反すること

が実際に起きている 】という主張は


「脳」ならば、物理学の発展により解明できる可能性をもつが

「意識」(心)は、現在の物理学の範疇(はんちゅう)ではない


意識は脳に還元できないから

現在の物理学ではどのようにしても解明できない


という心の哲学者お決まりの話です




それから、自由意志があるのか、ないのかの問題

意識が、現在の物理学の範疇であるのか、ないのかの問題


この2つの問題は、全く別モノです



アタマのいい人は、別のモノをごっちゃにして

論点をごまかしたり、ずらしたりするのが得意なので

注意が必要です



我々に「自由意志がない」と言えるとしたらどんなコトでしょうか?


≪意識は、あとから遅れて自分の動作に気づく

動作にきづいた意識は、その動作についての意味づけとして

意志を発動している≫なんて ことしかないでしょう




話を戻します


要は、養老教授のこの動画の話には

彼独自のアイデアって1つもないのです

( 動物には、≪同じ自分≫という意識がないという話を除いて )




養老さんの本を、全部、読んだわけではないですが


こうした動画と、今まで勉強させていただいた

彼の思考、思想を根拠として、評価させていただくと



釈迦の先生

〔八万法蔵と表現される膨大な数の仏典を理解する人の意味

その道の学問についての知識が豊富で

説明が上手とかで重宝がられているだけの学者先生〕

の一人という感じがします




ついでに書いておくと

≪一時が万事≫というように

「知的誠実さ」を測るだけならば、動画一本でも十分です


その「知的誠実さ」をもとに

その人のあらゆる話が展開されていくので

話の内容のレベルもおよそ分かるわけです





要するに、陽天さんのような

アイデア性、天才性で

わたしを魅了されてくれるような人ではない

ということです



陽天さんは、いくらでもアイデアがでてきますからね(笑)



【 陽天さんとは「時間論」でやりとりさせていただています


アインシュタインはアホや

相対性理論・ローレンツ変換ここに崩壊する!!








無意識と潜在意識



心理学によると

人前で話をしようとすると緊張してしまう

タバコやギャンブルをやめたいと思っていてもやめられない

痩せようと思っていても本気でダイエットに取り組めない

眠りたいのに眠れない


このように 我々のほとんどの行動が

潜在意識に支配されているといいます



一般に意識と呼ばれている顕在意識は1割にすぎず

9割が潜在意識(無意識)であるという話さえあります



なので、意識や意志の力で

潜在意識は、治めることはできないと言われています



カール・ユング(1875~1961。スイスの心理学者・精神医学者

分析心理学の創始者)は

"人の意識は、潜在意識のめし使いにすぎない"と述べています




我々は、自分の意志によって行動している

と思い込んでいますが


意志によって行動できるのはほんの表層的部分にすぎず

その下には深海のような無意識層が存在しているということです


顕在意識はその海に浮かぶ氷山(表層的部分)にすぎないのです




なお、潜在意識を「無意識」とも言いますが

意識しすぎて緊張してしまったりするわけですから

無意識というより

意識ではコントロールできない強い意識という感じですよね




潜在意識には2つのあるようです


1つは

「表層意識では気づいていないが

自分の言葉や行動に大きく影響を及ぼしている意識」


トラウマが関わる行動なんかがこちらでしょう


野球で、頭部にデッドボールを受けてから

内角の球が打てなくなった


ボクシングでハードパンチャーのパンチで

眼窩底骨折してから慎重になってしまった


これらは意識では「なんともない」と思っていても

無意識が記憶しているということです




もう1つは

≪意識しないようにしても、意識しすぎて緊張してしまう≫

といったように

「表層意識にのぼってくるけど

表層意識ではコントロール不可能な意識」



後者には、無意識という言葉は適切ではないでしょう







リベット実験の正体



話を戻して、結論を言うと

この実験によって証明されたのは


ホントは、≪自由意志は存在しない≫ではく

≪唯物論が正しかった≫なのです



リベット実験の結果が

≪唯物論が正しかった≫では困るので


これを逆手にとって

≪自由意志は存在しない≫と解釈したわけです




要は、結論は、リベット実験は

≪自由意志≫に関しての実験ではなく

≪唯物論≫に関しての実験です





≪飛び出してきた子供≫(情報)を

無意識が、目撃 = 知覚し


その知覚した情報に対して

≪ブレーキを踏む≫という動作が起こるまでの過程を考えます



この場合、知覚した情報に対して

「是」か「非」かの基礎的な価値判断をしない限り


つまり

認識判断→ 基礎的な価値判断→ 「是」(危険)の感情

がない限り


なに対して

意思(意志よりも弱い行動原理) → 意志

を発動すればよいのですか?


