フフロイトとユング ② ユングの集合的無意識、元型、シンクロニシティーなど



 心と存在


「心の哲学」の嘘を暴く!!


 




参考資料

フロイトとユング
と潜在意識 ②





ユングの集合的無意識



ユング〔カール・グスタフ・ユング・

1875~1961。スイスの精神科医、心理学者〕

の研究は


精神医学、心理学ばかりでなく、人類学、比較宗教学にまで及び

現在も大きな影響を与えています



ユングは、キリスト教や自然科学を絶対視する

ヨーロッパ中心主義に反対し


東洋に大いに興味を持ち

中国の易経〔儒教の経典。五経の1つ。占筮(せんぜい)の書〕や

日本の禅などを紹介したそうです


とくに、密教の曼荼羅は

自己を表現するものだと考え、重視したといいます



当初、彼の思想を理解する者は少なかったそうですが

70年代頃より世界が注目しだしたといいます



また、≪人生の意味を喪失した者は、国家の奴隷への道へ進んでしまう

独裁国家は、個人の宗教的な力を吸収し、神の位置にかわる≫と述べ

独裁主義・国家主義とも対立したといいます




それから、ユングによると

≪ 理想な人生とは

幼年期は、両親および周囲の人から愛され安心感をもって過ごし

青年期は、より高次な存在・神聖な存在を求める努力に生き

壮年期は、他者への奉仕につとめ

老年期は内面性に生きて人生を肯定できることである ≫

といいます





ユングは

無意識に存在するリビドー(衝動・欲動)を

フロイトよりもはるかに幅の広いものと考え、フロイトと訣別したといいます



フロイトは、人の心理を、無意識層にひそむ

「性衝動」に基づくものと考えましたが


ユングの考えるリビドーとは

あらゆる知覚、思考、感情、衝動の根本となるエネルギーであり

それは性衝動ばかりでなく、創造的要素も含むエネルギーだといいます



そして、心は、快楽の原理につき動かされ支配されているのではなく

自律的に制御されていくと主張したそうです




それから、ユングは、自我と自己を立て分けています


意識は、自我とペルソナ(仮面)から成り、自我が意識の中心だといいます


ペルソナは環境に対処する「顔」で

自我とペルソナに不調和が生じると、心理的負担が生じるとしています


一方、自己は、意識、無意識を含めた心の中心として位置付けています



そして、≪意識は、無意識より生じ

意識と無意識は、互いに補い合っている

意識が統合性を失い一面的になると、これを補って

さらなる高次の統合へと至らしめる存在が無意識の中にある≫

とし


≪自己実現とは、このような無意識の働きを意識化していくことである≫

といったようなことを主張したようです




さらに、≪フロイトの説く「個人的無意識」は、経験に基づくものか

抑圧された願望をさし、基本的には意識できるものだ≫と主張し


その上で、無意識には「個人的な無意識」と

人類共通あるいは民族共通の≪普遍的無意識≫である

「集合的無意識」があることを主張しています



集合的無意識とは

≪個人的な経験を超えたもの≫

≪種族的に遺伝されてきたもの≫

≪全く意識されることはないが、全人格を支配するもの≫

といいます




なお、ユングの集合的無意識が具現化されたものが

「文化」ということになります



しかし、集合的無意識というのはホントにあるのでしょうか?


もしあるとするならば

なぜ西欧はキリスト教一色になり

アラブはイスラム教一色になったのでしょうか?



文化というのは

もっと単純な構造主義的なものからくるのではないでしょうか?



