現在主流の「心の哲学」の嘘を暴く!! 機能的意識と現象的意識



 心と存在


「心の哲学」の嘘を暴く!!


 




機能的意識と現象的意識



前述したように


デイヴィッド・チャーマーズは

心(意識)の解明について


『機能的意識』

〔入力信号に対して出力信号を返しうる意識

外面的に観測することができる意識。心理学的意識とも呼ばれる〕


『現象的意識』

〔他者からは観測できない個人の主観的な意識。クオリア〕と分け



機能的意識については

既存の物理学の範疇(はんちゅう)にある

神経科学の方法論で解明できる

「意識のイージープロブレム」


現象的意識については、既存の物理学の範疇にはない

「意識のハードプロブレム」と定義した


ということですが、これについて考えてみましょう




我々は、ある「赤」を語るときに

その赤が実際はどんな「赤」であるか

を語ることができません



「りんごのように赤い赤だ」とか

「火のように燃えるような赤だ」とか

およそのことしか表現できません



そこで、チャーマーズは

ある赤がもつ固有の「赤」を

「質感」(クオリア)としたのです



そして、質感に対する意識について

世界(現象世界)を感覚的に捉える意識であるとし

「現象的意識」と定義したわけです




さらにこの「現象的意識」に対して

世界に働きかけることのできる意識

入力信号に対して出力信号を返しうる意識として

「機能的意識」という概念をつくって


「りんごのように赤い赤だ」とか

「火のように燃えるような赤だ」とか語りうるのは

「機能的意識」であるとしたのでしょう




さらにこの構図から「現象的意識」がなく

「りんごのように赤い赤だ」とか

「火のように燃えるような赤だ」とか語りうる存在

「機能的意識」だけある存在を想定し


≪哲学的ゾンビ≫と名付けたということになります




そして、≪哲学的ゾンビ≫の脳状態を科学的に調べようにも

調べられるのは、脳波などその機能を調べることしかできない


「機能的意識」しか調べようにない

「現象的意識」は調べようもない


なんていう話なのです





「意識」というものには

本人にしか知られない主観的な意識と

第三者からも観測できる客観的な意識がある

と言われてきました



これに対し、チャーマーズは

意識の立て分けをしたということですから


「りんごのように赤い赤だ」とか

「火のように燃えるような赤だ」とかいった表現は

みながみな同じようにそう表現するので

客観性のある意識と考え

『機能的意識』と定義し



それに対し、表現しえない意識を

『主観的意識』=クオリアなんて定義したのでしょう







しかし、チャーマーズの話は

意識の問題ではなく、言葉の問題ですよ(笑)


しかも大昔に、仏教において語られています



陳那〔じんな・ディグナーガ。480~540頃

インド大乗仏教2大教派 唯識派の大成者〕は


共通性である「共相」〔ぐうそう・共通する特徴や性質

青いものに共通する青性、りんご・バナナ・みかんに共通する果実性

全ての事物にみられる無常性など。共相は非存在のものである〕は

比量(推理知)によって認識され


事物の固有の特徴や性質である「自相」は

概念によらず直接実在を認識する現量により認識される


共相のみが言語による伝達が可能で

言語の使用は指示されるもの以外のものを

排除することで成り立っている


と考えました





つまり、A子さんのことを他人に伝えるには

犬っころみたいな顔してて、おてんばで

大飯喰い・・・と ≪共通性≫を重ねていくしかないということです


A子さんの固有の特徴や性質は、伝達不可能ということです



A子さんの固有の特徴や性質を「質感」や「クオリア」と表現するなら


A子さんの「クオリア」は

我々の世界の「言語ゲーム」にはのっけられないということです






チャーマーズの論理のおかしいのは


1、我々が

「りんごのように赤い赤だ」とか

「火のように燃えるような赤だ」とか語ることができるのは

質感を含めて、その赤のもつ固有の赤を

とらえているからこそ語ることができているということ


つまり、現象的意識がなく

機能的意識だけがある≪哲学的ゾンビ≫は

理論上としても成立しないということ





2、次に

現象的意識(質感をらえる能力)があり

機能的意識(表情や言葉)も有するが


喜怒哀楽などの「感情」をもたないといった

≪哲学的ゾンビ≫を仮定してみます



質感をらえる能力とは、知覚に他ならず

情報の知覚・認識→ 表情や言葉 なんてありえません


情報の知覚・認識→ 情報に対する「価値判断」があって

→ はじめて表情や言葉 です


そして 情報に対する価値判断こそが「感情」です


なので、感情のない哲学的ゾンビも

理論上も成立しえないということ





3、脳に関して、情報の「入力」と

それに対する「出力」という面から考えると


「入力処理」=知覚=現象的意識

「出力処理」=感情は、機能的意識 であるという他はなく


感情もクオリアとされているわけですから

クオリア=現象意識ってなに? という話になる


つまり、機能的意識と現象的意識という分類は

おそまつであるということ





4、機能的意識というものも

脳を解剖したり、脳波を調べたりしてもわからないこと


脳を解剖したら

この脳が、≪りんごを見ていた≫という事実は分かる

なんてことはないでしょ ということ



すなわち、現在の科学において

発生の仕組みはわかっていないのは

現象的意識も、機能的意識も一緒です






ついでに、チャーマーズは

なぜ「心理学」で扱う「心」を

『機能的意識』(心理学的意識)と定義したのでしょうか?



心理学とは、心を研究する学問である

と思われがちですが

むしろ行動を研究する学問という方が近いといいます


例えば、「Aさんは、優しい人である」といっても

その心を直接観察できるわけでなく

Aさんの行動を観察して判断するしかないからです




そんなところから

「心理学」で扱う「心」は

外面的に観測することができる意識である


ゆえに、機能的意識=心理学的意識

としたのだろうと思います



しかし、心理学こそ、深層心理とか、潜在意識という

顕在化されない意識を扱う学問です


つまり、分類は、デタラメであるということです






なお、心理学的な話をすれば

人は「自分の意志で行動している」と思い込んでいますが

そのほとんどが、潜在意識に支配されているといいます



なので、人前で話をしようとすると緊張してしまう

タバコやギャンブルをやめたいと思っていてもやめられない

痩せようと思っていても本気でダイエットに取り組めない

眠りたいのに眠れない といったことがおきているそうです



そして一般に意識と呼ばれている顕在意識は1割にすぎず

9割が潜在意識(無意識)であるという話もあります




表象理論




Top page


哲学的ゾンビ (ひとつ戻る)


 



 自己紹介
運営者情報




 幸福論




 価値論




言葉と
世界




食べて
食べられ
ガラガラ
ポン





 時間論




Suiseki
山水石美術館




 B級哲学
仙境録