という話になります



つまり、無意識が先に発動するのはあたりまえです


≪自由意志は存在しない≫なんて話になりません




但し、これは、リベット実験ではありません


リベット実験には、出来事を知覚・認識する過程がないのです


自分が好きなときに、手首を曲げるだけの

動作に特化した実験なのです



被験者は、過去の経験にもとづいき

手首を曲げる動作を行うのだと思われ


無意識と呼ばれる領域において

動作を始動する≪衝動≫が起きているということだと思います



いずれにしても動作に特化した実験で

動作が、脳 = 無意識 によって起こるという結論なら

≪唯物論が証明された≫という他にないでしょ(笑)

ということです





「こうしよう」という意思は

無意識に根ざして発動されたものであって

意識 = 自己 が、発動・管理したものではない( ̄▽ ̄;)?



≪リベット実験≫を信じる

あらゆる脳科学者、心理学者、心の哲学者の先生たちに


このサイトをみてくださった人たちとともに

言ってあげたいです!!



なんで、≪潜在意識の自己≫が自分じゃないんだよ!

むしろ≪顕在意識の自己≫より本質的な自分じゃんかよ!!







意識はあとからついてくる



だましの言葉

≪あとから遅れて自分の動作に気づく≫

≪意識はあとからついてくる≫  に、話を戻します



るーいのゆっくり科学さんの

【ゆっくり解説】人間に「意識」が存在する本当の理由

https://www.youtube.com/watch?v=09pUUstB_Rs&t=592s

に以下のようにあります







ピッチャーが投げたボールが

キャッチャーまで到達するまでの時間は


時速140km=秒速140000÷3600m=秒速350/9m

時間=距離÷速さ=18.44÷(350/9)=18.44×(9/350)

= 0.474171428・・秒



脳の無意識の判断が、意識に届くまで0.5秒かかるから

意識は、打つという動作のあとからついてくるといった話です




元ネタは、りょうじさんの『脳の意識 機械の意識』

https://note.com/ryohji/n/n42ea2562840b

というサイトが


渡辺正峰著『脳の意識 機械の意識』(中公新社)

を紹介していますが、この本だと思います





しかし、日本経済新聞 ダイヤモンドの人間学(広澤克実)

日本ハム・大谷の160キロは速くないのか 2014年8月

https://www.nikkei.com/article/
DGXMZO75644970U4A810C1000000/


には、以下のようにあります



【 人間の目は「光」を通して「見える」

という仕組みになっているのだが

見えるまでには時間がかかる

光から映像を取り入れ、フォーカス(焦点)が合うまで

約0.1秒かかるといわれている


筋肉は脳からの微弱な電気信号によって動く

つまり、手や足などの筋肉はすべて

脳からの命令によって動くのだが、それにも時間がかかり

筋肉が動くまでにトップアスリートで約0.1秒かかるのだ 】



【 150キロ台後半から160キロの球を連発しながらバットに当てられ

その上敗戦投手になることを不思議に思う人も多いはずだ

一方で、若き日の中日・山本昌のように

130キロ台半ばの球でも最多勝にも最多奪三振王にも輝くことがある

何とも不思議なことである


そこには野球選手の途方もない優れた能力が隠されている


この現象を説明する前に一つだけ断っておかなければならないのは

160キロを超える速球を投げられる人間は

尋常ではない能力の持ち主であるということ

160キロ超の速球はプロの目から見ても超人的である



■打撃は「予測」の下に成り立つ作業


では、なぜ160キロの球を投げる投手が負け

130キロ台の球を投げる投手が勝つような現象が起こるのか

その答えは打撃という作業が「予測」の下に成り立っているからである


ここでいう予測とは球種やコースに

あらかじめ的を絞るような行為ではない


もっと単純な予測で

簡単にいうと過去から未来を予測する行為のことである


投手の手元からボールが離れコンマ何秒かの時点で

どんな球種でどのコースに来るか

それと同時にストライクかボールか

そして打つか打たないか判断する場所がある

このエリアで打者は"未来"を予測するのだ


たとえば球は空気抵抗で必ず減速するし

重力もあるので厳密にいえばどんなボールも沈むことになる


それらのことを瞬時に計算して「たぶんここを通過するだろう」

と思われるところにバットを振り出す


つまり、過去から得た情報を瞬時に分析して、未来を予測しているのだ


打者はこの予測行為を、少年野球のころから

何万回、ひょっとすると何百万回と

繰り返した経験に基づいて行っている 】





また、日経 XTECH 脳を鍛えて勝つ

スポーツ「未踏領域」への挑戦

NTT「スポーツ脳科学プロジェクト」(上) 2017年3月

https://xtech.nikkei.com/dm/atcl/feature/15/
110200006/022700066/


には、以下のようにあります



【 チェンジアップを打てる打者は

投手がボールをリリースしてから0.25秒の時点で

タメを作って対応していることが分かった


脳内で情報処理を開始してから

実際に動作を始めるまでの運動応答に0.2秒程度がかかるため

リリース後0.05秒までで

「チェンジアップであることを、ボールの軌道もしくは投球フォームから予

測してタメを作っている」(柏野氏)

逆にタメを作れていない打者は

「投球フォームなどから球種を見極める」能力などの取得が必要になる 】




要するに、明らかに、意識によってボールを打っている

ということです




さらに、札幌青少年科学館 反射って何?