「構造主義」とは、個人が所属する構造

(国家・民族・歴史・言語・文化・伝統・生活様式・社会階層など)が

人間の主体性や意識(思考活動)に先行するという立場で


主体は、国家・民族・歴史・言語・文化・

伝統・生活様式・社会階層などといった

≪構造≫によって決定づけられていると考える立場です



簡単にいうと、日本という構造で生活することによって

主体に日本人という意味づけがなされているということです




よく言われるのが

サッカーの国際試合やオリンピックを例にして

≪日本人なら、日本を応援する≫ → 集合的無意識

ですが


これって単に、日本に生まれたから、日本を応援する

というだけであって


両親が日本人で、その遺伝子をもっていたとしても

アメリカに生まれ、アメリカで育ったならば

まず、アメリカを応援するはずです




しかも、これも総体的な話で、ワールドカップサッカーで

「俺は、日本よりも、ブラジルやヨーロッパのチームを応援しているよ」

という人も少なからずいるはずです



これはどんな文化においても言えます


三味線や琴よりも、バイオリンやピアノの方が好き

川合玉堂や横山大観よりも、ゴッホやルノアールの方が好き


姫路城や平等院よりも

ホーエンツォレルン城(ドイツ)やミラノ大聖堂の方が好き

という人も多いはずです




こうしたことから考えても

文化というものは

雪国や南国などといった気候風土的な影響はおいとくとしても


日本というレイアー(構造)よりも

地域的、家族的なレイアーの影響を大きく受けている

と言えるのかも知れません



例えば、ねぶたの時期には

地域住民総出で、祭りの準備にとりかかるとか


母親がピアノの先生であったことから

幼少期からピアノに接してきたとか


そういったことに、個人的な文化は、大きな影響を受けている

と言えるのではないかと思います




そうなると「集合的無意識」があるとすると

どんなことが考えられますか?



世界のどこかの国で苦しんでいる人がいても

道徳的な感情が湧いてこないのは


我々人類が「遠くの人を助ける」という経験を

進化的にしてこなかったことが原因だという人がいます



我々は、仕事でもグループ同士いがみあったりしますよね


同じ会社の仲間であっても

違うグループの人間に対し敵対意識をもちます


これも同じ理由のなのかもしれません



私たちは進化的に群れ同士争ってきたことから

そういった感情判断がなされるのかもしれません



いずれにしても

グループ意識を支えている無意識が

≪集合的無意識≫であることは間違えないはずです



戦争などがあったときは

「日本人」という意識のもとに、結束するわけですが


この意識を支え、真に結束させるのが

「集合的無意識」と言えます



また、平和なときは

幼稚園のママ友仲間で、うちの子が一番、優秀であるとか

同じ会社で、うちのグループが一番、成績がよいとか


こういった意識の底で

働いていたりするのではないでしょうか・・・・



要するに

≪自分の根拠の幸福≫に根ざしたグループ意識を支える

潜在意識が「集合的無意識」ではないかと思います







ユングの元型



ユングは、分裂症患者の妄想や幻想を研究し

また様々な地域の昔話や神話も研究し


〔このため、北アフリカ、アリゾナ(アメリカ西部)

メキシコ、東アフリカなどを旅行している〕


さらには、正常者の夢や空想などをも比較研究した結果


これらに、時間や空間を越えて、つまり文化を超えて

共通したものがあることを発見したといいます



それが有名な元型(げんけい)です


集合的無意識とは、元型の集合体といえ

普遍的無意識とも呼ばれています


また、元型は、本能とともに遺伝的に備わっているといいます




ユングは、人類が共通して持つ普遍性の高いイメージを

「原始心像」と名付け


のちに、全ての人間の心の中に

「元型」というイメージや象徴を生み出す源が、存在すると主張しました





元型って、具体的にはどのようなものなのか?


