カルテジアン劇場は「真」である 近代哲学の父と呼ばれる デカルト(1596~1650)は “我思う、ゆえに我あり”と唱えました 考える私(精神)と、考える対象(肉体を含めた外界の物体)は それぞれ実在するという「主客二元論」「心身二元論」です 西洋哲学というのは デカルト以来、こうした「主客二元論」「心身二元論」が主流でしたが ダニエル・デネット(1942~・アメリカの哲学者。心の哲学が専門)は こうした伝統的な考え方を 「カルテジアン劇場」という形にモデル化して批判しています 「カルテジアン劇場」 〔カルテジアンとは「デカルトの」という意味の英語 デカルト劇場、デカルトの劇場などとも訳される〕 とは 人間の脳(劇場)の中に 小人〔ホムンクルス・ もともとヨーロッパの錬金術師が作り出す人造人間をいう言葉〕がいて 身体を通して経験されたコトを、鑑賞するかのような役割を果たしている といったものです ホムンクルスが、主体、考える私にあたります ダニエル・デネットは これが伝統的な意識のモデルであると指摘し これを「カルテジアン劇場」と呼びました ダニエル・デネットによると ≪このように経験された感覚的データが ホムンクルスの前で上映される「カルテジアン劇場」など架空で ホムンクルスという中央本部のようなものを 脳の中のどこかに発見できるような思い込みは、誤りである 脳は、情報を、空間的・時間的に分散されたかたちで 処理しながら意識を生産するのであり 脳の特定の部位を選び出して 特権的な意識の座とするのは、間違えである≫ というわけです 彼は、こうして「主体」を否定していますが 言えることは 意識が、≪脳全体のネットワーク機構≫ ≪創発≫によって 生まれていようといまいと 価値判断する主体は 世間のしきたりやしがらみ、常識や人気などで ものを見てしまうパラダイム 自分の経験や知識で ものを見てしまうパラダイム という2のパラダイムのもとに 情報を処理し、感情といった意識を生み出しているということです 主体は、「カルテジアン劇場」という中央本部にいて プレジデントチェア(社長椅子)に座っている また、主体は、色眼鏡(2つのパラダイム)をかけいている 主体は、もたらされた新聞の「情報」を読み ≪感情≫や≪意思≫という意識をつくりだしている あるいは、主体が、「カルテジアン劇場」という パラダイムの部屋において それをなしている といった感じが 意識というものを理解する上で 一番、イメージしやすいモデルではないかと思います もちろん、実際のところなんて分かりませんよ 科学者だって、現段階では分からないのだから(笑) 要するに 私が言いたいことは 情報を認識し、価値を判断する主体が いなくて 誰が価値を判断するのか? という話です また、デネットの「劇場」をもたないという考えは 主体が、パラダイムという 固定観念の部屋をもたないということです それではなにを根拠に 主体は、価値を判断しているのですか? という話でになります(笑) では、あなたが、山で遭難したとしましょう このとき、あなたにとって 価値をもつのはダイヤモンドではなく、500mlの水です このように、価値とは 環境や状況と一体の自分=主体が モノやコトに価値を与えることで 生じるのです 山で遭難したという状況と一体の主体が 500mlの水に、価値を与えるのです おなか減っている状況や環境の主体にとって ラーメンは価値をもつのです つまり、主体を消滅させて 主客を統一しようなんていう ダニエルの思考は 低劣きわまりまいということです 主体は、ただ受動的に世界を認識しているのではなく パラダイムをもとに、価値的な世界をつくりだしているのです また、膝が痛かったり、腰が痛かったりすると 心、精神も辛い このように、我々の心は、仏教的にいうと 「色心不二」〔生命の物質的側面と、精神的側面は 2つにして2つにない切り離せない。一体であるということ〕です 我々の生命が「色心不二」ゆえに 徳川家康でも、ケネディ大統領でも となりの家の猫のミケでもなく 「私は私である」という明確な意識をもつのです 老化現象によって 膝が痛かったり、腰が痛かったりすると 心、精神も辛いです このとき、主体という存在は 思い通りにならない自分の身体対して 「はがゆさ」を感じます 主体は、自分の身体 もっというと自分の色心不二の生命から 離れることはできませんが 色心不二の≪辛い≫という「心」とは違って 色心不二の生命に対して、≪はがゆい≫と 客観的に評価できる存在でもあるのです 脳の知覚と主体の認識 コンピューターに常識はない (ひとつ戻る) |
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