https://www.ssc.slp.or.jp/faq/science-qa-box/
qabx-humanbody/997.html


には、こうあります


【 感覚器から受けた情報は、脳へ伝えられ処理されます

では、情報のルートはどうなっているのでしょうか

寒い部屋に入ったときを考えてみましょう


部屋に入ると、寒さ(冷たさ)を皮膚が感じ

その情報が感覚神経を通って脊髄に入り、脳へと伝わります


脳では、この情報をすばやく処理し

「ストーブをつけろ」という命令を出します


この命令は、脊髄から運動神経を通って指の筋肉に伝わり

ストーブのスイッチを入れるのです



ところが、情報が脳を通っていると

時間がかかりすぎる場合があります。どんな場合でしょうか



みなさんはヤカンなど熱いものに

手を触れるとパッと手をひっこめますね


これは、脳の命令で行う動作ではないのです

皮膚が受けた強い刺激は情報として感覚神経を通って脊髄に入りますが

ここから脳に情報を伝える過程を省略し

直接、運動神経に命令を伝えるため瞬時に手がひっこむのです



このように、脊髄で情報が折り返されることを反射と言います


反射に要する時間は0.1秒以下と言われています

(手をひっこめた後、熱いとか痛いとか感じるのは

情報を神経に送った後、脳にも送られるからです)


反射は、身の危険をすばやく避けるための反応だったのです 】




要は、手や足などの筋肉すべてが

脳からの命令によって動く というのは、間違えです



【 神経とは、情報伝達の役割を担う動物に見られる組織

中枢神経と末梢神経に分けられる


神経系の中で多数の神経細胞が集まって

大きなまとまりになっている領域が「中枢神経」で


脊椎動物では脳と脊髄が中枢神経となる


中枢神経以外の体のすみずみにまで走っている

神経線維が「末梢神経」



末梢神経は、大まかに

運動神経(手や足などに向かう)

知覚神経(脊髄・脳に向かう)

自律神経(交感神経と副交感神経)に分けられる 】






触覚ラビット







りょうじさんの『脳の意識 機械の意識』

https://note.com/ryohji/n/n42ea2562840b

で紹介している

渡辺正峰著『脳の意識 機械の意識』(中公新社)

にみられる話です



非常に衝撃的な実験結果であり

意識にとってとて重用な実験結果でもあり


かつ実験が容易にもかかわらず

ネットで「触覚ラビット」を検索しても


ちゃんと説明しているのが

このサイトだけということからして怪しいですが・・・・




被験者に目をつぶってもらい

腕の2ヵ所の場所を



黄色2回、青1回を素早く叩くと





意識においてこのように、叩かれたと感じる

というのが「触覚ラビット」(錯覚)です



要は、叩かれたと感じる位置がずれるという錯覚ですが

これを、【 無意識が体験した過去に

遅れてくる意識の未来がひきずられる結果である 】というのです





るーいのゆっくり科学さんの

【ゆっくり解説】人間に「意識」が存在する本当の理由

https://www.youtube.com/watch?v=09pUUstB_Rs&t=592s

に以下のようにあります






この図でおかしいのは

無意識 = 現実世界 というところです

我々において、意識こそが現実世界です


≪自分≫からいうと

無意識、意識 = 主観(現実世界)、客観世界です



図は、現実世界 = 客観世界 としつつ

さらに、現実世界 = 無意識 という二重の間違えをしているのです



それと「タイム-オン理論」で述べたように

時間の観念がデタラメです



正しくはこうなります





① ② ③ は、腕の位置ではなく、叩かれたという出来事の時刻です




「触覚ラビット」という現象が

仮に正しいとしても論理がめちゃくちゃです


分かりますか?



無意識ではこう判断する





それを意識はこう感じるという話です





ならば

「意識」は、「無意識」の判断に従うだけの存在ではない

ということになりますよ (それが錯覚だったとしても)



いやいやそれは意識が錯覚しただけで

「意識は無意識に従って錯覚しただけである」

という反論があるでしょう



では、これはどうですか?


無意識が「寒い」と知覚判断し

意識が「寒むぅ、嫌だな」と感情(価値)判断したとします


心地よい、楽しい、美味しい(知覚でなく感激の)

これらは、五感を通して得る心の満足という「価値」です



つぎに、意識の「寒むぅ、嫌だな」という価値判断(感情)に従って

無意識の≪動作への衝動≫が起こります


そして、その無意識の≪衝動≫に対して

意識は、セーターの必要性を認識し

(自分にとって必要なモノやコトという価値についての判断)


「セーター着よう」(意志)となります



つまり、意識は、無意識の上にのっかって

発動されますが、その意識の判断に

無意識も従って判断しているということです







受動意識仮説






≪意識が行動を決めているというのは思い込み≫

≪意識は、行動を決めている司令塔ではなく

自分や世界をただ見ているだけの傍観者にすぎない≫


という「受動意識仮説」はホントなのでしょうか?