よく言われているのは、キリスト教の神や、仏教の仏・菩薩などは

人類共通の無意識層に存在する人間の理想像(元型)が

表現されたものであるという話です



ユングは、≪ 元型自体は、人間が知ることはできない

しかし元型的イメージは、意識によって把握できる

宗教的シンボルなどがこれにあたる

ゆえに世界の神話や宗教的シンボル(曼荼羅など)を研究すれば

元型の存在があきらかになる ≫

と言っています



ユングによると、元型は

≪民族や文化を超えて、世界の物語・神話・文芸・儀礼などの

主題・モチーフの中に繰り返し現れる祖型≫

だそうで


「神話的な元型」とか「神話的な創造力」などとも呼ばれています





具体的には


「自我」〔エゴ。意識のなかにある唯一の元型

意識の中心。意識的行動や認識の主体〕



「自己」〔ゼルプスト。心全体の中心〕




「影」〔シャッテン。肯定的な影と否定的な影がある


肯定的な影は自我の活かされてこなかった側面

否定的な影は自我の受け入れたくないような側面


意識に比較的に近い層で作用し、自我を補完する作用を持つ


また、自分が隠したい性質(影)を

他者にみつけられると、影を批判したり、攻撃したり

逆に、甘やかせたりするという


ユング心理学では「影」を、否定せず

自己の一面として受け入れることで

≪大いなる自己≫への成長

≪自己実現≫へのきっかけとなると言った話がなされている〕




「アニマ」〔男性の心の深層にある女性像。女性のイメージ

生命的な要素で、受容的特徴を持つ〕



「アニムス」〔女性の心の深層にある男性像。男性のイメージ

理性的な要素で、選択的特徴を持つ〕



「太母」〔グレートマザー。大地母神

すべてを受容する大地の母としての生命的原理

マイナス面が強くなると、包み込むというより飲み込む存在となる

自己元型の主要な半面〕



「老賢者」〔太母と対比的で

理性的な智慧の原理。自己元型の主要な半面〕




「ペルソナ」〔自己の外的側面

アニマ・アニムスが、自己の内的側面であるのに対する

周囲に適応するあまり硬い仮面(ペルソナ)を被ってしまう場合や

逆に仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合もある


男性の場合にはペルソナは男らしさで表現されるが

内的心象はアニマであり

ペルソナとは対照的に女性的である


女性の場合も、ペルソナは女らしさで表現されるが

内的心象はアニマであり、ペルソナとは対照的に男性的である〕




「トリックスター」〔神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り

物語を引っかき回すいたずら好きな存在


日本の神話に登場する須佐之男命(すさのおのみこと)や

サーカスのピエロなど


閉塞した状況を破壊し、建設的なものを創造したりするのに有効

場をかき乱したり、その場の空気を壊すだけの破壊者になる場合もある〕



「英雄」〔新しい秩序や価値観をもたらす存在

トリックスターが高次の働きをすると、英雄となる場合もある〕



この他にも「子供」「永遠の少年と永遠の少女」など

多くの元型があるらしいです




これら「元型」のうち、とりわけ知られているのが

アニマ(本来はラテン語で、魂や生命を意味)と

アニムス(アニマの男性形)です



アニマという元型が、男性の心理に働くことで

現実の女性を理想化する反応が示されるといいます


恋愛に失敗した男性は

投影したアニマを失うことで心理的に損害を受けるそうです




人間は、男らしいとか女らしいとかいう

仮面(ペルソナ)を被ってますが


無意識の深層には、男性にはアニマ(女性像)が

女性にはアニムス(男性像)が存在するということになります



自我(意識の中心)は、ペルソナとは逆の

アニマ(アニムス)によって補償されているそうで


このアニマ(アニムス)をできる限り意識化し、人格の統合をはかる

これが、ユングのいう「自己実現」らしいです



ユングの自己実現は

新たな自己を創造していく過程ではありますが

ペルソナを被った自己を破壊する過程でもあるわけです



但し、後期には

無意識を意識と統合するには、異性像の統合より

「精神全体の中における

対立するもの同士(ペルソナとアニマ?)を統合せよ」

と論じたといいます




≪元型は、古くから宗教が神話や儀礼の中に表現されてきたが

宗教改革によって、現実の生活から排除されてしまった

元型によって示される無意識を意識と統合しなければならない≫


≪これが個性化であり

あるべき自己の姿を認めること=自己実現である≫

とユングは考えたそうです







他人は自分を映し出す鏡



「他人は自分を映し出す鏡」「他人は自分の鏡」


一般的な解釈すると

自分の心の状態が、相手の態度に映し出されるように現れる


相手に好意を示せば、相手も自分を大切にしてくれる

なので、自己の変革が、環境変革になる とか



≪他人のふり見て我がふり直せ≫

といったことわざにあるような意味

なのでしょうけど



心理学や、スピリチュアリルな思想においては

様々なとらえ方がされているようです



スピリチュアリル思想においては

「他人は自分の鏡」で

波動が同じ人が、自分の周囲に集まるなどと語られます





心理学では

相手に対し、嫌な感情、否定的な感情を持つとき

それは自分の中にもある、否定的な面を

他人を鏡として見ていること=投影 であるといいます



そこから

【 相手のイヤな面や、我慢できない面というのは
 
潜在意識の中にある

自分自身のイヤな面や、許すことのできない部分の

投影である


相手にそれを感じたら

自分に対し「気付きなさいよ」というサインである 】

などとて語られます




この話は、あまり普遍性があるとは思えないのですが

ユングの元型の「影」を、根拠にしているのかもしれません





こうした普遍性の乏しい話ではなく

≪<他人は自分を映し出す鏡≫をいうなら


他人は、自分の優越・劣等を、映し出す鏡と言えます



自分が憧れている地位や名誉

あるいは生活を、手にしている他人が

自分の劣等性を明らかにし、不幸を感じさせ


逆に、自分よりみじめな立場にあったり

哀れな生活をしている他人が

自分の優越性を明らかにし、幸福を実感させる




自分が欲することを

可能にしている他人に対しては「劣等」を感じ


他人が欲することを自分が可能にしているときには

他人に対し「優越」を抱きます



このように、他人とは、自分という存在を

浮き彫りにさせる「鏡」であると言えるのです







ユングのシンクロニシティー



それから

ユング自身が提唱した「シンクロニシティ」というのが面白いです


「共時性原理」とか「意味のある偶然の一致」とか訳されます


簡単にいうと

神秘体験とまでは呼ぶに値しない神秘体験みたいなものです



偶然 不思議な体験をするなんてことは誰しもありますが

ユングはそれを必然的に見て


≪偶然を装いつつ、自分の進むべき道を示してくれている≫

ととらえ

≪意味ある偶然≫と表現したわけです



よく、シンクロ二シティの例に使われるユング自身の体験があります


ユングが、若い女性患者と話していた時に起こった

シンクロニシティです



≪「ある日、窓を背にして彼女の前に座って

彼女の雄弁ぶりに聞き耳をたてていたのである


その前夜に、彼女は、誰かに

黄金のスカラベ(神聖昆虫)を贈られるという

非常に印象深い夢をみたのであった


彼女がまだこの夢を語り終えるか終えないうちに

何かが窓をたたいているかのような音がした


振り返ってみてみると、かなり大きい昆虫が飛んできて

外から窓ガラスにぶつかり


どう見ても暗い部屋の中に入ろうとしているところであった


筆者はすぐに窓を開けて、中に飛び込んできた虫を空中で捕らまえた


これはスカラバエイデ、よく見かけるバカラコガネムシで

緑金色をしているので金色のスカラベに最も近いものであった


『これがあなたのスカラベですよ』と言って

筆者は患者さんにコガネムシを手渡した


この出来事のせいで

彼女の合理主義に待ちわびていた穴があき

彼女の理知的な抵抗の氷が砕けたのであった ≫


(『共時性について』エラノス叢書2 「時の現象学2」所収 平凡社 より )