「可愛い」(知覚) → 「可愛い、心地よい」(感情・心の満足という価値)

→ 「付き合いたい」(欲求 ・自分にとって必要なモノやコトという価値)

→ 「告白しよう」(意志) → 「お付き合いしてください」(行動)です



どこまでが無意識の判断で

どこからが意識の判断か分かりませんし


また、どこからがヒトの脳と呼ばれる

大脳新皮質による判断なのかも分かりませんが


いずれにしても

無意識も意識もどちらも脳を根拠としているはずです





ピッチャーが投げたボールを打つ

という動作を例にして、考えてみましょう



① 無意識が、五感を通して脳に入った情報に対して

原初的な知覚判断をし、意識に伝える


(ピッチャーの投げたボールを知覚)



② 意識が、無意識の情報(刺激)を、意識として知覚し

さらに刺激に対して、価値判断をする


(きた 打ちごろの球だ!!)



③a 無意識は、意識の下した価値判断に対し

どのような指令を出せばいいのか経験上知っていて

≪動作の衝動≫を発動させ、意識に送り返す


(バットを振るための衝動が起きる)



③b 意識は、無意識に価値判断を無意識に送ると同時に

自ら下した価値判断の結果に対し、「意志」を発動させる


(バットを振るぞという意志が起きる)



④ バットを振るという動作がなされる


こんな感じになっているのではないでしょうか?





では、いつものアイスを買おうと思って

コンビニに行ったら、新発売のアイスがあったので

悩んだすえに、新発売の方にした なんて動作を考えてください


この場合、新発売のアイスに対して

価値判断がなされていない状況にあります



① 無意識が、五感を通して脳に入った情報に対して

原初的な知覚判断をし、意識に伝える


(新発売のアイスを知覚)



② 意識が、無意識の情報(刺激)を、意識として知覚し

さらに刺激に対して、価値判断をする


(新発売のアイスだ! おいしいのかな?)



新発売のアイスを、どんなアイスか判断し =

真理(これは○○である)の判断し


さらに

いつものアイスを買っておいた方が無難かな? とか

価格的にぱどうかな? とか


一度、買ってみても損はないかな? とか

自分は今、どっちが食べたいんだ

(どっちを食べたらより多くの価値を得られるのか) とか


新発売のアイスについて評価 = 価値判断します



③ 意識は、あれこれ悩んたすえに

「意志」を発動させます


(よし、新発売のアイスを買おう!!)



④ 無意識は、意識の意志決定を受けて

≪動作の衝動≫を発動させ、意識に送り返す


(新発売のアイスを手にとるための衝動が起きる)



➄ 新発売のアイスを手にとる動作がなされる




バットを振るという動作の場合

無意識が、意識の価値判断に対して、動作は必ずこうなる

ということを経験上知っています


なので、無意識が≪動作の衝動≫を発動させるのと

意識が「意志」を起動させるのとが

同時であっても不思議ではありません



これに対し

新発売のアイスの場合は、意識の意志決定がなければ

無意識は≪動作の衝動≫を発動させるのは不可能です




いずれにしても

価値を判断する主体は、意識であることからすると

「意識」の方が、あきらかに【能動】です



但し、その価値判断も

知識や経験の上にのっかってなされるものであって

その知識や経験は、無意識に蓄積されています



結局、意識は、無意識にのっかって

価値を判断をしているので


より本質的な自己・主体は、無意識であると言えるわけです



ちなみに、≪バットを振ろう≫、≪あの子に告白しよう≫

どちらも意志ですが、後者の方が理性のブレーキがかかるので

より能動的と言えるでしょう







エピソード記憶



ついでに書いておくと




るーいのゆっくり科学さんの動画では

意識は、エピソード記憶(経験に関する記憶)のためにある

と結論していますが


ねずみは「意味記憶」

(石は硬い・りんごは赤意といった記憶)しかもてない(・_・?)