「占い」はどれも、シンクロニシティの原理を利用している

といいますし


恋愛における「赤い糸」なんかも

一種のシンクロ二シティということになります







私は日本200名山の150は登っています

名山に入らない山も加えると400や500は登っているでしょう


もちろん私なんかよりずっと多くの山に登ってる人は沢山います


かといって、私くらい山に登っている人もそうめったにいないですよ


そんなことで山での不可思議な体験は数知れません



そこらへんのお坊さんや神父さんといった人たちに比べたら

はるかに不思議というか神秘的というか

そういった体験、シンクロニシティを経験しています




高校生時代は「旅」に明け暮れました


春、夏、冬の休みには、野宿したり列車の中で寝たりしつつ

列車とバスを利用して日本中の観光地を巡りました



そんなことから、山登りに移行してからも

「景色」に異常に執着してしまうのです


ピークを制覇して喜びに浸るという

ピークハンター的登山もあっていいし

そういう登山をしている人が多いですが


私は頂上に立っても、霧やガスなんかで景色がみれないと

悔しくてたまんないって感じになるのです



私の山登りは、基本全てが「闇登山」です

夜中に登ります


夏なら5時半くらいには頂上に立てるように登山するのです


夏だと8時すぎにはガスが出て

展望が得られないなんてことはあたりまえにあります



雲一つない完全な晴れでも

よほど高気圧が強いとかでない限り

夏なら10時くらいにはガスは出できます


だから「100名山を登った」という人でも

ふつう半分以上は展望を得ていないわけです



私のように

「100名山全てで展望を得たい」なんてことをするなら

そこまでしないとムリです


それに7時くらいまでは光線状態がいいので、いい写真が撮れるのです



東京から、南会津あたりの山までは日帰りしていました


高速道路飛ばして4時間、高速降りてから登山口まで1時間

〔登山口がわからず周辺で1時間くらいうろつき回ることも多い〕



登山口から山頂まで4時間かかるとなると

仕事(しかも肉体労働をしていた)を夜の7時に終えて

9時には出発しなきゃなりません


登山口に夜中の2時頃着いたら

30分ほど仮眠して、登山なんてのもザラでした



そうすると、山頂に6時半には着く

急いで降りてくると朝の10時頃には下に着きます


秋とか初冬だと午後になっても山がガスらないことがあります



そしたらまたここまで来るのには

お金的にもエネルギー的にも大変なので

3時間くらいで登れる別の山をやりにゆくわけです(笑)



車でその山の登山口まで2時間かかるとしても

昼の12時から登山できます


そうすれば、ゆっくり登ったとしても

夕方の3時半には山頂に立てます


つまり日が暮れる前に山頂に立てます


そうすれば写真が撮れます

あとは、懐中電灯で降りてくればいいわけです(笑)



家につくのは夜中ですが

もちろん次の日、早朝から仕事でした



夏の富士山は、多くの人が夜に登りますよね

五合目まで車で行けるから

そこから登って、頂上で御来光を見るのです


富士吉田の街から

懐中電灯の明かりがつらなるのが見えるくらいです



また、日本アルプスなんかでは

頂上から1時間くらい下の山小屋に泊まって

御来光を見に日の出前から山頂を目指す

ということもよく行われています



だけど、私のようにほとんど全部

下から闇登山している人っていないんじゃないですか?


少なくともいまだ知らないですよ(笑)



そんなことをやって400も500も登ってきたから

「こんなにすごい光景を自分一人が見てていいの!」

「これって神様のプレゼント?」

なんて思えるような体験がいっぱいあります



そんな経験の中で一番感じているのは

≪一度失敗して思い入れがとても強くなった山≫とか

≪とても苦しんで登った山≫とか

≪2度とこられないような山≫とかは

たいてい展望を得ることができるということです



また「今日は雨の中これだけ苦労して登ってきたのだから

明日も雨っぽい予報だけど、晴れるんじゃないかな?」

という予感のようなものがあったりすると

本当に翌日、そのとおりになるような経験も何度かしています



そういった経験を人に話すと

「あれだけ山に登っていれば不思議なことだってあるよ」

って言われますが


自分の感覚としては

“全部単なる偶然”では説明がつかないのです



思い入れの強い山が晴れるというのは

≪祈りは叶う≫ということなのかな?

という質問には


分かりません

ホントに単なる偶然かもしれないですし・・・



ただ「祈り」というのは

行動の中にすでに存在していると思います


頂上に美しい景色があるはずだと、まず信じ

登るまでには、仕事のことをすませ

高速道路を何時間もかけて車を走らせる


そして夜中、山の中だから誰にも聞くわけにいかず

登山口をさんざんと探し回り、それからほとんど寝ずの状態で登る



このように頂上に立つまでには

すでにたくさんの祈りが、行為の中に存在しているのです


宗教のように何かを拝んだりして願いが叶うというよりは

努力によって叶う面の方が、私の実感としては強いです







葛藤と抑圧



幼児や小学生のときの体験は

その人の「本質」の土台となるとされます


これは、大人になってから受けた「痛み」は、頭で理解できるが

子供のときに受けた「痛み」は、感覚的にしか理解できない

からだといいます



心理学では、恐怖に対し


いったい自分は何を恐れて緊張するのだろうか?

と考えてみて


恥をかきたくないとか

嫌われたくないとか

笑われたくないとかいった答えを出したり



何に対して自信がもてないのだろうか?

と考えてみて


何を話せばいいのかが分からないとか

相手にしてもらえる自信がもてないとか

相手を退屈させてしまうかもしれないとか

いった答えを見つけたりてるとよいとされます



さらに、どうして自分がそう思ってしまうのかと考え

親が厳しくていつも否定されてきたからとか

他人に認めてもらえる価値をもたないからとか

いった答えを見つけるとよいとされます



そして、見つけた原因を癒していきなさい

こうした自分の心との対話自体が、自分を癒すことになる

人は自分の心を分析し、理解することだけで癒される


なんて教えます





心理学によると、不安や恐れの原因は

「抑圧」と「葛藤」にあるといいます



「抑圧」は、受け入れ難い過去の記憶や感情を

無視したり否定したりすることで

無意識(潜在意識)の中に閉じ込めてしまうこととされます



ところが、現実に起こった事実は、いくら無視したり否定したりしても

潜在意識では、知っている



そこで、意識化されている偽りの自分と

無意識の中に抑圧した現実の自分とが生まれ


2つの自分が対立状態になる  これが「葛藤」だといいます



葛藤があると、いいしれぬ不安となってあらわれるそうです



また、抑圧された現実を受け入れるには

大きな「痛み」をともなう  なので、抑圧し続けるとされます



しかし、心に傷を負ったときと同じようなことが起ると

無意識の中に抑圧した記憶が、意識上に上がってくる


するとより強く抑圧をする→ 不安が大きくなる

という仕組みらしく


葛藤によって、日常生活に支障が出てきた場合を

「神経症」と呼ぶそうです






人間は、様々な方法で、自分の心を守るようです


その手段を、心理学では「防衛機制」と呼ぶようです



「抑圧」の他にも


何かと理由をつけて自分を正当化したり

責任転嫁をしたりする「合理化」



自分の心のなかの嫌悪する部分が

相手の心のなかにあると思いむ「投影」



「自分は特別である」という抑圧した自分とは

正反対の自分を創造する「反動形成」



嫌っている上司を≪慕っている≫ ≪尊敬している≫

と思いこもうとする心理



さらに、仕事を変えたり、空想の世界に入り込む「逃避」



八つ当たりなどの「置き換え」



できないという劣等感を、別のこと補おうとする「補償」


なんかがあるそうです







心理療法



心理療法には、流派が色々あって

流派によって様々なようですが



認知行動療法以外、基本は

抑圧された現実を受け入れれば、葛藤がなくなり

不安がなくなるということから


「精神分析」により

抑圧された記憶を意識化することが、中心だといいます




とくに、フロイト派は

無意識層へ抑圧されている感情や記憶が

神経症などを引き起こすと考える立場から


抑圧された記憶を意識化し

真実の歴史を紡ぎ上げるという作業が重視されるそうです



具体的には、患者の心の奥にある抑圧された記憶は

夢や自由連想のなかに象徴的に表れるので

それを心理療法家が解釈することで

次第にその内容を明らかにしていくとされます




【 自由連想・・・・ フロイトが考案したもので

患者をソファなどに寝かせ


余計な言葉をはさまず

ひたすら患者のつぶやき(連想)に耳を傾けることで

無意識にある抑圧された記憶や感情を吐き出させる治療法


患者に抵抗が生じ、連想が難しくなるので

分析医はその抵抗を足がかりに解釈を行うという 】






ユングは、心の深層に、神話的な創造力があると考え

フロイトと決別した人なので


ユング派は、神話的な創造力がうまく作動しないことから

様々な問題が起こると考えるようです



そこで、無意識層に具わる創造性を発現させ

人生を創造的に生きていけるようにさせていく

ことが中心だといいます



フロイト派が「解釈」を重視するのに対し

ほとんど解釈せず、来談者自身が夢や自由連想について

自己洞察していくようにするといいます





信頼関係から恋愛感情に発展する現象を

「感情転移」というそうです


また、好きになる転移を「陽性の感情転移」

嫌いになる転移を「陰性の感情転移」というそうです



この転移は非常に強力で、いったん情が移ると

意識レベルではどうにもならなくなるといいます



確かに拾ってきた犬や猫に

情が移ってしまうとどうしようもなくなりますよね




≪転移≫という現象を、臨床の現場で

最初に発見し発表したのはフロイトだとされ


フロイトは患者とコミュニケーションを重ねてゆくうちに

患者の不安定な心が自分に乗り移ってくるかのような感覚に陥り

転移を発見したそうです


これは心理学の歴史上偉大な発見だとされています




患者の女性が、信頼していた医者に対し恋をする(転移)


その医者は「医師とは最も神聖な職業である」なんて言っていても

無意識の力にはあがらえず、彼女を好きになってしまう(逆転移)