そんな訳なんでしょ  めっちゃ記憶力いいですよ



ねずみ110番

https://www.interdependenceday.net/news/20180305-2.php

というサイトに、こうあります


【 ネズミは人間よりも頭がいいという説があります

小さな見た目に反して、私たちが想像する以上の知能があるため

昔から厄介な害獣とされてきました

種類によってネズミには乳幼児程度の感情もあるといわれており

芸を覚えるなどの躾も可能です


そして何より、ネズミは知能に加えて

抜群に優れた野生のカンも持ち合わせています


そのため、安易な方法では駆除がうまくいかない場合が多いのです 】




それに、昆虫のアサギマダラなんかは渡りもするのですよ

ある意味においては、人間より賢いです



【 アサギマダラという蝶は「海を渡る蝶」と言われています

南方で羽化したアサギマダラの成虫は

春から夏にかけて

北東や高地へと移動します


夏の間は、東北地方や標高1000m以上の高原地帯にいて


秋なるとそこから紀伊半島や四国を通って

鹿児島県の喜界島〔きかいじま・奄美大島のとなり

秋にたくさんのアサギマダラが飛来する場所として知られる

但し群は2、3日で移動する〕

沖縄・南西諸島・台湾へと移動していくらしいのです


全長2千キロもの距離を旅するそうです



「渡り」とは再び同じ場所に帰ってくるものですが

渡り鳥の「渡り」とは違い

1つの個体が往復するわけではなく

行きと帰りでは世代が異なるとされます




「渡り」をする昆虫として世界的に有名な

オオカバマダラというアサギマダラの仲間は

カナダなどの北アメリカから

最終目的地のメキシコに向かって数千万から

1億ともいわれる群で「渡り」をするそうで

3600kmもの距離を移動するといいます



目的地で越冬し、春先には別の世代が北上してきますが

南下は1世代で行われ

北上は3世代から4世代にかけて行われるらしく


「渡り」には太陽コンパスや磁気コンパスを

利用していると考えられています 】





興味深いのは


知っておいたらタメになる

科学雑学ちゃんねる【ゆっくり解説】さんの


意識がないとどうなるのかー意識の起源

https://www.youtube.com/watch?v=nLRQLSwN-Zc&t=8s


にあるこの話です



アメリカカケスは、餌を備蓄するとき

取られそうな生物に見られると、別の場所に隠す


これは、アメリカカケスが

「他者にも空腹という感情があり

自分と別の視点で世界を見ている」ということを知っている






【 記憶の分類は、学問の分野によって異なりますが

心理学では、感覚記憶、短期記憶、長期記憶に分類されています


「感覚記憶」は

感覚器官において、1秒ほど映像や音などを保持する記憶です



「短期記憶」の例としてよくあげられるのは

電話をかけるまでの数分間は、電話番号を憶えているが

電話がつながってしまえば、忘れ去られるという話です


保持できる時間については

資料によって違いがあり、数十秒と書かれているものもあれば

数十秒~数時間と書かれているものもあります



「長期記憶」は何年も覚えていられるものです


「長期記憶」は、頭で記憶する「陳述記憶」と

身体で記憶する「非陳述記憶」に大別されます


陳述記憶は、さらに「エピソード記憶」と「意味記憶」に分類されます



非陳述記憶の代表は「手続き記憶」(技の記憶)で

自転車の乗り方や泳ぎ方、箸の使い方などが、これにあたります



非陳述記憶には、他に

プライミング、古典的条件付け、非連合学習などがあるようです



プライミングは、あらかじめ受けた刺激(情報)に

のちの行動が無意識に影響されることとされます


10回クイズなんかが例で


「ニシン」を10回  子供を産む事を何ていう?

正解: 出産   間違い: 妊娠




古典的条件付けとは「条件反射」です


梅干しを口に入れると「酸っぱい」となって唾液が出る

→ 経験を繰り返すことで

梅干しを見ただけで、唾液が出る



なお、古典的条件付けと対比される

「オペラント条件付け」(道具的条件づけ)は


古典的条件付けが、受動なのに対し、能動です


オペラント条件付け →

ネズミが「ボタンを押す→エサが出てくる」を学習する (能動的)




非連合学習は、学習に対する反応で、鋭敏化と馴化があるとされます


大きな地震を経験 → 地震がくると大きな恐怖を感じる (鋭敏化)

逆に、地震のサイレン(刺激)に馴れてしまい、反応が低下する (馴化) 】







「私」とは?① (おまけ)



養老さんの動画に戻ると

以下の3つを根拠として「意識は信用できない」と結論しています



① ≪意識は動物と違って

「同じ」という能力をもっちゃいましたから≫

≪意識が出てきた瞬間に「同じ」ってなりますから≫


≪「同じ」という能力が内在していますから。意識のなかに≫

≪そこから出てきたのは「同じ私」でしょ≫という話



② 人はどんどん変わっていくという話



③ 記憶 = 自己 といっても記憶は間違えるので

記憶を根拠とした「私」「自分」 はあてにならない


その「私」「自分」 は、意識がつくり出しているので

「意識」の存在もあてにならない といった話




①は 【 寝ている間は、意識はない

起きた瞬間 = 意識が戻った瞬間に、同じ自分(昨日の自分)になる


だから

≪自分は自分として、一貫している 同じ存在である≫

という思考は、意識がつくり出している 】ということです



なお、動物には、≪同じ自分≫という意識がない

という馬鹿げた話は、論評するまでもないでしょう




②の≪人はどんどん変わっていく≫は、これと一緒です



【 釈迦の立場、つまり「空」という立場では

赤ん坊のときのあなたと

今のあなたが別の存在ということになってしまいます


もっと言えば、今のあなたと

次の瞬間のあなたとは別の存在ということになります



ところが、赤ん坊のときのあなたと

現在のあなたは、≪あなた≫としてちゃんと一貫しています


これについて釈迦の立場では説明がつきません



仮に7年で、私たちの身体の全ての細胞が入れ替わるとしましょう


しかし「7年経って細胞が入れ替わったんだから

今の自分は以前の自分とは違う


だから、以前の自分がした借金は払わなくてもよいはずだ」

なんて話は通用しないですよね(笑) 】




但し、こうした

≪ある瞬間と、別の瞬間では、違う存在である≫

といった論法だと


「意識」や「自分」ばかりでなく

≪あらゆる存在がそうでしょ≫ という話になりますよ


極論を言うと「存在」も「世界」も存在しないという話になります



なぜなら、我々の世界に「時間」があるからです



つまり、時間によって、つねに変化しているから

「同じ自分ではない」と言ったってあたりまえなのです




そこで、考えていきましょう


今、花瓶で美しく咲いている花も

瞬間瞬間変化していき、やがては枯れていきます


瞬間瞬間変化するから、瞬間瞬間で別の存在である

と言ったって


この花をこの花として存在されている

また一貫させている なにかがあるです


それこそが「自分」ではないですか? ということになるわけです





仏教は「空」(すべてが変化して止まない)

という立場から

「霊魂」のような固定的・不変的な自己の本質を認めません


そこで「業」(行為)の集積体、いわば業エネルギーのようなものが

輪廻する自己の本質と考えます




釈迦は、アートマン(不滅の自己の本質・霊魂)

の存在を否定する一方


バラモン教の「業」(ごう)や「輪廻」の考えの上に

仏教という新宗教を創始しました



そうなると「輪廻する主体」の存在が問題となります


この輪廻する主体の存在について

釈迦が没したあと様々な説が展開されました


そして定着したのが「阿頼耶識説」(あらやしきせつ)です




阿頼耶識説では「阿頼耶識」という無意識層を立て

これが輪廻する主体となります


阿頼耶とは蔵(くら)の意味で、阿頼耶識を「蔵識」ともいいます



この説では、阿頼耶識という無意識層に

身口意(しんくい・意は心の意)の

全ての「業」〔行為のこと。カルマン(カルマ)〕が蓄積されていきます


すなわちその人のおよそ一切の行為が蓄積されていきます



今、あなたが、私の話を読んでいるという行為も

あなたの阿頼耶識に蓄積されているわけです



蓄積されるとは

トラウマのように経験として刻まれていくということです



トラウマ(心的外傷)なら、その人が死ねば消滅しますが

宗教というのは

生命を、永遠という時間軸の上で語るので


ある事実は、自分の生命の中で永遠に継続される

ということになります



そして、現世の阿頼耶識に蓄積された

「業」の善悪のプラスマイナスで


来世の果報(結果と報い)が決まる

というのが阿頼耶識説なのです




つまり仏教の生命学の基本は

霊魂による輪廻ではなく、業相続・業輪廻なのです





生命 = 存在に、強い衝撃をもたらす事象を

外傷性ストレッサーと呼び

その体験をトラウマ体験と呼びますが


人は、受け入れ難い過去の記憶や感情を

無視したり否定したりすることで

無意識(潜在意識)の中に閉じ込めてしまうとされています


これを心理学用語で「抑圧」といいます



ところが、現実に起こった事実は、いくら無視したり否定したりしても

潜在意識では、知っているそうです



抑圧された現実を受け入れるには

大きな「痛み」をともなうので、抑圧し続けるとされます



しかし、心に傷を負ったときと同じようなことが起ると

無意識の中に抑圧した記憶が、意識上に上がってくる


するとより強く抑圧をする→ 不安が大きくなる という仕組みらしく


葛藤によって、日常生活に支障が出てきた場合を

「神経症」と呼ぶそうです




なお、「葛藤」とは、意識化されている偽りの自分と

無意識の中に抑圧した真実の自分とが対立状態を言うそうです


葛藤があると、いいしれぬ不安となってあらわれるそうです





心理療法には、流派が色々あるようですが


認知行動療法以外、基本は

≪抑圧された現実を受け入れれば、葛藤がなくなり

不安がなくなる≫ということから


「精神分析」により

抑圧された記憶を意識化することが、中心だといいます




心理学では、真実の歴史をつむぎ出して

≪偽りの歴史の自分≫と

抑圧されている≪真実の自分≫を自己統一する


それによって、葛藤も不安も消滅するとされています




こうした心理学の立場から考えても

本質的な自己は、意識ではなく

むしろ潜在意識に存在することは明らかであり


養老さんが語る 【 寝ていて起きた瞬間 = 意識が戻った瞬間に

同じ自分になるのだから

≪私≫、あるいは≪同じ私≫は、意識がをつくり出している 】

なんて単純なものではないはずです



そうではなく、「私」(主体)も「心」も

意識と無意識によってつくられているということです





養老教授の話をまとめると

【 意志と動作の主体は「脳」であり

意識は後知恵で

「私」は、意識がつくる幻想である 】ということです


ならば

選択肢は「唯物論」しかないでしょ(笑) という話になりますよ


にもかかわらず、ことさら

無意識だけを イコール「脳」とごまかしをしている


ここに


つまり、「脳」を意識の実体としているにもかかわらず


彼の必要性において、脳とは別に

「意識」(心)という実体が存在しなければならないところに


彼の話の動機も、根本的な矛盾もあるということなのです







「私」とは?② (おまけ)