なので、フロイトは「医者はその転移から逃れるという方法を

採用しなくてはいけない」と言ったそうです



これに対し、ユングは「転移」をむしろ肯定的にとらえ

「患者は医者を信用して心を開くのであり、転移なしには

患者から情報を得られず、操作もでない」と主張したといいます





アドラー派の心理学では

あらゆる悩みや苦しみは、すべて対人関係上の問題であるとし

共同体感覚(共同体=社会に貢献することで得られる満足感)

を重視するといいます





カール・ロジャース〔1902~87・アメリカの心理学者。心理療法家〕は

「来談者中心カウンセリング」というのを創始した人で


今日のカウンセリングや心理療法に

もっとも強い影響を与えた人物とされています



彼は、来談者との会話から

「来談者は、自分自身、どこに問題があるのか知っている」→

「人間にはもともと自分で問題を解決する力がある」→

「心理療法家はその力が発現できるようにしむけていけばいい」

と確信したといいます




なので、ロジャース派では

来談者に対し「受容」「共感」「尊重」という態度で接し


たとえ幻覚や幻聴であっても

来談者の体験を、全て現実として受け入れるといいます



これによって、来談者には「自分を理解してもらえた」

「わかってもらえた」という感情が生まれ


それが心の支えなって、自分で問題を解決していくというものです







なお、心理学とは、心を研究する学問である

と思われがちですが

むしろ行動を研究する学問という方が近いといいます


例えば、「Aさんは、優しい人である」といっても

その心を直接観察できるわけでなく

Aさんの行動を観察して判断するしかないからです





「認知行動療法」というのは

もともと反目しあっていた「行動心理学」

〔人間の内面的部分は、不確実で客観性に乏しいとし

外に表れる行動だけを研究する心理学〕と


「認知心理学」〔人間の内面的な部分を研究する心理学〕が

歩みよって生まれた心理療法で


現在では、行動療法と言えば、ふつう認知行動療法をさすそうです



コンビニでは、客はどのような動きをするのか →

どのような法則で商品を選べるとよいのか

といったことから、商品の配置を決めます


これは「行動心理学」にもとづきます






認知行動療法は

「恐れ」や「不安」の原因となっている

無意識にある抑圧された記憶については全く触れません


脳のコントロールだけを目的とするといいます



例えば、スピーチ恐怖症を

人前で話しをさせること=慣れること によって


つまり、スピーチに対する意識を

潜在意識に落とし込んでしまうこと によって

克服させていくというものです



認知行動療法の場合

日常生活が不自由なく送れるようにすることが目的なので


人前である程度話せるようになれば

多少、恐怖感が残っていたとしても、治療は終了するといいます



もちろん、いきなり慣れさせるというのではなく

まず、どんな場面で恐怖を感じるかを分析し


恐怖度の低いレベルでの

イメージ・トレーニングから入り


徐々にレベルを上げて行き

それから実際の場面での会話に移るそうです



おもしろいのが

思考を「うまくしゃべれなかったらどうしよう」から

「会話することに、恐怖感を持つのは、無意味で不合理だ」

といったところにまで作り変えてしまうそうです







「帰納法のパラドックス」というのがあります


帰納法とは、A社製のテレビが壊れた

デジカメが壊れた パソコンが壊れた

だから「A社製は全て壊れやすい」

というような結論のみちびき方をいいます


これに対し演繹(えんえき)法は、前提を認めるなら

結論もまた必然的に認めざるを得ないという推理方式です


A社の製品は全て壊れやすい

だから「A社製のプリンタは壊れやすい」というのが演繹法です




Aという豚は、Bという人から毎日餌をもらって、餌を食べるたびに

「Bさんは人間たちの中で最も親切な人だ」と信じるようになる


経験に基づく帰納法的な思考とは、こういうもので

餌を食べる回数が増えるほど、つまり経験値が増していくほど

確信が深まっていき、安心の最大値が


悲劇の最大値を示すというパラドックス(逆説)です



経験したからと

胸を張っている人の間違えを指摘したパラドックスでもあり

未来の予測は不可能であることを示すパラドックスでもあります




心そのものは見えないけど、心は行為にあらわれます

ジュースを飲みたいという心理があってジュースを飲むというように・・・


そこで人の全ての行為には意味があると考え

そこから心というものを知ろうとしたのが心理学です



ただ、人の心って

すべて行為や行動にあらわれるのでしょうか?