話を「無意識」に戻します


オーストラリアの精神科医の

フロイト(ジークムント・フロイト・1856~1939

国際精神分析学会の創設者)

が起点となっています


つまり、19世紀の終わりから20世紀になって

ようやく潜在意識の存在を知ることになったのです




これに対し、仏教においてはすでに

4世紀に、大乗仏教の二大教派の1と唯識派が

末那識(まなしき)、阿頼耶識という

かなり精緻な無意識(潜在意識)を解明しています



まず、対象に対応して

眼識、耳識、鼻識、舌識、身識という

五識が生じるとされています


次ぎに、五識で得られた知覚、認識にもとづいて

意識という第六識が起こるとされます



第七識以下は

無意識(潜在意識)と呼ばれている領域です



第七識の「末那識」(まなしき)というのは

「深層自我意識」にあたります



変化してやまない阿頼耶識(本質的な自己)を

固定的にみてしまうのが

末那識という深層自我意識です



今のダメな自分を、固定的にとらえて

悲観的になるという心理も、末那識と言えますし


「あいつは、昔こうだから、今もこうだ」

と、他人を固定化してしまう心理も、末那識と言えます




要は、1つ1つの経験自体(過去の事実)は

固定的・不変的ですが


≪総体としての経験≫ ≪総体としての自分≫

すなわち、阿頼耶識は

つねに変化しているということです


一瞬、一瞬変化をしているということです



にもかかわらず、無意識的に

自分あるいは他人の本質を固定化しているのが

末那識と言えます



そして、末那識のさらに奥に、第八識の阿頼耶識があるのです





目の前に、幅の広い大きな道路があったとします


信号機はありません

車がバンバン走っています


あなたはどうやってこの道路を横断しますか?


もちろん、右見て、左見て、車がこないことを確認して渡りますよね


それは過去の経験にもとづいて確認するということです



でも、そこで恐い思いをすると

それがまた新たな経験となり

過去の経験に積み重なっていきます



こうして、総体としての経験というものはつねに変化しているのです

さらに言うと、自分というものはつねに変化しているのです

「空」なのです




1つ1つの過去の経験は

トラウマ(過去に経験した心の傷)が意識に刻印されるのと同様に

消えることも変わることもないですが


総体としての経験の容器、自分という容器は

つねに変化しているということなのです





Aさんは、植物状態になる以前

「記憶を失って自分すら認識できないような状況になってまで

生きてなんていたくはない」と考えていて


『死ぬことのできる権利』 『死を選択できる人権』

『死に対する尊厳』を認めるべきだと思っていたとします




こうしたAさんにとっては

植物状態になり、自分に対する認識や

過去の記憶を失ったAさんという存在に

「自己なんてない」ということになるかもしれません


もっというと、その存在はもはや

「自分ではない」ということになるかもしれません



〔 ちなみに日本脳神経外科学会の定義によると

脳死と植物状態の違いは

植物状態では自発呼吸があるが、脳死ではそれがないこと 〕




しかし、Aさんの家族や友人にとっては

そのAさんは、Aさんそのものです



これは、家族や友人が

Aさんに蓄積されてきた過去の行為

仏教的にいえば阿頼耶識を

Aさんの自己だと見ているからだと言えます



自分の中にあるAさんについての記憶を

Aさんとみなしているというというような薄っぺらなものでなく


Aさんの阿頼耶識的なモノを

Aさんの「自己」=「尊厳」とみなしているわけです



こうしたAさんと、Aさんの家族や友人の間に生じる

「自己」についての違いと「尊厳」についての違いこそが

「尊厳死」の問題を複雑にしているのです


すなわち、尊厳死の問題とは

記憶=自己と、阿頼耶識=自己とのギャップから生じている

と言っても過言ではないでしょう






では【生命】とは、なんでしょう?


「心」(精神)だけを言うのでしょうか?



① 生命の物質的側面と、精神的側面とは切り離すことはできません


例えば、病気で熱があれば、心も不安となり

心に不安があれば表情も暗くなります


これを仏教では「色心不二」(しきしんふに)といいます




② 自己と、自己がよりどころとする環境は切り離せません


A、美人か・ブスか  健康か・病弱か  頭がよいか・悪いか

こういった自己に具わっている性質、また自己そのもの


B、裕福・貧乏  平和な国・戦乱の国  彼女がいる・いない

こういった自己がよりどころとする状況や環境



AとBが一体不離で、自己 = 生命 というものを成立させています


これを仏教では「依正不二」(えしょうふに)といいます



まとめると、生命 = 自己 は、①と②において成立しているのです


つまり、色心、依正が一体となった存在が

「生命」であり「自己」であるととらえるわけです




養老教授の話

≪ 寝ている間、意識がなくて

戻ってきた意識って、前の意識と同じなのですか?

同じと思っているでしょ 私が聞いているのはその根拠です ≫


意識=自分 という意味で使っているのは明らかですが



寝て起きたら「私」「自分」が

アメリカ大統領になっていたりしますか?

テレビでよく見る大女優になっていたことはありますか?

飼い猫のミーになるなんてことはありますか?


ないから、私は私として一貫しているのです!!







運命と自由意志 (おまけ)



古来、人間の「自由意志」についての論争が

「運命論」であることからも


「自由意志」を語る上で「運命」は、避けて通れません



そこで、「運命」について考えてみましょう



【運命】とは

≪意志を超えて、幸福や不幸を与える原理≫

だとされています




仏教的に考えると


前述したとおり

現世の阿頼耶識(あらやしき)に蓄積された

「業」の善悪のプラスマイナスで


来世の果報(結果と報い)が決まるということになります



その果報が

Aの「正報」(しょうほう)と Bの「依報」(えほう)です


A、美人にうまれた  健康に生まれた  頭がよく生まれた

B、裕福の家に生まれた  平和な国に生まれた



これらは「宿命」と言えます



【運命】を≪果報をもたらす原因≫と定義すると

阿頼耶識という潜在意識が、そうであると言えます





心理学・脳科学的に考えてみましょう



【 五感を通して受けた外界からの刺激は

脳の中で「表象」(曖昧なイメージ)となる


さらに表象は「経験」となって

経験の積み重ねは、深層心理を形成する


深層心理は、新たな刺激により「心」を形成する 】



この意識される「心」を

我々が≪自由意志≫と呼んでいるだけだとします



また、意志が行動を生み

行動によって、幸福にも不幸になるとすると

意志を形成する深層心理が、幸・不幸をもたせす原因と言えます



そこで、【運命】とは

≪意志を超えて、幸福や不幸を与える原理≫

だとされているわけですから


「自由意志」の原因となる深層心理を

≪運命≫と定義してみます



すると、この運命の原理が

刺激に対して、定められた反応を示し

≪意志≫という意識を生み出しているということになります



そうなると、≪自由意志≫は

刺激の違いによって決定していることになり

そんなの「自由でない」とも言えます



ならば≪自由意志は、存在しない≫という

リベットをはじめとする科学の専門家の主張は

「それほどデタラメな話ではない」という考えもできます




しかし、ここが重要です


深層心理それ自体が、つねに変化している

ということです


となると


人の幸福、不幸を決定するはずの

≪運命≫が、つねに変化しているわけですから


≪運命≫が、幸福、不幸を決定できない

というわけの分からないことになります


ですので、深層心理は「運命ではない」ということが言えます




要するに、深層心理が、固定化されていれば

刺激によって意志は決定されている →

自由意志は存在していない と言えますが



深層心理が一瞬、一瞬、変化している以上

同じ刺激でも、刺激に対する反応は、つねに違ってきます


深層心理の反応が違うと

形成される「心」 = 意識される「心」 も違ってきます



この意識される「心」を

我々が≪自由意志≫と呼んでいるだけだとすると


これって「自由意志は存在している」ということになりませんか?



なぜなら、≪必ずこのように反応をする = このような意志を示す≫

ということはない からです





「あなたの心は、刺激に対して

必ずこう反応するでしょ だから不幸になるのよ」


これが成り立つならば

心を形成する深層心理が

幸・不幸を司る原理 = 運命 ということが言えますが


深層心理は、瞬間、瞬間、変化しているから

≪必ずこう反応する≫ということはありません


行為は、心(感情や意志)が反映されるので

≪必ずこう行動する≫ということもないということになります



「運命は変えることができるのか?」

というテーマがありますが


深層心理 = 運命 と定義した場合

「運命は変えられる」というより

「運命はつねにつくり変えられている → 運命は存在しない」

ということになります




ちなみに、阿頼耶識が、運命として成立するのは

自由意志(正確には自由意志にもとづく行為)に対し

善悪の価値判断するからです


そして善悪に連動し

未来の出来事が違ってくる = 幸・不幸が違ってくる


心理学・脳科学的に言うと

外界からの刺激が違ってくる という論理だからです






それからOLのC子さんが

イケメンのA君と、ブサイクなB君に

それぞれ後ろから肩を叩かれたとします


刺激の強さは、AとBのときで全く同じだとします


ところが振り返ったC子さんの表情、態度に違いが現れます


B君のときは「なんだBか・・・」と冴えない表情を示すのに対し

A君のときは、明らかに嬉しそうな表情を示します



ビリヤードの玉なら

この玉を、この角度からこの力で突けば

玉はこう反応して、力を伝えていき

目的の玉をコーナーへと落せる というように


刺激の強さに対して、反応が決まっています



ところが、心が介在し、価値判断が入ると

結果が違ってきてしまう


同じ刺激で反応が違ってくる

これは「自由意志が存在する」証拠であるのではないのか?



これは間違えです



肩を叩かれたという刺激に対する反応は

「触られた」という知覚です



C子さんの表情、態度に違いが現れるのは

A君、B君という違う刺激についてです




心理学最大の理論 「ABC理論」の間違え ①




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