結婚する前は、優しかった人が

結婚したらとたんに、いちいち束縛してきて

暴力までふるうようになったなんてことはよくあります


これも帰納法的な思考からの失敗です







偽りの歴史の自分について



心理学においては、真実の歴史をつむぎ出して

≪偽りの歴史の自分≫と

抑圧されている≪真実の自分≫を自己統一する


それによって、葛藤も不安も消滅するとされています



しかし、人間というのは

本質的、根源的なところは、そんなに変わらないとしても


他のことは、自分の今いるポジション、相手との関係

そういった「都合」によって、様々な自分を演じて、生活しています



つまり、時と場所と場合に応じて

≪偽りの自分≫を創造し、社会生活に適合させています



≪自分≫というのは

本質的、根源的な欲望を達成する手段なのかもしれません



どの自分も、本人の価値判断(必要性)において

創造した自分、という意味において


どの自分が真実の自分で、どの自分が偽りないて言えませんよね



また、様々な自分があるといっても

本質的、根源的な欲望において、自己統一がなされています




自分の歴史が、自分の存在の根拠になるのではなく

救済原理〔自己を成り立たせている根源的な論理〕

こそが自分の存在根拠になるはずです




幸福の源泉は

「救済原理」(自分を成り立たせている根源的な論理)

「存在の根拠」です



存在の根拠は、人によってそれぞれです

仕事、家庭、趣味、宗教、思想、容姿・・・


「私は〇〇ラーメン店で麺打ちが一番早くできる」

「私は〇〇家の父である」

「私はこんな珍しいモノを持っている」

「私たちは神に選ばれた選民である」

「日本は神国」である・・・・



人によって「救済原理」「存在の根拠」はさまざまですが

それによって自分という存在を成り立たせ


人生に生きる意味を与え

生きがいとアイデンティティーを得て

人はここに人としているのです





救済原理=自分の根拠=

アイデンティティとは、≪優越そのもの≫と言えます



優越というと≪人と比べて自分はすぐれている≫

といった意識を想像すると思われますが


むしろ、≪私はこんなことができる≫とか

≪私にはこれだけのことができる≫という自己肯定こそ

優越の本質です




そうなると、無意識の中に抑圧した現実の自分とは

≪偽りの歴史においての自分≫ではなく

≪劣等の自分≫であって


それを意識化することで

心の葛藤がなくなり、不安がなくなるというのは、矛盾があります





なぜ人間は、偽りの自分と同居できるのか?


それは、人間という存在が

いくつもの救済原理を、同時に持つことが可能だからです



例えば、愛の宗教と言われるキリスト教が

原理に反する人間を異端者として殺してきた歴史なんて

まさにそうした矛盾を象徴しています



ユング的にいうと、愛がペルソナ(仮面)で

魔女狩りのような原理主義的意識が

エゴ(自我)みたいなものではないでしょうか?(笑)





もっと言えば

聖書自体が矛盾のかたまりのようなものです(笑)



神より授かった「十戒」には、殺人の禁止があるのに

モーセは、黄金の雄の仔牛像を作って崇拝していた

仲間をみな殺しにしている


また、パレスチナにたどり着いた後継者のヨシュアは

「ここは私たちと神との約束の地である」とし

原住民であるエリコの民を

女性や子供・乳幼児も含めて全員虐殺したとある



聖書自体が矛盾のかたまりというのは

それをつくった人間がそうであることを意味しているということです




こういう自語相違ものを信じてしまうほどに人は弱い

人間ってやつは、説明さえあれば

それがどんなに根拠のない嘘でも満足する

救われるわけです





精神的なホメオスタシス(恒常性)は

救済原理・存在の根拠によって成り立ち

自己はそれによって補完され、保たれていると言えます



そして、いくつも救済原理を持ち得るのは

そのうちの一つが崩壊しても

自己崩壊を起こさないための仕組みと言えるのです




結局、≪自分≫というものは

創造していくものであり、その意味では

全ての自分が、≪偽りの自分≫ということです




フロイトとユングと潜在意識 ①




Top page


 



 自己紹介
運営者情報




 幸福論




 価値論




言葉と
世界




食べて
食べられ
ガラガラ
ポン





 時間論




Suiseki
山水石美術館




 B級哲学
仙境録